庭園(読み)テイエン(その他表記)garden

翻訳|garden

デジタル大辞泉 「庭園」の意味・読み・例文・類語

てい‐えん〔‐ヱン〕【庭園】

計画的に草木・池などを配し、整えられた庭。「日本庭園」「屋上庭園
[類語]ガーデン名園林泉庭先外庭内庭中庭坪庭前庭まえにわ前庭ぜんてい裏庭石庭箱庭御苑神苑内苑外苑花園梅園花壇前栽築山

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精選版 日本国語大辞典 「庭園」の意味・読み・例文・類語

てい‐えん‥ヱン【庭園】

  1. 〘 名詞 〙 計画的に築山・泉水を設け、樹木や芝生などをととのえた庭。
    1. [初出の実例]「夏六月土用中、与壺置庭園炎日」(出典:雍州府志(1684)六)
    2. 「斜めに貫きたる大道あり、諸道合湊の所には、方或円の庭園を設け」(出典:航米日録(1860)四)

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改訂新版 世界大百科事典 「庭園」の意味・わかりやすい解説

庭園 (ていえん)
garden

広く美観,慰楽,実用の目的で,ある敷地内で建造物以外に計画された区域をさし,通常,泉水や水路,池を設け,植栽などが施される。

庭園という言葉は新しいもので,もともと庭と園は別の意味をもっていた。〈(にわ)〉は仕事や行事をするための場所をいい,平坦な土地を指した。古代は神事や政事の場所でもあったが,屋前の広場,屋前および屋内の農作業場,家屋まわりの空地などに対しては,今も〈庭〉が通用している。〈園(その)〉は野菜や果樹,ときに草花を栽培している〈囲われた土地〉を意味した。所有主の領域を示し,また植物が植えられているのが特徴である。野菜や果樹のような実用的なものより,花卉のような観賞的なものが主力を占めてくると,今日いう〈庭園〉の概念に接近してくる。庭は,植物の有無には無関係で,囲われていないのが特徴である。庭と園は人の生活する家を媒介として結びつき,それぞれ内容を濃くするものであったが,庭と園をくっつけて,庭園という語になったのは明治以降のことで,19世紀末,明治20年代から30年代にかけて定着していったものである。現代,庭園の語は,造園の対象となる,区画された,美と機能のそなわった空間に対して使われている。また庭という言葉もひきつづいて使われ,社会生活が複雑に高度になるにつれて,造園の範囲は拡大し,区画されない土地,すなわち庭のウェイトが今日ますます高まっている。従来,造園の対象とした庭園はほとんど個人が生活する住居の庭園にすぎなかったのだが,今では,官庁,事務所,病院,学校,共同住宅,ホテル,緑道,広場というように範囲がひろがり,必ずしも囲われている空間ばかりとは限らなくなった。

日本における庭園の初めての記録は,《日本書紀》推古天皇34年(626)条にあらわれる。この年蘇我馬子が没したが,飛鳥川の畔にあった馬子の家の庭には,小池が掘られ,池には小島が築かれていた,という。馬子はこのために〈嶋大臣〉と呼ばれ,この庭園が珍しく,評判になっていたことがわかる。平坦な広場として実用的に使われていた〈庭〉に小池を掘り,小島を築いて観賞の対象としての〈庭園〉がつくられたのである。百済から仏教が伝えられたとき,崇仏か否かの論争があったが,崇仏側の蘇我氏が勝ちを占め,飛鳥寺が建立された。庭園がこの蘇我氏によってつくられたことは,庭園の技術も百済より伝来したと想像させる。大化改新後になって,天武天皇の皇子,草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が《万葉集》巻二にのこされているが,この歌から皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ,荒磯の様を思わせる石組みがあり,石組みの間にはツツジが植えられ,池中には島があり,このために〈橘の島宮〉と称せられたという。このように,池を掘り海の風景を表そうとしたことは,以後の日本庭園にも長く受け継がれる。飛鳥や平城京跡の庭園発掘がすすみ,文献では得られない知見を加えている。平城京の左京三条二坊六坪からは,長さ55m,最大幅5mの,細長く屈曲し,底に玉石を敷きつめた池が発掘され,公的な曲水の宴が催された庭園として注目された。

