東京湾から約千キロ南に位置し、大小30余りの島が点在する。大陸と陸続きになったことがなく、独自の生態系を持つことから「東洋のガラパゴス」と称される。1830年、欧米や太平洋諸島の人々が定住を始め、その後日本人も入植し、76年に日本の領土となった。太平洋戦争の影響で1944年、6886人の島民が本土に強制疎開。52年、サンフランシスコ平和条約により米国の施政権下に置かれたが、68年6月26日、日本に返還され、父島や東京・日比谷で記念式典が開かれた。
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東京から南方約一一〇〇キロの太平洋上に点在する三〇余の島々からなる。おおよそ北緯二八―二四度の間に北から
昭和初頭、東京帝国大学の中井猛之進が植物調査で北硫黄島に立寄った時、島民の石野平之丞から三本の磨製石斧を贈られた。開拓の際に発見されたものと思われる。甲野勇はこれを丸鑿型石斧として紹介している。石質は玄武岩であった。昭和四七年には父島・母島・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京のほぼ南南東、約1000~1250キロメートルの太平洋上に散在する島嶼(とうしょ)。別称ボニン諸島Bonin Islandsは無人(ぶにん)島の転訛(てんか)語。東京都小笠原支庁小笠原村に属する。北緯27度45分から24度14分の間にほぼ南北に並ぶ小笠原群島、火山列島(硫黄列島(いおうれっとう))を中心に、西之島、さらに沖ノ鳥島(日本最南端)、南鳥島を含む島々の総称。面積は小笠原群島に属する聟島列島(むこじまれっとう)6.5平方キロメートル、父島列島39平方キロメートル、母島列島27.3平方キロメートルで、火山列島は31.5平方キロメートル、その他を加えて合計104.41平方キロメートル、このうち父島は最大で周囲52キロメートル、面積23.80平方キロメートルである。
[菊池万雄]
小笠原群島は、伊豆諸島の南南東、伊豆・小笠原海溝の西縁をなす小笠原海嶺(かいれい)の上にのる第三紀始新世に海底から噴出した30余の小島、岩礁からなる火山列島で、北から聟島列島、父島列島、母島列島と、父島の西方約130キロメートルにある孤島の西之島とからなっている。島は山がちで低平地に乏しく、高い海食崖(がい)に囲まれ、湾は多いが、良港には乏しい。小笠原群島の最高点は母島にある乳房山(ちぶさやま)の463メートル。わずかばかりの平地も主として島の山頂上や尾根にあることと、構成する岩石が透水性の大きい安山岩質集塊岩や溶岩、およびサンゴ石灰岩であるために農耕にはあまり適していない。
気候は、亜熱帯海洋性で、冬の平均気温が17℃、夏の平均気温が27℃、年降水量は1600ミリメートル。大部分の島は森林に覆われており、ラテライト土壌(紅色土)が発達している。
火山列島は硫黄列島ともよばれ、小笠原群島の南西約200キロメートルにある。地質構造上からは、小笠原群島よりも新しく第四紀に噴出した火山島で、その発見および領有の歴史も群島と相違している。また、沖ノ鳥島は楕円(だえん)形の環礁でほとんどが海面下にあり、南鳥島は正三角形の隆起サンゴ礁である。
[菊池万雄]
一般に島の生物相は大陸と比べると貧弱で、島が大きく高いほどそこで繁殖する種類数は多く、大陸から遠く離れるほど種類数は少ない。そして、島の歴史が古いほど、その地域にしか分布していない特産の生物が多い。島の環境に適応したそれらの特産種は高密度で生息する。日本本土の生物相自体、中国大陸と比較すれば非常に貧弱で、伊豆諸島、小笠原諸島と大陸、本島から離れるほど貧弱の度を増す。一方、特産種は多くなる。
