岡本太郎(読み)オカモトタロウ

デジタル大辞泉 「岡本太郎」の意味・読み・例文・類語

おかもと‐たろう〔をかもとタラウ〕【岡本太郎】

[1911~1996]洋画家彫刻家神奈川の生まれ。一平かの子の長男。パリで抽象芸術シュールレアリスム運動など前衛運動に参加。昭和45年(1970)には、大阪万博に「太陽の塔」を制作。絵画作品に「傷ましき腕」など。

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共同通信ニュース用語解説 「岡本太郎」の解説

岡本太郎

1911年神奈川県生まれ。父は漫画家岡本一平おかもと・いっぺい、母は歌人で作家の岡本おかもとかの子。18歳から約10年パリに滞在し、ピカソに触発され抽象絵画を制作。戦後は前衛美術運動に傾倒し、絵画、彫刻、壁画など多彩な作品を残した。70年大阪万博のシンボル「太陽の塔」や同時期にメキシコで描いた壁画「明日の神話」などで知られる。テレビ出演も多く「芸術は爆発だ」の発言で親しまれた。著書に「今日の芸術」など。96年死去。

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精選版 日本国語大辞典 「岡本太郎」の意味・読み・例文・類語

おかもと‐たろう【岡本太郎】

  1. 画家、彫刻家。父は岡本一平、母は岡本かの子。昭和四年(一九二九東京美術学校に入学したが、同年両親とともに渡欧、一一年間をパリで過ごす。戦後、前衛芸術運動を始め対極主義を唱える。原色を生かした生命力あふれる造形に定評がある。明治四四~平成八年(一九一一‐九六

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岡本太郎」の意味・わかりやすい解説

岡本太郎
おかもとたろう
(1911―1996)

美術家。明治44年2月26日東京に生まれる。父は漫画家岡本一平、母かの子は歌人、小説家。1929年(昭和4)東京美術学校に入学するが、半年で中退して父母の渡仏に同行。父母の帰国後も一人パリにとどまり、パリ大学で哲学、民族学を学ぶ。1933年国際的な抽象芸術運動のアプストラクシオン・クレアシオン協会に参加した。1937年同協会を脱退し、翌年パリ国際超現実派展に参加してシュルレアリストたちと交友を深める。1940年帰国。翌年二科展に出品し、二科賞を受賞。第二次世界大戦に応召。戦後、二科展会員になるとともに対極主義を唱え、幅広く前衛芸術運動を展開する。二科展に『夜明け』『森の掟(おきて)』などを発表。1952年(昭和27)からは、縄文文化への関心を高め、作風を変えるとともに旺盛(おうせい)な執筆活動を行う。著書『忘れられた日本――沖縄文化論』(1969)は毎日出版文化賞を受賞した。東京、パリ、ニューヨークで個展を開いたほか、サン・パウロ(1953)、ベネチア(1954)のビエンナーレをはじめ、多くの国際展にも出品。東京都庁舎(丸の内旧都庁舎)などの陶板壁画、岡本かの子文学碑ほかの彫刻なども数多く手がけた。1970年日本万国博覧会のテーマ展示プロデューサーとなり、自らも『太陽の塔』を設計するなど、建築、デザインを含む幅広い領域で活躍した。

[小倉忠夫・柳沢秀行]

 なお、現在も万博記念公園(大阪府吹田(すいた)市)にある『太陽の塔』は、斬新な造形をさまざまな技術を駆使して実現したものとして、2020年(令和2)に岡本太郎の作品として初めて、国の登録有形文化財に登録された。

[編集部 2021年5月21日]