8世紀末になって都が京都にうつされたが,京都は三方が山に囲まれ,清流にめぐまれた景勝の地である。いたるところに森や池や泉があった。三方の山々は古生層に属してゆるやかな起伏をもち,また盆地縁辺にはいくつかの独立した小山も点在していた。この古生層の山河からは,美しい庭石と白砂がとれた。地形からも材料からも,庭園をつくるのに好適の地であったといえる。9世紀は天皇の離宮,退位してからの御所の庭園に優れたものが多くつくられたが,京都の北西にある大沢池は,嵯峨天皇の離宮としてつくられたものである。大沢池には北に寄って中島が二つあり,この付近に今も庭石が散見される。北方に名古曾(なこそ)の滝の遺跡もある。

 10世紀も半ばをすぎると,藤原氏が広大な荘園を経済的基盤として栄えてきた。このころは〈古めかしきもの〉から〈今めかしきもの〉への変換期で,生活が変わりつつあったといわれる。中国から伝来した中国絵画がようやく日本化され,いわゆる〈やまと絵〉の成立したのもこの時期であり,漢詩文に対し仮名書きの文学作品が書かれるようになるのもこの時代である。貴族の住宅や庭園に中国とは違った独自の様式がつくられた。貴族の住宅は寝殿造と呼ばれ,広いものは,1町四方に及んだ。門は西か東にあって,南側には敷地いっぱいに庭園がつくられた。寝殿は南面し,南庭が設けられたが,南門のなかった点は中国の形式と異質のものである。南庭は白砂が敷かれ,年中行事の儀式の場とされた。その前方には二,三の島が築かれ,島へは南庭から反り橋を,さらに島から対岸に平橋を架けていた。中門廊の南端は池に臨み,釣殿(つりどの)がつくられた。ここは納涼,月見の宴に用いられたり,舟遊びの際には発着の役目を果たした。中島の裏側には楽屋がつくられ,舟遊びに興をそえることもあった。南庭には遣水(やりみず)と呼ばれる流れが寝殿と東の対屋(たいのや)との間,透渡廊(すきわたろう)の下をくぐって流れていた。池がつくられないような狭い敷地の場合でも,この遣水だけはつくられた。遣水の流路とその護岸としての石立は,流れに変化をつけるもので,水が石につきあたって白く波だつ面白さや水音にもこまかく気が配られた。

 寝殿造の庭がとくに詳しくわかっているのは,当時の公家橘俊綱が書いたといわれる《作庭記》がのこされているからである。《作庭記》には自然の風景からモティーフを得るという主張が貫かれている。また自然と作者との対応のしかたが〈乞はんに従う〉という言葉で表現されているのは重要である。すなわち,自然の地形や岩石が,人間に要求してくるというのである。自然が人間に要求するという感じ方に,日本人独特の自然観がみられる。自然が人間と対立し克服すべき対象となるのではなく,自然の中にとけこみ,自然に従いながら作庭しようとする。《作庭記》が公家自身の手で書かれたように,当時の公家は一流の作庭家でもあった。この著者の父は,宇治平等院をつくった藤原頼通である。頼通も庭園をつくろうとしたとき,気に入った専門家がなく,みずから作庭したといわれる。

平安中期(10世紀)以後仏教は国家的なものから私的なものに変わり,貴族の私寺が増えた。住宅の中に御堂を建て,また仏寺が別荘としての機能も果たした。藤原道長の法成寺,頼通の平等院をはじめとして11~12世紀を通じて時代の風潮を形成した。眼の前に極楽浄土の世界をつくろうとしたのである。この形式の伽藍配置には池の占めるウェイトが非常に大きい。参拝者は南門をくぐって大池に架かった反り橋を渡り,中島を経て御堂に達するようになっていた。華麗な堂塔が池面に映る姿は浄土を空想させたであろう。阿弥陀堂の東面に池が掘られるという浄瑠璃寺のような場合もあるが,池や庭園がやや整形的になっているのが多いのは,浄土曼荼羅の構図がもとになっているからであろうか。11世紀の末からおよそ80年間にわたり,白河院の鳥羽離宮(鳥羽殿)が造営された。鳥羽は平安京の南,鴨川に接した風光明媚な土地で,従来からも別荘地であった。この地に東西1.5km,南北1kmの区域を占めた離宮がつくられたのである。池は東西6町,南北8町あり,池に数個の中島が浮かんでいた。白河院が自慢にしていた庭園で,池を中心に南殿,北殿などの住宅と安楽寿院などの堂塔が同居した浄土形式の構成であった。この浄土形式の建築と庭は,12世紀初期には京都より遠く離れた東北の平泉につくられ,今も庭園の遺跡をとどめている。藤原基衡のつくった毛越(もうつ)寺は比較的原形をとどめ,新たに石組みも発掘されている。また基衡の夫人がつくった観自在王院,娘のつくった白水阿弥陀堂は,庭園を発掘復原して公開されている。