小笠原諸島に自然分布していた動物は、哺乳(ほにゅう)類では、飛翔(ひしょう)力のあるオガサワラオオコウモリPterops pselaphonただ1種である。飛翔力のある鳥類は、陸鳥類16種が分布し、繁殖した。そのなかで、特産の属に分化したメグロApalopteron familiare、オガサワラマシコChaunoproctus ferreorostrisのほか特産種はオガサワラカラスバトColumba versicolor、オガサワラガビチョウTurdus terrestrisの4種である。しかしメグロを除く3種はすでに絶滅した。また、ハシブトゴイNycticorax caledonicus、マミジロクイナPoliolimnas cinereusのほか、ノスリ、ハヤブサ、ウグイスなど計9種で特産亜種が認められているが、このうち前2種は絶滅した。海鳥にとって小笠原諸島はかっこうの繁殖地で、アホウドリ類3種をはじめ、ミズナギドリ、ウミツバメ、アジサシ類など合計14種の繁殖記録がある。海鳥のうち、クロウミツバメOceanodroma matsudairaeは硫黄列島だけで繁殖する。アホウドリPhoebastria albatrusは羽毛採取のため乱獲され、小笠原諸島から姿を消した。陸生爬虫(はちゅう)類は、オガサワラトカゲAblepharus boutoniiと、絶滅したオガサワラヤモリGehyra variegata2種であるが、特産ではない。海産爬虫類は、アオウミガメChelonia mydasが砂地海岸に産卵する。両生類、淡水魚類は1種も分布しない。陸産貝類は104種のうち98種が特産種である。また、昆虫類は1400種ほど記録され、その約3分の1が特産種である。海産動物は多いが、十分に調査されておらず、陸生無脊椎(むせきつい)動物についてもまだよくわかっていない。
このようにどの動物群をとっても小笠原諸島特産種が多く、小笠原諸島は生物進化の実験場ともいえる地域である。学術的価値が高いため、これらの生物の多くは天然記念物に指定され保護されている。しかし、島の環境に適応した特産の生物は、環境の変化に脆弱(ぜいじゃく)で、人間が島々を開発、改変するようになって、多くの種が絶滅した。また人間は、ヤギ、ヒキガエル、アフリカマイマイ、ティラピアなどさまざまな動物を小笠原諸島に持ち込んだ。それらは島で増殖し、生物相を変えている。
[長谷川博]
小笠原には在来の維管束植物(種子植物とシダ植物)が441種(固有率36.5%)あり、ガラパゴスの566種(固有率42.6%)に匹敵する。由来をみると、シマイスノキ、ムニンヒメツバキ、シマホルトノキなど東南アジアの照葉樹林の構成種(東南アジア要素)がもっとも多く、これにムニンフトモモ、ムニンビャクダンなど南方起源の植物(オセアニア要素)とナガバキブシ、チチジマキイチゴなど北方の日本本土の植物(日本本土要素)が混ざり合って独自の植物相を構成している。ブナ科のシイ・カシ類が不在であるのも特徴的である。
小笠原を代表する森林のうち、湿性高木林は、比較的土壌の発達した立地に成立する樹高20メートルにおよぶ森林で、シマホルトノキ、ウドノキ、センダン、アカテツなどの巨木が樹冠を並べ、低木層にはモクタチバナが多い。オガサワラグワも重要な構成種であったが開拓初期の伐採で絶滅寸前に追いやられた。湿性高木林は、戦前にほとんどが畑に変えられてしまったので、現在は母島の桑ノ木山(くわのきやま)と石門(せきもん)にわずかに片鱗(へんりん)が見られるだけである。
乾性低木林は、父島と兄島のやや乾燥した山地平坦面を中心に広がる樹高2~8メートルほどの低木林である。シマイスノキ、ムニンヒメツバキ、アデク、シマシャリンバイ、タコノキなどが主要な構成種となり、露出した岩盤の周辺では樹高0.5メートルほどの矮(わい)低木林になることもある。乾性低木林は小笠原の森林のなかでもっとも種多様性が高く、多くの固有種を含み(構成樹木の固有率は約70%)、構成種には稀産(きさん)種(日本版レッドデータブック記載種)となっているものも多い。また、トベラ属やムラサキシキブ属などでは生育環境に応じて、適応放散的に種分化した事例も見られる。
もう一つ特筆すべき植生は、母島主稜線(りょうせん)部にある、湿度が高い雲霧帯的な環境にのみ成立するワダンノキ群落である。ワダンノキは小笠原固有属(1属1種)のキク科植物であり、草本の祖先が島内で木本に進化した事例(樹木化現象)とされる。
以上のような自然林が破壊された跡地(第二次世界大戦前の畑地)には、戦後になってリュウキュウマツ(外来種)とムニンヒメツバキからなる広大な二次林が成立した。しかし、1980年代初めに本土から侵入したマツノザイセンチュウによる松枯れが発生し、マツ親木の大半が枯死した。