『『黒い太陽』(1959・美術出版社)』『『私の現代芸術』(1963・新潮社)』『『今日をひらく――太陽との対話』(1967・講談社)』『『岡本太郎』(1968・美術出版社)』『『にらめっこ』(1975・番町書房)』『『岡本太郎の挑戦するスキー 白い世界に燃える歓び』(1977・講談社)』『『Taro Okamoto』(1977・土曜美術社)』『『岡本太郎』(1979・平凡社)』『『岡本太郎著作集』全9巻(1979~1980・講談社)』『『遊ぶ字』(1981・日本芸術出版社)』『『母の手紙――母かの子・父一平への追想』(1993・チクマ秀版社)』『『一平かの子――心に生きる凄い父母』(1995・チクマ秀版社)』『岡本敏子編『岡本太郎歓喜』(1997・二玄社)』『岡本敏子編『眼――美しく怒れ』(1998・チクマ秀版社)』『『岡本太郎 挑む/夢と誓い(抄)』(1998・日本図書センター)』『『岡本太郎の本』全5巻(1998~2000・みすず書房)』『岡本敏子編『岡本太郎の沖縄』(2000・日本放送出版協会)』『『リリカルな自画像』(2001・みすず書房)』『『疾走する自画像』(2001・みすず書房)』『『みんなイタリア語で話していた』(2001・晶文社)』『『太郎に訊け!』全3巻(2001・青林工藝社)』『岡本敏子・斎藤慎爾編『岡本太郎の世界』(1999・小学館)』『『画文集 挑む』(講談社文庫)』『『沖縄文化論――忘れられた日本』(中公文庫)』『『今日の芸術――時代を創造するものは誰か』(光文社知恵の森文庫)』『『青春ピカソ』(新潮文庫)』『『芸術と青春』(光文社知恵の森文庫)』『『美の呪力』(新潮文庫)』『『日本の伝統』(光文社知恵の森文庫)』『『岡本太郎の宇宙』全5巻(ちくま学芸文庫)』『『日本再発見――芸術風土記』(角川ソフィア文庫)』『『原色の呪文』(講談社文芸文庫)』『『美の世界旅行』(新潮文庫)』『『自分の運命に盾を突け』(青春文庫)』『『自分の中の孤独を抱け』(青春文庫)』『『自分の中に毒を持て』新装版(青春文庫)』『『岡本太郎の眼』(角川文庫)』『岡本敏子著『岡本太郎が、いる』(1999・新潮社)』『岡本敏子編『太郎神話――岡本太郎という宇宙をめぐって』(1999・二玄社)』『村上善男著『赤い兎――岡本太郎頌』(2000・創風社)』『川桐信彦著『岡本太郎――芸術は爆発か』新装版(2011・沖積舎)』『岡本敏子著『芸術は爆発だ!――岡本太郎痛快語録』(小学館文庫)』

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知恵蔵 「岡本太郎」の解説

岡本太郎

太陽の塔など、多くの作品を残した日本の芸術家。2011年、生誕100年を迎えた。
1911年2月26日、マンガ家の岡本一平、歌人・小説家の岡本かの子の長男として、神奈川県に生まれた。17年、小学校に入学するが、1学期で退学。翌年4月に慶應義塾幼稚舎に入学。29年に慶應義塾普通部を卒業し、東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学した。
この年、両親に同行してヨーロッパへ渡航し、約10年にわたってフランスで過ごす。在欧中にピカソの絵を見て影響を受けたと言われる。また、多くの芸術家と交流し、展覧会にも出品を重ねた。37年、26歳で、初めての画集『OKAMOTO』(ピエール・クルチオン序文)を刊行。
40年には第2次世界大戦のため、マルセイユから帰国し国内で活動を開始した。41年、二科会に「傷ましき腕」(油彩)、「コントルポアン」(シルクスクリーン)などを出品し二科賞を受賞した。
42年から中国戦線に出征し、46年に復員。自由の国フランスと日本軍国主義の違いに苦しんだとされる。また、戦時中にアトリエや作品は全て空襲で失われた。
戦後は、花田清輝らと「夜の会」を結成し、前衛美術運動を始めた。旧態依然とした日本の美術界に対し、自由で前衛的な芸術活動を展開する一方、縄文土器に美術的価値を見出し、日本の伝統や風俗にも目を向けた。
作品は、絵画、彫刻から、舞台、建築、プロダクトデザインなど多岐にわたり、ピアノ、スキーにも取り組むなど、活動は幅広い。マスコミには積極的に登場し、「芸術は爆発だ」などの名言でも知られる。
70年に大阪で開催された万国博覧会では、シンボルタワー「太陽の塔」を制作。博覧会終了後は取り壊されることとなっていたが、市民による保存運動により保存され、今日では高度成長期の日本を象徴する建造物となっている。
96年1月7日急性呼吸不全で死去。
68年から69年にかけてメキシコで制作が進められ、その後、未完のまま行方が分からなくなっていた壁画「明日の神話」が、2003年9月発見され、日本の「明日の神話」再生プロジェクトによって修復された後、08年11月17日、東京・渋谷駅のJR線と京王井の頭線を結ぶマークシティ内連絡通路に公開・恒久設置された。11年5月に、同壁画の一部に東日本大震災による福島第一原発事故を思わせる落書きがなされるなど、作品は話題と関心を集め続けている。

