朝日日本歴史人物事典 「川崎定孝」の解説
川崎定孝
生年:元禄7.3.15(1694.4.9)
江戸中期,名主から幕府代官に登用された農政家。通称平右衛門。武蔵国多摩郡押立村(東京都府中市)の名主。水害防止のために多摩川沿いに竹を植林,栗林を仕立て江戸城に栗を献上,江戸にきた象の糞尿を精製し薬として売り出すなど,名主の分限を超えて活躍。享保改革で開発された武蔵野新田が,凶作や入植百姓の離散で危機に陥ると,元文4(1739)年新田世話役に登用され百姓を保護,指導した。寛保2(1742)年の大洪水には多摩川沿いの復旧に尽力。翌3年支配勘定格に昇進,関東の天領3万石を支配。寛延2(1749)年美濃郡代支配下の本田陣屋(岐阜県穂積町)に移り4万石を支配,長良川・揖斐川流域の治水に努力した。宝暦4(1754)年代官に進み引き続き本田を支配。同12年石見大森(島根県大田市)代官となり,衰微した銀山の回復を図る。明和4(1767)年勘定吟味役兼石見銀山奉行に上ったが,2カ月後に病死した。近世中期の農政の課題であった新田開発と治水に尽力し,名代官として赴任地の所々に供養塔や神社が建立されている。<参考文献>『高翁家録』(『国分寺市史 史料集』2巻),渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』
(根岸茂夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報