小笠原ではリュウキュウマツのほかにも、アカギ、モクマオウ、ギンネムなどの外来種が広がって問題となっている。とくに東南アジア原産のアカギは、1983年(昭和58)の台風被害を契機に湿性高木林に一斉に侵入して在来種を駆逐しつつあるため、2002年(平成14)より駆除事業が行われている。
[清水善和]
1593年(文禄2)信州松本の城主小笠原貞頼(さだより)が発見し、島名もそれに由来すると伝えられるが、貞頼という名の人物は小笠原家の系図に見当たらず、信憑(しんぴょう)性に乏しい。国家として領有目的でこの地域を実地踏査した最初は、1675年(延宝3)の第一次江戸幕府巡見使の派遣である。19世紀になって、太平洋の捕鯨が盛んになり、各国の捕鯨船が水を求めて寄島し、そのなかには住み着く者もあった。1827年(文政10)イギリスの軍艦ブロッサム号が来島してイギリス領を宣言、1853年(嘉永6)アメリカのペリーが寄港してハワイからの移民を首長に任命するなどで、イギリス、アメリカ両国間で島の領有権紛争があった。1861年(文久1)幕府も第二次巡見使を派遣し、翌年八丈島からの移民を送るなどして管理機関も置いたが、開拓も中絶し領有問題は解決しなかった。
その後、1876年(明治9)関係諸外国の承認を得て、初めて明確に日本の領有に帰し、1880年東京府の所属となり、1886年には小笠原島庁が父島に設けられた。イギリス系、アメリカ系、カナカ人の住民は1882年までに全部日本に帰化している。第二次世界大戦後は、対日平和条約に基づきアメリカ政府が立法、司法、行政上の権限を行使したが、1968年(昭和43)6月、小笠原の日本復帰に伴い東京都小笠原支庁小笠原村に帰属した。その際、西之島、火山列島、沖ノ鳥島、南鳥島を含めて小笠原諸島とし、旧小笠原諸島は小笠原群島と称することになった。
[菊池万雄]
第二次世界大戦までもっとも重要な産業は水産業で、小笠原暖流の漁場に近く、父島の二見港には、内地からの漁船が集まり、マグロ、カツオ、クジラ漁とかつお節や、缶詰の加工が行われた。特殊なものとしては、サンゴ採取やアオウミガメ、タイマイの捕獲なども盛んであった。農業は土地狭小に加えて平地に乏しく、水利の便も悪かったが、亜熱帯の光と熱とに恵まれて、サトウキビの栽培と製糖業が盛んであった。返還後は糖価が下落したため、野菜や熱帯果実に転じ、内地ことに京浜地区の冬枯れ時に供給し、小笠原ものとして名声を博している。また、ここは亜熱帯気候の海洋島として、地形、地質、動物、植物など独特の優れた自然を維持しており、自然公園としてふさわしいものと高く評価され、1972年(昭和47)小笠原国立公園として指定された。交通は東京竹芝―父島二見港間に定期船が通じているのみであるが、観光地(海水浴や釣り)として注目されている。
[菊池万雄]
小笠原諸島は独自の生物相を呈することから、2011年(平成23)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「小笠原諸島」として世界遺産の自然遺産に登録された(世界自然遺産)。
[編集部]
『大熊良一著『歴史の語る小笠原島』(1966・小笠原協会)』▽『犬飼基義・福本健著『小笠原――南海の孤島に生きる』(1969・日本放送出版協会)』▽『津山尚・浅海重夫編『小笠原の自然』(1970・広川書店)』▽『『小笠原諸島の概要』(1986・小笠原村)』▽『小笠原自然環境研究会編『小笠原の自然』(1992・古今書院)』▽『『小笠原支庁30年のあゆみ』(1998・小笠原支庁)』▽『豊田武司編著『小笠原植物図譜』増補改訂版(2003・アボック社)』▽『小笠原野生生物研究会著『小笠原の植物フィールドガイド2』(2008・風土社)』▽『清水善和著『小笠原諸島に学ぶ進化論』(2010・技術評論社)』▽『社団法人日本植物学会編『東京都の島の植物と生物多様性――伊豆諸島から小笠原まで』(2011)』
伊豆諸島の南方,太平洋上にある聟島列島,父島列島,母島列島,硫黄列島(火山列島),西之島,南鳥島,沖ノ鳥島の小島を含む島嶼(とうしよ)群。全域が東京都小笠原支庁小笠原村に属し,行政中心は父島の大村で,東京都小笠原支庁がおかれ,母島に出張所がある。面積106.1km2。聟島,父島,母島の3列島を合わせて小笠原群島と呼ぶこともあり,明治初年以来ボニン・アイランズBonin Islands(〈無人島〉の外国人なまり)とも呼ばれていた。この小笠原群島は古第三紀の海底火山がその後に隆起,開析されたもので,硫黄列島と西之島は第四紀後半に活動を始めた火山島である。南鳥島は日本の最東端(東経153°58′),沖ノ鳥島は最南端(北緯20°25′)を占め,ともにサンゴ礁の孤島である。亜熱帯海洋性気候区に属するが,年間降水量は比較的少なく,父島の大村で東京(1460mm)よりやや多い1600mm,その多くは驟雨(しゆうう)と台風による降雨である。
