尼瀬町(読み)あまぜまち

日本歴史地名大系 「尼瀬町」の解説

尼瀬町
あまぜまち

[現在地名]出雲崎町尼瀬

北国街道沿いに尼瀬一―三区・諏訪本すわほん町・伊勢いせ町・稲荷いなり町・岩船いわふね町の町並が続き、北西に町続きの出雲崎町とは現在の芭蕉ばしよう公園前の道で分断され、ここに初代の出雲崎代官高田小次郎が大木戸を設けたといわれる。それ以前は出雲崎町の枝村で、上杉時代には両町を総括して出雲崎村を称した。天正四年(一五七六)の出雲崎御水帳や慶長三年(一五九八)の真宗高正寺門徒帳(ともに現存を確認できないが「出雲崎編年史」に収める)には出雲崎村と記す。元中五年(一三八八)六月三〇日の長尾高景軍勢催促状(読史堂古文書「編年文書」)に「ふねにのり候はんする所は、あませ・かつみ」とあり、黒川時実を佐渡侵攻の軍に加えている。ただし同史料は検討の要がある。また現佐渡郡畑野はたの町の慶宮けいくう寺が所蔵する大般若波羅蜜多経巻三五三奥書に明徳二年(一三九一)三月二三日銘で、「於越後天瀬諏方宮書畢」とあり、当地の諏訪宮で僧重鑁が書写したものである。

近世の村高も出雲崎・尼瀬を合せて記載されることが多い。正保国絵図には「尼瀬・出雲崎」と並記するが石高の記載はない。元禄郷帳では「尼瀬・出雲崎町」と記すが、文政一三年(一八三〇)の出雲崎郡中高辻帳(駒村善左衛門家文書)と明治初年の出雲崎出張所支配越後国三島郡高辻帳(内藤久正家文書)の二点には別記され、村高は二点とも四一六石余。家数は寛永一九年(一六四二)の尼瀬町地子米寄帳(野口家文書)によると、地子米負担の対象となった家数は一八二軒で、浜方町・山方町に分れている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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