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山々亭有人 【さんさんてい・ありんど】

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朝日日本歴史人物事典の解説

生年: 天保3.9 (1832)
没年: 明治35.1.24 (1902)
江戸末期の戯作者。末期の人情本や合巻に活躍し,明治に入って新聞小説主要作者のひとりとなる。本名条野伝平。別号に採菊散人がある。江戸日本橋地本問屋に生まれ,若年から文筆に志し,万延(1860~61)ごろから為永春水風の艶筆をふるって人情本を再興。一方で三遊亭円朝らと「粋狂連」を組織して三題噺興隆に尽くし,明治に入っては仮名垣魯文と並んで旧戯作者の代表格と目され,やがて『東京日日新聞』や『やまと新聞』を創刊して,自ら採菊散人の名で,新聞連載小説という新機軸を開いた。画家鏑木清方実子。<参考文献>興津要『転換期の文学―江戸から明治へ』
(中野三敏)


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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山々亭有人 さんさんてい-ありんど
 
条野採菊(じょうの-さいぎく)

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(C)Kodansha 2009.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典内の山々亭有人の言及

【落語】より

[幕末の江戸落語]
 1842年(天保13)の改革策によって,寄席の数もそれ以前の120余軒から15軒に制限されて衰微した江戸落語界も,改革の中心人物水野忠邦の失脚によって制限が撤廃されるとしだいに復興し,人情噺,芝居噺が流行したが,さらに三題噺の復活から隆盛に向かった。〈粋狂連(すいきようれん)〉〈興笑連(きようしようれん)〉などの三題噺のグループが生まれ,狂言作者の瀬川如皐(じよこう),河竹新七(のちの河竹黙阿弥(もくあみ)),戯作者の山々亭有人(さんさんていありんど),仮名垣魯文(かながきろぶん),絵師の一恵斎芳幾(いつけいさいよしいく)などに,金座役人高野酔桜軒(すいおうけん),大伝馬町の豪商勝田某(春の舎(や)幾久)などをはじめとする江戸の文人や通人,落語家の初代春風亭柳枝(しゆんぷうていりゆうし),3代柳亭左楽(りゆうていさらく)(?‐1872),初代三遊亭円朝などが参加して,三題噺の自作自演に熱中した。このグループ活動を契機として,幕末から明治にかけての東京落語界の中心人物になる円朝が成長したことは意義深かった。…
※「山々亭有人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。


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