中国,四川省をさしていう語。巴とは現在の重慶を中心として,嘉陵江流域を含む四川省東部をさし,蜀とは成都盆地を主地域とし,岷(みん)江流域に広がる西部をさす。元来はいわゆる西南夷系統に属する異民族の住地であったが,その中で巴と蜀はさらに民族・文化系統を異にした。秦がこの地を領有し,漢の武帝が巴・蜀と漢中および南中(雲南省)を含めて益州としてより,一地域として扱われるようになった。
巴には巴郡南郡蛮,板楯蛮等と同系統のものが住んでいたのであろう。《後漢書》南蛮伝には鍾離山の赤穴中に生まれた廩(りん)君が土船に乗って浮かぶことができたので推されて君となり,塩水の神女と争ってこれを倒したことを伝え,死後白虎となったと述べている。考古学的には巴の東,湖北省との境の地域に大渓文化と呼ばれる新石器文化が展開していたことが明らかにされている。また重慶や昭化県(嘉陵江上流)から発掘された船棺葬や川東・川南地区に残存している懸棺葬も巴の文化と関係があるようである。前者の副葬品中には巴蜀式と呼ばれる青銅器があり,雲南の石寨山(せきさいざん)文化(石寨山古墓)との関係が注目される。巴は東隣の楚と交渉を持ったが,前4世紀に至り秦に併合された。
蜀は周の武王が殷を伐(う)ったときに,これに従ったものの中にその名が見える。《蜀王本紀》によれば蚕叢(さんそう)を始祖とする政権があったことが知られる。蚕叢は石棺・石槨に葬られたというから,岷江上流から発見された石棺葬との関係が注目される。この政権に代わって鼈霊(べつれい)を始祖とする第2の政権が生まれる。彼には死体となって長江(揚子江)をさかのぼったという伝承があるが,また巨石文化と関連を有する話を多く伝えていて興味深い。前4世紀末にいたり,秦は将軍司馬錯を派遣して蜀の地を領有し,巴をも併せた。成都城が築かれ,李冰(りひよう)による都江堰の建設も行われ,経済的にも豊かになった。秦の統一や漢の高祖劉邦の勝利も,この地を領有したことに大きな原因があろう。また漢末の公孫述,後漢末の劉焉・劉璋政権とこれにつづく劉備の蜀漢国,五胡の成漢,五代十国の前後蜀,いずれもこの地の豊かな経済力を背景にして成立している。
執筆者:狩野 直禎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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