広沢寺(読み)こうたくじ

日本歴史地名大系 「広沢寺」の解説

広沢寺
こうたくじ

[現在地名]八戸市類家二丁目

新井田にいだ街道沿いの寺町通に位置する。月峰山と号し、曹洞宗本尊は延命地蔵尊。雑書の承応二年(一六五三)四月二七日条に「一八戸類家地蔵堂ニテ去廿五日ニ御祈念仕別当鬮取之由一段と能模様ニ御座候由」とみえるが、当寺は本来地蔵堂の別当寺として建立されたものである(「八戸祠佐嘉志写」八戸市立図書館蔵)。寺伝では寛永三年(一六二六)の草創で、開山対泉たいせん院三世林安(南)とする。寛文五年(一六六五)の無量院の御立願状(常泉院文書)に「一類家ノ地蔵 戸張一流之事」とあり、正徳四年(一七一四)には「類家地蔵御供料」として金五両が給された(八戸祠佐嘉志写)

広沢寺
こうたくじ

[現在地名]松本市里山辺 林

林城の南の山続きに建てられた曹洞宗の寺。竜雲山と号し、本尊は釈迦如来。松本の井川いがわに進出した小笠原氏の菩提寺である。「信府統記」によれば、宝徳元年(一四四九)小笠原持長の時、雪窓和尚を招いて断絶していた護法山乗蓮寺を竜雲寺と改め、小笠原長棟死去の際、同寺を竜雲山広沢寺としたという。長棟の法名を広沢寺殿天祥正安と称することによるという。「其後石川伯耆守父子当地ノ守護タリシ時、田沢・吉田両所ノ寺領ヲ没収セラル、其後慶長一八年小笠原兵部大輔信濃守秀政当地ヘ入部ノ時前ノ寺領ヲ寄付セラル」とあるが、寺伝では嘉吉元年(一四四一)小笠原政康開基となっている。

広沢寺
こうたくじ

[現在地名]鎮西町大字名護屋

名護屋なごや城の上山里丸かみやまざとまるにある。曹洞宗で池福山と号す。本尊釈迦如来。もと字古里ふるさとにあり、慶長一三年(一六〇八)現在地に移す。開基はこの地の領主名古屋経述。

豊臣秀吉は名護屋在陣中、淀君・松の丸殿とともに山里丸に居住した。山里の茶屋はここにある。経述の妹広は秀吉に仕え広沢局と称したが、秀吉の没後尼僧になり、領主の許しを得て山里丸を庵室とし、故人の菩提を弔った。寛永五年(一六二八)四月二四日没。広沢院殿円窓智月禅定尼と諡号する。以前の寺名は不詳であるが、以後広沢寺と称する。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「広沢寺」の解説

広沢寺

(長野県松本市)
信州の古寺百選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の広沢寺の言及

【名護屋】より

…城跡には青木月斗の〈太閤が睨みし海の霞哉〉の句碑が立ち,遠くには壱岐の島影が眺められる。名護屋城山里丸跡にある広沢(こうたく)寺は秀吉に仕えた広沢局の開基で,境内の大ソテツ(天)は加藤清正が献上したものという。秀吉在陣時に始まると伝える盆綱ねり,秀吉命日の豊公祭などの行事が行われる。…

※「広沢寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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