 初めて武家政治を打ち立てた源頼朝も,鎌倉に浄土式庭園の形式を受け継いだ,永福寺の庭をつくっている。13世紀の初めには京都の北西に西園寺公経が西園寺をつくったが,これも寺といいながら公経の別荘でもあった。大きな池を中心に多くの御堂と住宅が配置されたもので,14世紀の末に将軍足利義満のものとなって北山殿と呼ばれ,有名な金閣が建立された。義満の死後,鹿苑(ろくおん)寺(金閣寺)となっている。
浄土教美術

12世紀の末,宋より禅宗が伝えられたが,同時にもたらされた禅宗寺院の様式や庭園は,1世紀を経てようやく日本的に消化され,定着するようになった。この中心人物が夢窓国師(夢窓疎石)であった。夢窓国師は自然を愛好し,行くさきざきに名園をつくった。なかでも西芳寺の庭は,禅宗の世界観で構成された傑作である。この庭園が以後の庭園に与えた影響は測り知れないほどである。寺は山の麓につくられ,池と,その上の山の斜面を利用した禅堂の庭とに分けられる。またこの禅堂より山に登る道があって,頂上に縮遠亭という休憩所があった。頂上からは桂川周辺を展望しようとし,池辺の2層の舎利殿からは庭園を見下ろそうとする構想で,両者は同一の考えから出た,立体的な構想力を示したものである。池には三つの島があり,小島には白砂が敷かれ松が植えられ,亭があった。池の3面の花木は2段に刈り込まれていた。池の周辺には2層の舎利殿のほかに,釣寂庵,湘南亭,潭北亭,貯清寮,邀月(ようげつ)橋,合同船があった。広さに比して建築的要素の多い庭といえよう。この邀月橋は亭をもった亭橋で,これを渡ると長鯨にのって大海に浮かんだようだといわれた。向上関より石段を上がった所に指東庵という禅堂がある。この山腹に巨石を組み,滝を象徴している。ここは《作庭記》にいう山里の景に似ながら,きびしい禅の世界を思わせる。禅堂の前庭としてまことにふさわしい環境の構成である。石組みの最高峰といってけっして過言ではあるまい。夢窓国師が庭園をつくるときは,それは遊興のためではなく修行の一部であり,庭園をつくるために田畑をつぶす苦しみを述べた記録ものこされている。他の一流芸術に匹敵する庭園は,こうした心のあり方から生まれたといえよう。この石庭は枯山水(かれさんすい)として知られているが,これ以来,書院の庭としてこの石組みが発展した。

 14世紀の末ころから,五山を中心に禅僧たちの間に文学が隆盛し,また中国宋から水墨山水画が伝来し,公家をも含めた詩会のためのサークルをつくっていた。このサークルの場として禅寺の書院が使われることが多く,したがって書院の庭が当然発達することになったのである。この小さい書院の前庭としての狭い空間に,自然の山水を凝縮したような庭をつくりだした。これは水墨山水画と根底を等しくするものであった。岩石を二つ三つ組んで山あるいは滝を表し,砂で川や海を象徴しようとした。代表的な実例が,大徳寺塔頭大仙院の書院の庭である。また,これ以上省略できないというところまで材料を単純化した竜安(りようあん)寺の庭のような傑作までつくられた。大仙院の庭は書院の東側にあって,100m2くらいの平面に岩石を立て,刈込みを配して岩山として2段に滝の石を組み,白砂で表した流れには石橋を架け岩島を設けた。石堰を横たえた下流には石橋を浮かべている。すべて山水画と相通ずるものがある。書院には縁があって庭園との連帯感をもち,座敷あるいは縁に座して庭園を観賞するようにつくられている。大仙院や竜安寺の庭はともに枯山水といわれ,白砂で水の流れを象徴するところに特徴がある。庭園には水が不可欠のものであるという考えが根底にひそんでいる。庭園のことを山水といったのもそのためである。

