山野里村(読み)やまのさとむら

日本歴史地名大系 「山野里村」の解説

山野里村
やまのさとむら

[現在地名]上郡町山野里

竹万ちくま村の西、上郡盆地の西部に位置する。安室やすむろ川が東流し、川沿いに竹万村から飯坂いいざか峠を越える古山陽道が通り、道沿いに宿しゆく、南部山裾および山間平野ひらの木目きのめ大酒おおざけ集落がある。古代の赤穂郡野磨やま(和名抄)の遺称地。山里・山ノ里とも記す。古代―中世には交通・軍事上の要地であった。「峯相記」には弘安八年(一二八五)安達泰盛が誅罰された時、「山ノ里」に館を構えていた泰盛の子太郎入道修道房は、幕府追っ手が押寄せる前に館に放火し、美作国八塔はつとう(現岡山県吉永町)へ逃げたが捕らえられたとある。赤松氏の本拠白旗しらはた城へ行く道の入口にあたり、元弘三年(一三三三)二月、赤松円心(則村)挙兵に際して中世の美作道の杉坂すぎさか(現上月町)と山陽道の当地に関を設け両道を塞いだという(「太平記」巻六)。このとき赤松方に属した城頼連は二月二三日に山里宿で令旨を賜ったという(建武元年五月日「城頼連申状案」毛利家文書)。建武三年(一三三六)五月、円心を攻めていた新田義貞は山里まで兵を進めながら白旗城を攻略できず包囲を解いた(「太平記」巻一六)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報