山野井村(読み)やまのいむら

日本歴史地名大系 「山野井村」の解説

山野井村
やまのいむら

[現在地名]矢祭町東舘ひがしだて

東舘村の北、久慈くじ川東岸の平地段丘に立地。水戸街道に沿う街村。通称岡部平おかべだいらに縄文時代の遺跡がある。永和三年(一三七七)一一月二五日の結城朝治譲状(結城神社文書)に「山井内とつかの村」とみえ、この頃は山井(山野井)内に戸塚とつか村を含んでいた。応永一二年(一四〇五)三月二二日の某寄進状(八槻文書)によれば、「鮎河之八郎四郎内」一間を八槻やつき(現棚倉町)近津ちかつ明神(現都々古別神社)に寄進するが、山井に闕所地が生じた場合には、そこから代替地を与えるとしている。


山野井村
やまのいむら

[現在地名]山陽町大字山野井

厚狭郡西部に位置し、村内のやや南部を東西に山陽道が通る。東は末益すえます、南は津布田つぶた、西は福田ふくだ吉田よしだ(現下関市)、北は厚保あつ(現美祢市)の各村に接する山間村。近世、山野井村には萩藩領と長府藩領が混在した。萩藩領は吉田宰判に属する。

建武元年(一三三四)七月四日付の長門国宣(長門二宮忌宮神社文書)に「山井別苻」とみえる。また中世には「山井郷」(「寺社証文」所収東隆寺文書)とも称されている。

慶長五年(一六〇〇)検地帳に「山井村」とある。同一五年の検地帳によれば総石高二千二五六石余、うち田一六一町余で二千九七石余、畠一九町余で九一石余、百姓屋敷一二九、小物成五石余である。寛永給領御配郡別石高名付附立によれば、萩藩領山井やまのい村の高一千六九八石余のうち五〇〇石が萩藩士高須氏領、一千一九八石余が宍戸善左衛門領とあるが「上地」と記してある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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