(葛西奈津子  フリーランスライター / 2011年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

20世紀日本人名事典 「岡本太郎」の解説

岡本 太郎
オカモト タロウ

昭和・平成期の芸術家,評論家



生年
明治44(1911)年2月26日

没年
平成8(1996)年1月7日

出生地
神奈川県川崎市

出身地
東京都港区青山

学歴〔年〕
慶応義塾普通部卒,東京美術学校〔昭和4年〕中退,ソルボンヌ大学民族学科〔昭和14年〕卒

主な受賞名〔年〕
国際建築絵画大賞(フランス)〔昭和34年〕,毎日出版文化賞(第15回)〔昭和36年〕「忘れられた日本」,フランス芸術文化勲章〔平成1年〕,歴程賞(第31回)〔平成5年〕「全業績」

経歴
父は画家の岡本一平、母は歌人であり小説家の岡本かの子。昭和4年東京美術学校に入学したが、同年末両親とともに渡欧、11年間パリで過ごした。ソルボンヌ大学で哲学、社会学、民族学を学び、14年に卒業。この間、抽象芸術運動、超現実主義に接近し、12年シュール・アンデパンダンに「傷ましき腕」を出品。15年帰国、17年召集で中国を転戦。22年に復員後、東京新聞に坂口安吾の連載小説の挿絵を担当、芸術運動をはじめ、政治運動家、評論家としても活躍。36年の二科会退会後、活動分野はさらに広がり、各地の美術館、デパートの巡回展のほか、壁画モニュメントの制作、家具・メダル類のデザインにまで及び、“芸術は爆発だ!”のCMなどテレビ・タレントとしても活躍。45年の大阪万国博では、テーマ展示プロデューサーとなり、“太陽の塔”を設計して賛否の論議の的となった。55年新宿小田急グランドギャラリーで回顧展を開催。平成3年自作352点(500億円相当)を川崎市に寄贈。また著書も多く、「日本再発見」「忘れられた日本―沖縄文化論」「美の呪力」「美の世界旅行」などの他、「岡本太郎著作集」(全9巻 講談社)がある。10年5月住居兼アトリエを公開する岡本太郎記念館が開館。11年川崎市に川崎市岡本太郎美術館が開館。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

