岡本玄冶(読み)おかもと・げんや

朝日日本歴史人物事典 「岡本玄冶」の解説

岡本玄冶

没年正保2.4.20(1645.5.15)
生年天正15(1587)
江戸前期の医者。曲直瀬玄朔の学塾で医学を学んで頭角を現し,門下第一の高弟と称されて,学塾の長となり門弟の指導に当たった。奥義書一切を伝授されて玄朔の3女(玄朔門で亨徳院系曲直瀬家を興した正純の次男正因に嫁し正因の早世未亡人となる)と結婚,寛永5(1628)年法印に進み,初代道三の院号・啓迪院を勅許された。元和9(1623)年に将軍徳川秀忠に召されてからは,隔年に江戸に下ること10年におよび,のち江戸に定住した。官医でありながらも時の権威には屈せず,徳川家光が幼少時に天然痘に罹患した際には,乳母春日局の反対意見に対して正論を述べ,結痂期に酒湯の法を実施させたという。没後は祥雲寺(東京都渋谷区)に葬られた。<著作>『灯下集』『玄冶薬方口解』『玄冶方考』『家伝預薬集』『増補済民記』

(宗田一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「岡本玄冶」の意味・わかりやすい解説

岡本玄冶
おかもとげんや

[生]天正15(1587)
[没]正保2(1645).4.20. 江戸
江戸時代初期の医師。名は宗什のちに諸品,号は啓迪庵,院号は啓迪院。慶長7 (1602) 年曲直瀬玄朔に入門,のちに女婿となり,玄朔の奥義をすべて伝授された。徳川家康に召されて元和4 (18) 年法眼となる。同9年将軍家光について江戸に出,寛永4 (27) 年から 10年間江戸と京都を隔年につとめ,同5年法印となった。同 14年家康の病気をなおして千石の采地を与えられ,京都では後水尾上皇明正天皇の診察にあたった。『灯下集』『玄冶配剤口解』『玄冶方考』『家伝預薬集』など著書が多い。子孫も代々幕府の医官をつとめ,啓迪院の号と玄冶を襲名した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岡本玄冶」の解説

岡本玄冶 おかもと-げんや

1587-1645 江戸時代前期の医師。
天正(てんしょう)15年生まれ。曲直瀬玄朔(まなせ-げんさく)にまなぶ。元和(げんな)9年将軍徳川秀忠の侍医となり,のち将軍徳川家光の病をなおし,1000石の領地をえる。京都と江戸を往復,京都にいるときは天皇を診療した。正保(しょうほ)2年4月20日死去。59歳。京都出身。名は宗什,諸品。号は啓迪院。著作に「灯下集」「玄冶方考」など。

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