日本大百科全書(ニッポニカ) 「山内氏(やまうちうじ)」の意味・わかりやすい解説
山内氏(やまうちうじ)
やまうちうじ
「やまのうち」ともいうが、山内家では代々「やまうち」と名のる。藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の後裔(こうえい)首藤資清(すどうすけきよ)は源頼義(みなもとのよりよし)に仕え、曽孫(そうそん)の俊通(としみち)が相模国(さがみのくに)鎌倉郡山内庄(やまのうちのしょう)(神奈川県鎌倉市、横浜市)を領して山内氏を称した。俊通は平治(へいじ)の乱(1159)で源義朝(よしとも)に従い戦死、子経俊(つねとし)は平家方となり石橋山の戦いで源頼朝(よりとも)を射たが、のち降伏して家臣となった。以後子孫は各地に分散し、久豊(ひさとよ)から家系も明らかになる。久豊は丹波(たんば)から尾張(おわり)に移り、子盛豊(もりとよ)は岩倉城主織田信安(おだのぶやす)に仕え家老となって葉栗(はぐり)郡黒田城(愛知県一宮(いちのみや)市)に住んだが、1559年(永禄2)信長の軍と戦い戦死する(1557年=弘治3、野盗に殺されたとの説あり)。子一豊(かずとよ)は、信長ついで豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、遠州(静岡県)掛川(かけがわ)城主となり、関ヶ原の戦い後土佐(高知県)に封ぜられた。以後藩主は16代を数え、明治に至って侯爵となる。
[山本 大]