百科事典マイペディア 「岡本太郎」の意味・わかりやすい解説

岡本太郎【おかもとたろう】

洋画家。岡本一平岡本かの子の子。1929年東京美術学校入学後すぐ渡仏。パリ大学で哲学,民族学を学びながら,サロン・デ・シュルアンデパンダンに出品,アプストラクシヨン・クレアシヨンに参加。G.バタイユの創設した〈社会学研究会〉のグループにも加わる。1941年帰国,1946年―1961年二科会所属。1948年に花田清輝埴谷雄高らと〈夜の会〉を結成。《傷(いた)ましき腕》(1936年)の超現実主義的な重い感傷性から,戦後は《重工業》や《森の掟》にみるような〈対極主義〉による社会的アレゴリーの表現に向かった。彫刻も制作し,大阪万博のシンボル〈太陽の塔〉を作ったことでも知られる。2003年,メキシコで描いた巨大な壁画〈明日の神話〉が発見された。文筆活動も行い,著者は《今日の芸術》《アヴァンギャルド芸術》《沖縄文化論》など。《岡本太郎著作集》全9巻がある。川崎市多摩区に川崎市岡本太郎美術館,東京都港区にアトリエ兼住居であった岡本太郎記念館がある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡本太郎」の意味・わかりやすい解説

岡本太郎
おかもとたろう

[生]1911.2.26. 東京
[没]1996.1.7. 東京
洋画家。岡本一平岡本かの子の一子。 1929年東京美術学校に入学,同年末両親とともに渡欧,11年間パリに滞在。 31年ピカソの作品に感化されてサロン・デ・シュルアンデパンダンに『傷ましき腕』 (1936) を出品,37年まで抽象美術のグループ「アブストラクシオン・クレアシオン」に参加。 36年神秘主義と政治革命を目指す「社会学研究所」に加わる。この間パリ大学で哲学,社会学,民族学を修め 39年卒業。 40年に第2次世界大戦の戦局悪化のためパリを逃れて帰国。 41年二科会に入り (61年脱退) ,42年応召,中国で転戦。戦後は前衛派の主流として花田清輝,野間宏らと前衛芸術を推進し,原色図形などによる作品を発表。 60年代以後,各国の国際展に出品して海外でも評価を得る。また,評論家としても活躍するほか,舞台装置,モニュメントの制作,メダル,織物,家具のデザインを手がけ,70年の日本万国博覧会ではテーマ展示プロデューサーをつとめ,『太陽の塔』を設計し話題となった。その他の主要作品はパリ国際センター会議場の大壁画 (75) 。主著『日本再発見』 (58) ,『忘れられた日本』 (61) ,『美の呪力』 (71) など。

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改訂新版 世界大百科事典 「岡本太郎」の意味・わかりやすい解説

岡本太郎 (おかもとたろう)
生没年:1911-96(明治44-平成8)

画家。東京に生まれる。父は岡本一平,母は岡本かの子。1929年東京美術学校に入学するが,同年両親と渡欧,11年間パリで過ごす。ピカソの影響を受ける。G.バタイユの創設した〈社会学研究所〉のグループに加わる。パリ大学で哲学,民族学を学び,40年帰国。第2次大戦後は花田清輝,埴谷雄高らと〈夜の会〉を結成(1948)。またアート・クラブを組織(1952)。前衛芸術の推進者の一人として活躍。その間,《今日の芸術》《日本の伝統》など多くの著作を著し,反伝統主義にもとづく独自の文化論を展開。壁画,舞台装置,デザインなどを含めた芸術の総合を目ざした。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡本太郎」の解説

岡本太郎 おかもと-たろう

1911-1996 昭和-平成時代の洋画家,彫刻家。
明治44年2月26日生まれ。岡本一平・岡本かの子の長男。昭和4-15年フランスに滞在。抽象芸術やシュールレアリスム運動にくわわる。戦後は一時二科展に出品。絵画,彫刻,評論と多分野で活躍。45年大阪万国博の「太陽の塔」を制作。平成8年1月7日死去。84歳。神奈川県出身。パリ大卒。作品に「傷ましき腕」「夜」など。著作に「アヴァンギャルド芸術」「日本の伝統」など。
【格言など】芸術は爆発だ!

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367日誕生日大事典 「岡本太郎」の解説

岡本 太郎 (おかもと たろう)

生年月日:1911年2月26日
昭和時代;平成時代の芸術家;評論家
1996年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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