太平洋戦争激化による1944年の強制引揚げ以前には聟島,硫黄島などにも居住者がいたが,現在常住人口を有する島は父島と母島だけである。1945年,欧米系子孫の旧島民が父島へ帰島をゆるされ,その後日本系の島民もふえて父島は65年に408人だった居住者が95年(国勢調査)に1913人,母島は1970年に3人だったのが95年に428人まで増加した。95年の国勢調査では,ほかに硫黄島に海上自衛隊駐屯者など453人,南鳥島に気象庁関係者など15人がいる。小笠原村全体で合計2824人(2000),そのうち第1次・第2次産業従事者は25%(2003年)で,大半は公務員と観光産業従事者である(2010年の国勢調査では村全体の人口2785人)。産業はマグロなど零細規模の漁業のほか近年は父島でシマアジ,マダイなどの養殖が始められた。父島,母島ともに高い海食崖に囲まれ,山がちなため農業にはあまり適していないが,近年はトマト,スイカ,メロン,観光客のみやげ用のパッションフルーツ,パパイヤや観葉植物栽培などが行われる。1970年に小笠原諸島の復興計画が決まり,72年ほぼ全域が小笠原国立公園に指定された。同年定期航路ができて父島では二見港,母島では沖港が停泊に利用される。定期航路開設のころから父島,母島ともに旅館や民宿ができ,1997年には船が新しくなって,週1便であるが,観光客が増加している。父島列島には南島の沈水カルスト地形,兄島瀬戸の海中公園,小港,境浦などの海水浴場,母島列島の珍しい動植物,聟島列島のサンゴ礁でのダイビングなど観光スポットが多い。父島列島の兄島に飛行場建設の計画があったが,現地調査の結果,膨大な経費が見込まれ,実現が困難となった。動植物に固有種の多いことは小笠原の著しい特徴であるが,一方,アフリカマイマイ,ミカンコミバエなどの虫害や,戦前の農家に飼われていたヤギの野生化したものが草木の若芽を食い荒らす被害などが大きかった。ミカンコミバエは1985年根絶が確認され,果物などが島外へ持ち出せるようになり,アフリカマイマイ,ヤギについても97年現在,駆除が続けられている。
執筆者:浅海 重夫
小笠原諸島の呼称は,1593年(文禄2)豊臣秀吉の命で南方航海をした小笠原貞頼が発見し,のち徳川家康が発見者の名をつけることを許したからと伝えられる。すでに1543年(天文12)スペイン人ビラロボスが一部発見していたともいわれるが確証はない。文献的には1670年(寛文10)の《紀伊蜜柑船漂流記》に初めて表れる。その5年後江戸幕府は開拓をはかるが失敗,1727年(享保12)小笠原貞任の一族が渡島を試みたが帰還せず,長く無人島のまま放置された。
対外的危機を訴えた林子平や渡辺崋山,高野長英らにより,蝦夷地とともに開拓することが説かれたが,1823年(文政6)アメリカの船員が母島に上陸し,27年にはイギリスの艦船が父島に寄港して領有を宣言した。次いで30年(天保1)にはアメリカ人セボリーらがハワイ系住民20人をつれて移住し,53年(嘉永6)にはペリーが日本渡航のさい寄港してセボリーをアメリカの植民政府長官に任じ,貯炭所の敷地購入などを行った。このため米英間に諸島の帰属問題をめぐって紛議が生じたが,幕府は62年(文久2)ようやく外国奉行らを派遣して日本領たることを宣言し,八丈島民30余人を移住させて開拓に当たらせようとした。このとき総称を小笠原諸島とし,各島に父島,母島など親族名を付けることが正式に決められた。
しかし邦人の移住は失敗し,73年(明治6)に諸島の本格的経営が廟議の決定をみた。75年に日本領再回収を宣言,所管ははじめ内務省,80年から東京府に移し,また先住のアメリカ人らは翌々年までに全員日本に帰化させた。86年には父島大村に小笠原島庁が設けられ,開拓・移住が進められたが,特に昭和期に入ると南進基地として急速に開発された。太平洋戦争では前線となることから1944年全島民6886人が本土引揚げを命ぜられ,硫黄島は日米両軍の大激戦地となった(硫黄島作戦)。戦後は連合軍総司令部,次いでサンフランシスコ条約後もアメリカ海軍の施政下におかれていたが,68年復帰し,東京都小笠原村となった。2011年6月,世界自然遺産に登録された。