15世紀の後半より京都,堺の町衆の間から〈下々のたのしみ〉としての茶の湯が流行した。茶を飲み茶器を鑑賞しあうことで,主客の融合をはかったのである。千利休の晩年にいたって草庵風の茶は完成されたが,田園的・山間的情趣を表現の主題とし,茶室は農家の藁屋を,茶庭は山寺への道の趣を表そうとした。植木は山にある常緑樹を用い,剪定は最もいましめられた。里にある木も植えず,人工を避けできるだけ自然に,山の趣を出そうとしたのである。茶庭の骨組みをつくっているのは,飛石と手水鉢(ちようずばち)である。のちには石灯籠が夜の茶会の照明として据えられるようになった。茶庭に使われる手水鉢や灯籠は,新しくつくるよりは既存のものが好まれた。廃絶や改修で不要になった橋脚や墓石などが茶人に見立てられて,茶庭の重要な見どころとなった。長いあいだ風雨にさらされていると風化して苔が生える。そのわびた姿が好まれたのである。茶庭はまた露(路)地ともいわれ,茶室への〈みち〉を意味している。露地は茶室への道であって,飛石をつたって歩くようにできている。あくまでも歩くための庭であって,見る要素は少なかった。町衆の人々にはぐくまれた茶の湯が,利休の弟子の古田織部や小堀遠州のような武将の手に移るころには,かなり内容が変化している。露地は,広い大名屋敷内につくられた関係もあって広くなった。大きな露地は途中に垣根を一つ二つつくって変化をつくり,また見る要素を強くするようになった。平庭に近かった露地に築山をもうけ,流れや池までもつくり,また石灯籠が重要な見どころとなったのもこのころである。ここに寝殿造風な庭園の伝統や書院庭の石組みの流れと触れあう面があった。この合流点に立った人物は小堀遠州であり,庭園としては桂離宮の庭園が現存する。

 織部や遠州の茶は,利休の茶にくらべると作意が強いといわれる。利休が作意をも自然らしさの中に含みこもうとしたのに対し,織部は作意を表面に押し出した。織部は飛石や畳石を打つとき,大ぶりなもの,しかも自然にあまり見られない〈異風なもの〉を探し求めたのである。それまで飛石には小さい丸石を使っていたのを,切石の,しかも大きいものを好んで使った。なかでも織部が考案したと伝えられる織部灯籠のきりっとした形は,織部の作風を想像させるに十分である。遠州は織部の作風を受け継ぎ発展させた。織部の作意が主として陶器の方に向けられたのに対し,遠州は建築と造園へより集中した。遠州の著しい特徴は,庭園に直線を導入したことである。桂離宮の輿寄(みこしよせ)の〈真の飛石〉が遠州好みと伝えられたのも故なしとしない。種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は,以前には見られないものであった。直線に使った長い畳石は桂離宮内の諸所に見られる。特に松琴亭前の反りのない石橋(切石)は圧観である。

17世紀の初め,徳川家康が政権をとって以来,諸大名を統制するために参勤交代という制度を考えだした。このために大名たちは江戸と領国の両方に庭園をもつ邸宅を構えた。江戸につくられた庭園の中で有名な後楽園について説明しよう。この庭園は徳川光圀が明の朱舜水を招いて設計に参加させたといわれるだけあって,中国的,儒教的な趣好が濃厚である。池のまわりを回遊して観賞するようにつくられ,庭園内の景観として自分の好む名勝地をモティーフとしたものが配された。それらはいずれも庶民の遊観所で,また中国の文人たちが好んで歌った西湖や廬山もとり入れている。こういう景観をひきしめるためにも,また利用上からも,休憩所としての茶屋や御堂を建て,これらの建物と庭景観とで局所局所をまとめ,順路にそって回遊するようにできている。時間とともにつぎつぎと展開されていく変化の多い景観は音楽に比較される。広々した池面に出る前に必ずうっそうと茂った木立を通り,山々を通りぬけるときも変化にとんだ建物や橋で飽かせることがない。

