川入村(読み)かわいりむら

日本歴史地名大系 「川入村」の解説

川入村
かわいりむら

[現在地名]岡山市川入

中田なかだ村の北にある。「備中誌」は天正一三年(一五八五)の新開とし、それ以前に板倉いたくら川ないし御辺川なる川が海に流れ入る地であったのが村名の由来と記す。いにしえの親村でのち枝村となる東山ひがしやまは、文明六年(一四七四)三月二八日の福武経通注進状をはじめ吉備津神社文書にみえ、同社の散在社領があった。

寛永備中国絵図には東山村とみえ、高四〇二石余、庭瀬藩戸川氏領。正保郷帳も同高、同藩領で、「水損所大」とあり、庭瀬にわせ村の枝村として川入村・小西こにし村の名を記している。延宝七年(一六七九)戸川氏廃絶で幕府領となる。天和二年(一六八二)の高一千二五三石余・反別七五町余、家数は川入村三一・東山村二三・東小西村一二・西小西村一二(「川入村絵図」県総合文化センター蔵)


川入村
かわいりむら

[現在地名]倉敷市川入・寿町ことぶきちよう

はま村の西に位置し、北部を鴨方かもがた往来が通る。天正一三年(一五八五)の宇喜多堤築堤で開発された新田の一部に相当し、慶長(一五九六―一六一五)末年の倉敷川締切によって開発された新田の一部を加えたのが当村と思われる。寛永備中国絵図では高一七二石、岡山藩領。宝永五年(一七〇八)から同藩生坂領であり(撮要録)幕末まで同領。享保六年(一七二一)の「備陽記」によれば、家数八・人数三八、田畠二二町六反余。文化年間の「岡山藩領手鑑」では高一七二石余、直高一八六石余で一四六石が生坂領、残りは家臣一名の給地、田二町七反余・畑二三町八反余、樋二、関戸三、井戸一六、橋一二、牛六、家数一七・人数一一一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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