江戸中期の神道(しんとう)学者。出口延佳(でぐちのぶよし)ともいう。慶長(けいちょう)20年4月28日、伊勢(いせ)に生まれる。通称は与三次郎。初め延良(のぶよし)、のち延佳と改める。信濃(しなの)、愚太夫(ぐだゆう)と称し、直菴(じきあん)、講古堂(こうこどう)と号する。6歳にして豊受(とようけ)大神宮権禰宜(ごんねぎ)に補せられ、神明奉仕のかたわら、度会神道(伊勢神道)の興隆に努めた。学説の特色は、中世思想を脱し、「日域(にちいき)相伝の中極の神道」を平易に主張したことにある。1648年(慶安1)、同志70人と豊宮崎(とよみやざき)文庫を創設、『神書旧記』を校訂編纂(へんさん)し、秘籍の開板を進めた。その学名は後光明(ごこうみょう)天皇の叡聞(えいぶん)に達し、徳川光圀(とくがわみつくに)の勧めにより『太神宮参詣記(だいじんぐうさんけいき)』を献上した。門下には山本広足(やまもとひろたり)(1642―1710)、真野時縄(まのときつな)(1648―1717)、河辺精長(かわべきよなが)(1602―1688)など、多くの俊秀が輩出した。また度会四門の氏人(うじびと)意識から、摂社(せっしゃ)の田上大水(たのえおおみず)神社を再興するなど事績は多い。東山(ひがしやま)天皇即位の総位階によって正四位下に昇叙。元禄(げんろく)3年1月16日没。主著『陽復記(ようふくき)』はじめ、『太神宮神道或問(わくもん)』『神宮秘伝問答』『伊勢太神宮神異記(しんいき)』『中臣祓瑞穂抄(なかとみはらえみずほしょう)』など、著書も多い。
[中西正幸 2017年10月19日]
『神宮司庁編『度会神道大成 後篇』(1955・神宮司庁/複製・2009・吉川弘文館)』▽『西川順土校注『神道大系論説編7――伊勢神道 下』(1982・神道大系編纂会)』
江戸初期の神道家,国学者。外宮権禰宜で,出口延佳ともいう。著書には《陽復記》,《神宮秘伝問答》,《神宮続秘伝問答》,《中臣祓瑞穂鈔》,《神代巻講述鈔》があり,校訂板行した書に《鼇頭(ごうとう)旧事紀・古事記》および《士仏参詣記》などがある。また豊宮崎文庫を創設し神官祠官の子弟教育にも努力したが,1670年(寛文10)11月の大火で多年収集の書物および校訂の書冊いっさい烏有に帰した。71年10月には両宮師職銘論の訴訟があり,江戸に提訴した外宮方は敗れ,祠官一同とともに閉門に処せられ,以後志気衰えて著述も中止し,90年正月18日76歳をもって没した。山田尾上川妙見山の後に葬られ,後に豊宮崎文庫の側に祠を建て霊をまつった。日本の神道界を二分する吉田神道は,戦国時代に吉田兼俱が出て行法祭祀の内容を整備して近世に唯一神道として生き残る路線を定め,近世に入り吉川惟足(よしかわこれたり)が出現して吉田神道の近世的発展を確実にした。これに対し伊勢神道は,祠官儀礼神道として墨守され,教義内容を近世化するのに後れを取り,この間に吉川神道,垂加神道の発展を傍観せざるをえなかった。この間にあって惟足,垂加(山崎闇斎)と同年輩の延佳は神仏習合的な従来の伊勢神道の伝統に対し,神儒合一的な見解を《陽復記》において展開,また神宮神典に対しても原本批判的な業績を挙げ,伊勢神道の近世化に大きな役割を果たした。
→伊勢神道
執筆者:平 重道
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※「度会延佳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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