 17世紀も中期になると町人の文化が栄え,華やかな風潮が支配する時期を迎えたが,庭園も広い芝生をとった明るいものになった。中世のように池泉にも石組みを多く使わず,石を使うときも,捨石といって要所に1個だけを捨てたかのように配することが行われた。まるみのある石が好んで使われたのはこのころである。18世紀初期,柳沢吉保がつくった江戸の六義園(りくぎえん)は,和歌趣味にあふれた,明るい庭として有名であり,岡山の茶屋屋敷の庭(現在,岡山後楽園という)も芝生を主とした庭である。四国の高松にある栗林荘(りつりんそう)もやはり大名の別荘である(栗林公園)。この栗林荘を造営した松平氏が水戸の徳川家を継いだとき,同家の後楽園(江戸)を当世風に大改造し中国風をやわらげたのも,この時代すなわち18世紀初期のころであった。

 18世紀後半になると二つの特徴があらわれた。一つは著しい園芸の流行である。江戸ではある地域一帯に植木屋が軒を並べて花園を開放し,江戸市民の名所になった。これが大名の庭園にも入って,後楽園が再度改造され庭園内に草花が植えられた。また,江戸の隅田川東岸の向島(むこうじま)に町人がつくった百花園(ひやつかえん)は草花ばかりの庭園であり,しかも営業として成立したのであった。もう一つの特徴は,大名庭で庶民に開放されるものがでてきたことである。水戸の偕楽園や白河の南湖がそれである。庶民といっても一般大衆すべてとはいかなかったが,近代の公園へ結びつくものとして重要である。

明治になると,西洋の影響で生活様式や建築が変わり,それにつれて庭園にも新しい動きがみられる。旧大名や政府の高官,新しい実業家たちが大庭園をつくった。芝生を広くとった明るい庭で,ここで園遊会が行われた。芝生の間をゆるいカーブの園路がめぐり,自然主義の庭園といわれる,雑木の多い森と人工とも思われない池をもつ明治神宮内苑(小平義親作)は,自然味ゆたかな心の休まる庭であり,山県有朋が1896年京都南禅寺の西につくった無鄰庵(むりんあん)もその代表的なものである。さほど広くない敷地をうまく使って東山を借景(しやつけい)とし,疎水からひいた流れが芝生の間をぬっている。施工にあたった小川治兵衛(植治)は,その後,南禅寺近辺に野村碧雲荘,住友別邸などの庭園をつくった。植治の流れは岩城亘太郎に受け継がれている。

 大正から昭和にかけては小庭園時代に入っていく。小庭園では自然主義的な庭は困難で,写景でなく,自然の景趣を写そうとするもので,作庭者の主観の強い造形的,装飾的な庭園となる。画家山元春挙と造園家本位(もとい)政五郎がつくった蘆花浅水荘(大津市)は文人風の庭といわれ,これを継いだという小島佐一にも川田邸(京都市)の庭がある。大正期には造園学がおこり庭園協会を中心に古庭園の研究,新しい庭園を模索した。昭和に入ってからは,二つの目立った動きがみられる。一つは寺院に多くの枯山水をつくった重森三玲であり,自然主義的な庭園を批判して象徴的な庭園を打ち立てた。いま一つは昭和の初めころ飯田十基が推進した雑木の庭で,そののち小形研三に継がれ,都市の人工化とともに急成長している。戦後,建築が近代化するにともない,公共建築の庭園,公共の庭園へと発展していく。日本芸術院会館の庭園(中島健),入谷町南公園(池原謙一郎)などがそれである。
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中国の庭園には大きく分けて,苑囿(えんゆう)と呼ばれる皇帝所有の大規模自然庭園と,貴族,官僚,豪商などの私邸庭園の別があり,両者の性格と規模は異なるが,造園の手法には共通点も少なくない。苑囿の出現は周代にさかのぼると伝えられるが,造園の事跡が確認される古代の実例としては,秦始皇帝の上林苑のほか,咸陽の離宮で渭水の水を引いて池を作り蓬萊山(ほうらいさん)を築いているのは人工的な築山(つきやま)の先駆である。前漢武帝は上林苑を拡張し,建章宮では太液池(たいえきち)中に東海神山をかたどった築山を作った。茂陵の袁広漢の造園は石の築山,砂の洲浜を備え,珍奇な禽獣や樹木を集め,多くの建築を配したもので,すでに山水,花木と建築を組み合わせる中国庭園の原型がうかがえる。

