山内 盛熹(読み)ヤマウチ セイキ

20世紀日本人名事典 「山内 盛熹」の解説

山内 盛熹
ヤマウチ セイキ

明治・大正期の三線演奏者



生年
尚育8年7月2日(1842年)

没年
大正5(1916)年4月27日

出生地
琉球国(沖縄県)

経歴
野村流の祖である野村安超に歌三線(三味線)を習う。音楽の他にも有職故実や文学に明るく、琉球王国時代は国王尚泰の御近習役を務め、松村流の楽譜「御拝領工工四(クンクンシー)」編纂にも関わった。尚泰19年(1866年)松村真信とともに絶滅が危惧されていた琉球の古典音楽湛水流の保存を命じられ、同流唯一の伝承者と言われた名護良保への聞き取り調査を行った。これを元に松村が楽譜「湛水流工工四」を作成したのに対し、山内は聴取した湛水流三線の曲を孫で民俗音楽研究家の山内盛彬に伝えた。廃藩置県後は下野し、琉球音楽研究に専念著書に「南島八重垣」がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「山内 盛熹」の解説

山内盛熹

没年:大正5.4.27(1916)
生年:尚育8.7.2(1842.8.7)
19~20世紀の沖縄古典音楽の演奏家。野村安趙に歌三線(三味線)を学び,琉球王国最後の国王尚泰の御近習役を勤めた。尚泰19(1866)年,当時伝承者は名護良保のみといわれて衰微していた湛水流を保存する任を与えられ,松村真信と共に調査した。松村はこれを『湛水流工工四』として記録作成したが,山内は名護より聴取した曲を孫の山内盛彬に伝え,今日への伝承の足がかりとなった。<参考文献>『山内盛彬著作集』2巻

(金城厚)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山内 盛熹」の解説

山内盛熹 やまうち-せいき

1842-1916 琉球の音楽家
尚育(しょういく)王8年7月2日生まれ。尚泰(しょうたい)王の近習。野村安趙(あんちょう)に三線(さんしん)をまなぶ。ほろびかけていた湛水流(たんすいりゅう)三線を名護(なご)良保から伝承し,孫の盛彬(せいひん)につたえた。大正5年4月27日死去。75歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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