出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
江戸後期の儒学者。幕府代官。名は善里(よしさと)。のち恕(はかる)。字(あざな)は中卿(ちゅうけい)、子強(しきょう)。通称清助、号は泰斎(たいさい)、寒泉。1200石の旗本岡田善冨(よしとみ)の次男として江戸に生まれた。武芸のほか、兵学を村主淡斎(すぐりたんさい)に、詩文を井上金峨(きんが)に学んだ。また、淡斎の子村主玉水(ぎょくすい)から山崎闇斎系の朱子学を学んだ。1789(寛政1)幕府に儒者として登用され、翌年、柴野栗山(りつざん)とともに聖堂取締を命ぜられ、松平定信政権下での学制改革(寛政異学の禁)に尽力した。栗山・尾藤二洲とともに「寛政の三博士」に数えられる。1794年代官に転じ、常陸(ひたち)国内182か村を管轄しながら昌平黌(しょうへいこう)の講師も務めた。荒廃した農村の立て直し、人口回復に尽力した名代官とされ、各地に「岡田大明神」の石祠などが建立された。著書に『幼学指要』(『日本文庫10』所収)など。
[梅沢秀夫]
『重田定一著『岡田寒泉伝』(1916・有成館)』▽『重田定一著『岡田寒泉 善政を施した名代官』(1980・筑波書林)』
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(梅澤秀夫)
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1740.11.4~1816.8.9
江戸後期の朱子学派の儒者。旗本岡田善富の子。名は恕(はかる),字は子強,通称清助。崎門(きもん)学を村士(むらじ)玉水に学ぶ。1789年(寛政元)松平定信に抜擢されて幕府儒官となり,柴野栗山(りつざん)とともに寛政異学の禁政策を推進した。これに尾藤二洲(じしゅう)を加えて寛政の三博士(のち寒泉に代えて古賀精里)とよぶ。94年代官職に転じ,常陸国内の民政に治績をあげ,領民から功徳碑を建てられるなど長く敬慕された。著書「幼学指要」。
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