 下って後漢の梁冀(りようき)の広大な苑囿,南北朝時代では北魏の張倫,劉宋の戴顒(たいぎよう)らの造園もまた山水を主たる園景としたものであった。また,隋の煬帝(ようだい)の東都(洛陽)の西苑,唐の長安の曲江,大明宮后苑,北宋の東京(とうけい)(開封)の艮岳(こんがく),金明池,元の大都の太液池などに代表される歴代王朝の苑囿は,豪壮な規模と華麗な園景によってつとに知られる。貴族官僚の庭園では,唐の白居易の廬山草堂,王維の輞川(もうせん)別業は歴史に名高く,また北宋の西京(洛陽),南宋の臨安(杭州),呉興(湖州)などの地にあった数多くの名園については文献の記述からその自然園景の画趣がうかがえる。しかし,これらの史上に名高い苑囿・庭園はいずれも失われ,古い時代の実例は伝わらない。現存する庭園遺構は,蘇州の芸圃(げいほ)や無錫の寄暢園などが明代の風格をとどめているのを除くと,いずれも清代,大半は末期以降の再建を経ている。代表的遺構として,江南地方の私邸庭園に芸圃,寄暢園のほか,蘇州の留園,拙政園,滄浪亭,獅子林,網師園,環秀山荘,耦園,鶴園,揚州の个園(かえん),何園,片石山房,上海の予園,南京の瞻園(せんえん)などがあり,また皇帝の離宮・苑囿には北京の紫禁城西苑(三海),頤和園(いわえん),円明園,承徳の避暑山荘などがある。

 一方,遺構とは別に,往時の庭園の情況を録した《洛陽名園記》《呉興園林記》《游金陵諸園記》などの文献や,造園理論書を代表する明の計成の《園冶》をはじめ,張南垣,周秉忠(へいちゆう),清の張漣,張然,葉洮,李漁,仇好石,戈(か)裕良らの造園論が伝わる。文献からうかがい知る中国の造園は,人工的に築いた山水を造景の主題とする点では,ほとんど一貫している。園景としては自然を模倣して池,山,峰,谷,滝,洞などを築き,園内の配置は自由で不規則的なものが好まれ,花木とともに建築が観賞地点と園景対象の両面で主要な構成要素とされる点が特色といえよう。土,石の築山は漢代以来の伝統を有し,宋代には普遍化し,奇石の観賞は南北朝時代以降に文人の間で始まったものであり,詩や絵画からの寓意,借景や対景の手法とともに,中国の造園が長い伝統のなかで生みだした独自の手法に数えられる。同時に,《園冶》に代表される造園書の個別的手法と,その類型化をいっそう推し進めた現存遺構の諸要素が,その伝統の末期に属することも注意されてよい。
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イスラム世界ではペルシア語に由来するブスターンbustān(〈かぐわしい所〉の意)が庭園を指す用語として広く使われてきたが,この語は同時に菜園,果樹園を指すこともある。また楽園をも意味するジャンナjanna,フィルダウスfirdausのほかラウダrauḍa,バーグbāgh,ハディーカḥadīqaなど,庭園を指す言葉は少なくない。