執筆者:北原 進
小笠原は亜熱帯圏にあって,大陸と一度も陸続きになったことのない島々である。そのためすみついた動植物は固有の分化をつづけ,多くの小笠原固有種を生じている。
高等植物は約400種ほどあり,そのうちワダンノキ,マルバシマザクラ,ムニンビャクダンなど204種もが固有種である。他の種類は日本南部から東南アジア地域との関連が大きく,ミクロネシア地域とは関連性が少ない。島が戦中戦後の長期間放置された間にギンゴウカン(ギンネム)が各地で繁茂し,高さ10mもの密林になっている場所もある。また山地にシイ,カシ林を欠き,ブナ科植物をまったくみないことも小笠原の植物相の変わった点である。蘚苔(せんたい)類では蘚類40種,苔類45種が明らかにされ,うち7種が固有種である。
陸上動物相はきわめて貧弱である。哺乳類はオガサワラオオコウモリ1種のみで,これはカラスほどの大きさがあり,全身黒色。爬虫類はオガサワラヤモリ,ホオグロヤモリとオガサワラトカゲの3種と帰化したアノールトカゲで,他の地域にも分布している。両生類は人が持ちこんだオオヒキガエルのみ。鳥類では現在繁殖している陸鳥は9種だけで,そのうちメグロは固有種である。ウグイス,ヒヨドリ,イソヒヨドリ,ノスリなどは小笠原全域で普通にみられ,アカガシラカラスバトとオガサワラカワラヒワはきわめて少ない。このほか,19世紀に小笠原から絶滅した種類が5種ある。海鳥は6種の繁殖が記録されている。昆虫類は約600種が知られている。固有種は約160種で,トンボ目,双翅目,半翅目,膜翅目などに多くみられ,オガサワライトトンボ,オガサワラタマムシなど10種が天然記念物。陸産貝類は65種が報告されているが,49種が固有種ですべて天然記念物になっている。父島列島の南島の砂浜一面に大型な半化石状のヒロベソカタマイマイほかの殻が敷きつめられている景観は,みごとである。
小笠原の海岸でごく普通にみられる海産動物が,日本の他の土地には生息していない場合が多い。各島の海岸地形が全般に険しいので露出するサンゴ礁の規模は貧弱であるが,兄島瀬戸ほかの浅海では大きな群落がみられる。イシサンゴ類は100種以上報告され,オガサワラサンゴは小笠原特産種である。日本で小笠原だけに知られるヒドロ虫類は10種ほどある。新種オガサワラウミカビは,昭和天皇によって1974年に報告された。貝は460種ほどあり,うちカサガイは天然記念物に指定されている。棘皮(きよくひ)動物ではウミユリ類32種,ヒトデ類8種,ナマコ類15種,ウニ類17種が報告されている。ウニ類のドングリキダリスは水深150~180mの海底にすみ,非常に原始的な形態をもっている。
執筆者:今島 実
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
(金廻寿美子 ライター / 2011年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
東京都の中心部から南へ約1000kmの太平洋上に散在する列島。父島・母島など30余の島からなる。島名の由来は1593年(文禄2)小笠原貞頼の発見によるとされるが,確証はない。1675年(延宝3)幕府は「無人島」と名づけ日本領土とするが,19世紀に入って欧米人が来航して帰属が国際問題となると,1861年(文久元)外国奉行などを派遣し,同島が日本領であることを宣言。76年(明治9)内務省所管,80年東京府に編入。入植者もふえ本格的な開拓が始まるが,サトウキビ栽培や捕鯨などが主産業であった。第2次大戦では硫黄島が激戦地となる。戦後は国連の信託統治領としてアメリカの軍政下にあったが,1968年(昭和43)6月復帰,東京都小笠原村となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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