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内科学者,とくに脚気研究の権威。須藤暢の次男として紀伊国和歌山に生まれ,幼くして島薗恒斎の養子となる。1905年東京帝国大学医科大学を卒業し,三浦謹之助の内科学医局に入る。11年ドイツに留学して神経病理学のエディンガーLudwig Edinger(1855-1918)に師事。13年帰国。岡山医学専門学校教授となったが翌年京都帝国大学教授に転じ内科学を担当。24年母校三浦謹之助の後任教授として第一内科を担当する。29年には日本最初の交換教授としてベルリン大学で1年間講義する。研究は一貫して脚気および神経病理学におき,とくに脚気に関しては病理・症候・病因・治療・予防の全分野にわたる研究を行い,またビタミンB1の研究から栄養学へと研究を発展させた。これに対し1926年帝国学士院賞が与えられた。
執筆者:松田 武
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内科学者。脚気(かっけ)の権威。和歌山県に須藤暢の二男に生まれ、島薗家の養子となる。1904年(明治37)東京帝国大学医科大学を卒業、同大学内科教室で三浦謹之助の下、内科学を専攻。1911~1913年ドイツに留学して神経病理学を研究。帰国後、岡山医学専門学校教授に任ぜられ、京都帝国大学教授を経て、1924年(大正13)東京帝国大学医学部へ移り、島薗内科を主宰、附属病院長も務めた。1929年(昭和4)には日独交換教授としてベルリン大学で講義を行った。脚気と神経病学の研究を続け、とくに脚気の病因、病理、症候、治療、予防など広範囲に研究した。1926年ビタミンB1の研究により帝国学士院賞を受賞。
[大鳥蘭三郎]
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