山本芳翠(読み)やまもとほうすい

精選版 日本国語大辞典 「山本芳翠」の意味・読み・例文・類語

やまもと‐ほうすい【山本芳翠】

洋画家岐阜県の人。本名為之助。南画から転じ、工部美術学校フォンタネージに師事したのち、渡仏。帰朝後、生巧館画学校を創立。明治美術会設立にも関与。のち白馬会参加画風は洗練されたアカデミズムを示している。代表作西洋婦人像」。嘉永三~明治三九年(一八五〇‐一九〇六

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デジタル大辞泉 「山本芳翠」の意味・読み・例文・類語

やまもと‐ほうすい〔‐ハウスイ〕【山本芳翠】

[1850~1906]洋画家美濃の人。本名、為之助。五姓田ごせだ芳柳に学び、のち洋画に転じて渡仏。帰国して生巧館画塾を開く。明治美術会白馬会の創立に参加。門下に藤島武二らがいる。代表作に「臥裸婦」「浦島」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「山本芳翠」の意味・わかりやすい解説

山本芳翠 (やまもとほうすい)
生没年:1850-1906(嘉永3-明治39)

洋画家。岐阜県明智町に生まれる。はじめ京都に出て久保田雪江に南画を学ぶ。その後,横浜五姓田芳柳につき,緻密な写実的描法による肖像画を描く。1876年工部美術学校の開設とともに入学し,フォンタネージの指導を受け,78年パリ万国博事務局雇としてフランスに渡る。古典派のレオンジェロームに師事,フランス絵画の伝統的な写実主義様式を学び,約10年に及ぶ留学中にユゴー,ゴーティエなどの文学者たちとも親交を結んでいる。1880年代のパリ画壇で認められていた唯一の日本人画家といえるが,87年の帰国に際して作品を積み込んだ巡洋艦畝傍〉が沈没して滞欧時代の作品は消失黒田清輝の画才を高く評価して,法律学から画家へ転身させる契機をもたらしたのは芳翠である。そうした関係で帰国後に開設した画塾生巧館を黒田にゆずり,みずからも白馬会に参加した。古典様式に基づく歴史画や風俗画を残すが,その作風は藤島武二や白滝幾之助(1873-1960)らに継承された。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本芳翠」の意味・わかりやすい解説

山本芳翠
やまもとほうすい
(1850―1906)

洋画家。嘉永(かえい)3年美濃(みの)国(岐阜県)に生まれる。幼名為蔵、為之助。初め京都に出て南画を学び、1872年(明治5)横浜で五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)に入門、洋画に転じる。76年工部美術学校に入学してフォンタネージの指導を受け、翌年の第1回内国勧業博覧会に出品、花紋賞を受け、宮内省買上げとなる。78年パリ万国博事務局雇として渡仏し、国立美術学校に入ってレオン・ジェロームに師事し、87年帰国する。翌年合田清(ごうだきよし)とともに生巧館(せいこうかん)画学校を開いて後進の指導にあたり、89年同志と明治美術会を創立。のち黒田清輝(せいき)の白馬(はくば)会創立に参加する。日清(にっしん)戦争、日露戦争に従軍し、記録的戦争画を描いた。画風はフランス流に洗練されたアカデミズムを示す。生巧館門下に藤島武二(たけじ)、白滝幾之助(しらたきいくのすけ)、湯浅一郎らがいた。代表作に『裸婦』『西洋婦人像』『十二支』がある。

[小倉忠夫]

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百科事典マイペディア 「山本芳翠」の意味・わかりやすい解説

山本芳翠【やまもとほうすい】

洋画家。美濃生れ。本名為之助。京都で南画を,横浜で初世五姓田芳柳に洋画を学び,1876年工部美術学校に入ってフォンタネージの指導を受けた。1878年―1887年フランスに留学。帰国後画塾生巧館を設け,また明治美術会白馬会の創立に参加。アカデミックな作風で,代表作に《西洋婦人像》。
→関連項目久米桂一郎

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山本芳翠」の意味・わかりやすい解説

山本芳翠
やまもとほうすい

[生]嘉永3(1850).7.5. 美濃,恵那
[没]1906.11.15. 東京
洋画家。本名,為之助。初め京都で南画を学び,のち横浜へ移り五姓田芳柳,工部美術学校で A.フォンタネージに師事。また C.ワーグマンや五姓田義松の感化をも受けた。 1878年渡仏。 L.ジェロームに師事して 88年帰国,フランス風の画塾生巧館を創立するとともに,明治美術会の創設や白馬会の結成をも助けた。早くから歴史風俗画を得意とし,また演劇,歌劇の背景制作の先駆者。 94年日清戦争では従軍画家として活躍。主要作品『西洋婦人像』 (1882,東京芸術大学) ,『裸婦』 (82頃,同) 。

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朝日日本歴史人物事典 「山本芳翠」の解説

山本芳翠

没年:明治39.11.15(1906)
生年:嘉永3.7.5(1850.8.12)
明治期の洋画家。美濃国(岐阜県)明智生まれ。幼名為蔵,のち為之助。別号に楳谷,生巧など。京都で南画を学んだのち,明治5(1872)年横浜で五姓田芳柳の門下となり洋画を学び芳翠と号した。9年工部美術学校に入学するが翌年退学し,第1回内国勧業博覧会に出品し花紋賞を受ける。11年松方正義に従い渡仏,パリで古典派のレオン・ジェロームに師事した。ビクトル・ユゴー,テオフィル・ゴーティエなど交友も広く,18年にはパリで個展を開催。滞仏中黒田清輝に画学転向を勧めた。21年帰国し桜田本郷町に生巧館画学校をおこし,藤島武二らを指導,白馬会の創立会員となった。代表作品に「臥裸婦」「浦島」などがある。

(三輪英夫)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本芳翠」の解説

山本芳翠 やまもと-ほうすい

1850-1906 明治時代の洋画家。
嘉永(かえい)3年7月5日生まれ。五姓田芳柳(ごせだ-ほうりゅう)にまなぶ。のちフランスでレオン=ジェロームに師事。明治21年生巧館画学校をひらいて後進を指導。また明治美術会,白馬会の創立に参加した。明治39年11月15日死去。57歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。工部美術学校中退。本名は為之助。別号に楳谷,生巧。代表作に「臥裸婦」「浦島」。

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世界大百科事典(旧版)内の山本芳翠の言及

【ジェローム】より

…長い中近東生活で身につけた鮮やかな色彩と,冷たく理想化された仕上げとで人気は高かったが,ときに旧弊に陥った。日本人では山本芳翠などが師事した。【馬渕 明子】。…

※「山本芳翠」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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