洋画家。岐阜県明智町に生まれる。はじめ京都に出て久保田雪江に南画を学ぶ。その後,横浜で五姓田芳柳につき,緻密な写実的描法による肖像画を描く。1876年工部美術学校の開設とともに入学し,フォンタネージの指導を受け,78年パリ万国博事務局雇としてフランスに渡る。古典派のレオン・ジェロームに師事,フランス絵画の伝統的な写実主義の様式を学び,約10年に及ぶ留学中にユゴー,ゴーティエなどの文学者たちとも親交を結んでいる。1880年代のパリ画壇で認められていた唯一の日本人画家といえるが,87年の帰国に際して作品を積み込んだ巡洋艦〈畝傍〉が沈没して滞欧時代の作品は消失。黒田清輝の画才を高く評価して,法律学から画家へ転身させる契機をもたらしたのは芳翠である。そうした関係で帰国後に開設した画塾生巧館を黒田にゆずり,みずからも白馬会に参加した。古典様式に基づく歴史画や風俗画を残すが,その作風は藤島武二や白滝幾之助(1873-1960)らに継承された。
執筆者:酒井 忠康
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洋画家。嘉永(かえい)3年美濃(みの)国(岐阜県)に生まれる。幼名為蔵、為之助。初め京都に出て南画を学び、1872年(明治5)横浜で五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)に入門、洋画に転じる。76年工部美術学校に入学してフォンタネージの指導を受け、翌年の第1回内国勧業博覧会に出品、花紋賞を受け、宮内省買上げとなる。78年パリ万国博事務局雇として渡仏し、国立美術学校に入ってレオン・ジェロームに師事し、87年帰国する。翌年合田清(ごうだきよし)とともに生巧館(せいこうかん)画学校を開いて後進の指導にあたり、89年同志と明治美術会を創立。のち黒田清輝(せいき)の白馬(はくば)会創立に参加する。日清(にっしん)戦争、日露戦争に従軍し、記録的戦争画を描いた。画風はフランス流に洗練されたアカデミズムを示す。生巧館門下に藤島武二(たけじ)、白滝幾之助(しらたきいくのすけ)、湯浅一郎らがいた。代表作に『裸婦』『西洋婦人像』『十二支』がある。
[小倉忠夫]
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(三輪英夫)
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…長い中近東生活で身につけた鮮やかな色彩と,冷たく理想化された仕上げとで人気は高かったが,ときに旧弊に陥った。日本人では山本芳翠などが師事した。【馬渕 明子】。…
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