 イスラム世界の中心となる西アジア,北アフリカの国々のほとんどは乾燥地帯に位置し,集落を取り巻くのは不毛の砂漠か荒野である。砂漠は単に視覚的に単調であるばかりでなく,無あるいは死を意味する忌まわしいものであり,この苛酷な自然を克服し改善して生まれたのがオアシスであり庭園であり,ここに人々の水と緑への渇望が集約されている。イスラムの庭園がきわめて人工的(整形的,幾何学的)な構成をとるのは,ひとつには範とすべき美しい自然が現実には存在しないからである。したがって,いわゆる借景という発想が生まれる素地はなく,まして水や緑を欠く枯山水などはイスラムの庭園の範疇には入らない。ユダヤ教やキリスト教における〈理想の庭園〉の長い伝統を受け継いだイスラムにおいても,庭園は永遠の楽園のイメージとみなされている。つまりイスラムの庭園は理想化された〈地上の楽園〉である。コーラン(47,55,76章など)によると,楽園には涼やかな木蔭とよどみなく流れる川や泉があり,さらに蜜と乳と美酒の川が流れ,あらゆる種類の果物が実り,そして美しい乙女たちが住む天幕が張られているという。この理想の庭園はペルシア絨毯(じゆうたん)にも写されて,戸外・屋内を問わず随時華やかな空間を展開させることを可能にしている。イスラム文化の基盤にはササン朝ペルシア文化の伝統があるが,庭園の場合も例外ではない。整然とした木立が並び,池泉が設けられ,鳥獣を飼育する苑囿(えんゆう)をも兼ねた囲みのある古代ペルシアの宮苑パイリダエーザpairidaēza(〈塀で周囲を囲んだ〉の意。〈パラダイスparadise〉の語源)の伝統は,イスラム時代に入ってからも保持された。

 イスラムの庭園で最も重要な要素は水,植栽,パビリオンである。さまざまな水源から引かれた水は,概して直線的な水路を通って長方形ないし正方形に区画された花壇に配分される。中央で直角に交叉して全体を4分割するイランのチャハール・バーグchahār bāgh(四苑)がその典型である(アルハンブラ宮殿のライオンのパティオ(中庭)もその例である)。水景施設としては噴泉,方形の人工池(ハウドhauḍ)などが設けられる。イスラムの庭園は起伏の少ない平面的な構成をとるものが多いが,傾斜地では階段状に庭園が設けられ,落差を利用した滝が造られることもある。植栽としては伝統的に果樹園に類するものが多く,オレンジ,ザクロ,イチジクをはじめ,ピスタシオ,クルミ,アーモンドなどの堅果類も好まれた。地域によって乾燥に強いタマリスク,サンザシなどが選ばれるほか,マツ,スギ,ナツメヤシ,プラタナス,ポプラ,ヤナギ,クワ,テンニンカなどの常緑樹,落葉樹が植えられた。草花はジャスミン,バラ,ケシ,イチハツ,ラベンダーなど多種多様である。宮殿を含めたイスラム世界の住宅建築において,外界から隔離された憩いの場である中庭は伝統的に建物と不可分の関係にある。庭園のもう一つのタイプ,すなわち郊外に造られることの多い公園のような規模の大きい庭園にも必ずパビリオンが建てられている。建築的にはなんら統一的な形式もスタイルもなく,各地の伝統がそれぞれ生かされている。一般に庭園の周囲には高い塀が巡らされる。それは,吹きつける砂塵や草木を食い荒らす家畜の侵入を防ぎ,街の喧騒を遮断する機能をもっている。もちろんイスラム以前のペルシアのパイリダエーザの伝統とも無関係とはいえない。以上の一般的な庭園に加えて,アーグラのタージ・マハルに代表される,王族や聖人の墓廟を中心にした特殊な庭園がトルコやイランなどで造られた。

 イスラム世界における庭園の歴史は,各地にのこる考古学的資料や文献によって8世紀前半にまでさかのぼることができる。おもな庭園址としては,サーマッラーのカリフの宮殿・邸宅ジャウサク・アルハーカーニーの庭園址,コルドバ近郊の夏の宮殿メディーナ・アサハーラの庭園址,セビリャのアルカーサルのカスル・アルムバーラクの庭園址,グラナダのアルハンブラ宮殿のミルテのパティオ,夏の離宮ヘネラリーフェの庭園などがおもな例である。一方,アケメネス朝以来の造園芸術の伝統があるイランでは,イスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮殿の庭園,アシュラフのチェヘル・ストゥーン,テヘランのゴレスターン宮殿の庭園,シーラーズのバーグ・エ・タフト,バーグ・エ・エラーム,カーシャーンのバーグ・エ・フィンなどを挙げることができる。
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古代エジプト,西アジアの庭園のようすが詳しく知れるような遺構は残存していないが,文献,壁画などからある程度まで推察をすることは可能である。たとえば古代エジプトにおいては,前14世紀,第18王朝の上流階級の住宅のようすを描いた壁画から,整然と区画され矩形の池を配した庭の存在が知られ,園亭,パーゴラなどの施設が造られていたこともわかる。また聖域の聖性を高めるための植樹が行われたのは,西アジアにおいても同様であった。

 古代西アジアの庭園も古くからの歴史をもつが,なかでも新バビロニア時代のバビロンの空中庭園が世界の七不思議として古来喧伝されてきた。これは宮殿の屋上,あるいはそれに相当する高みに造られたテラス式の庭園と思われ,おそらくその規模と,ユーフラテス川を水源とした揚水技術が驚異の的となったのであろう。

 具体的な遺構を欠くために,推測の域を出ないものの,この地域がヨーロッパにおける庭園のイメージの源泉をかたちづくったのは,まず間違いのないところであろう。古代オリエント神話における,聖なる泉を中心とする楽園の描写は,旧約聖書の記述を通じて中世ヨーロッパの人々の庭園観に少なからぬ影響を与えたし,またルネサンス期の庭園には,それを具体的な形に移した,噴泉を中心に水路が方形の花園を四分するイスラム庭園の基本構成の投影がみられる。また古代ローマおよびイタリア・ルネサンスの庭園における揚水技術の展開も,当然,東方にその淵源をもつと考えてよいであろう。

古代ギリシアにおいても,聖域,競技場や劇場などの公共施設,個人の大邸宅に林苑や庭園が造られていたことが,当時の資料によって知られる。しかし,ルネサンス以降のヨーロッパ庭園の展開に影響を与えたという点では,古代ローマの住宅やウィラに付属した庭園が重要である。とりわけ小プリニウスがその友人に宛てた書簡のなかに記している彼の二つのウィラ(トスカナ荘とラウレンティア荘)の列柱廊や園亭に飾られた庭の描写と,ローマ近郊のティボリにあるハドリアヌス帝の広大なウィラの廃墟(2世紀)は,ルネサンスの庭園を計画した人々の重要なインスピレーションの源となった。古代ローマの住宅は,軸線上に配置されたアトリウム(前庭)とペリステュルム(列柱中庭)の二つを諸室が囲む形を基本とし,さらにその奥に蔬菜園などが配される形を基本としたが,必ずしもそれのみにとらわれぬ多様な庭が造られていたことは,ポンペイやエルコラーノ,オスティアなどの遺跡に明らかである。噴泉は好んで多用されたが,それとともに刈込み(トピアリアtopiaria)がさかんに行われ,幾何学的な構成の生垣のほかに,文字や動物をかたどったものまでが造られた。また室内に壁画として庭のすがたを描くことも行われており,ローマ国立美術館に保存されている皇妃リウィアのウィラの壁画はその好例であって,果樹が豊かに実を結び,噴泉が高く水を吹き上げる当時の庭園のようすをしのぶことのできる貴重な資料である。

中世は庭園芸術の低迷期であるとする説があるが,これは必ずしも当を得ない見方であろう。たしかにはなばなしい展開こそみられないものの,庭は中世上流階級の人々の生活にとって欠くべからざる存在だったからである。ギヨーム・ド・ロリスおよびジュリアン・ド・マレによる《薔薇(ばら)物語》の挿絵(13世紀)に見るような,垣をめぐらし装飾的な噴水を中心として構成された庭が,おそらく一般の邸館に付属する庭園のありようであったと思われ,そこには珍しい植物,鳥禽が集められたのであった。十字軍の遠征がこうした傾向にさらに拍車をかけたのはいうまでもなく,とりわけ東方の花や木が珍重された。当時の庭は,のちのルネサンス庭園のような変化に富んだ空間構成よりは,いかなる植物を集めるかに重点が置かれていたように思われる。またこうした中世の庭のようすは,〈ホルトゥス・コンクルススhortus conclusus〉(〈鎖(とざ)されし園〉の意)と呼びならわされる,楽園に座すマリアを描いた宗教画などにもうかがうことができる。回廊が方形の庭を囲い込む修道院の中庭形式も,この時代に完成したもので,これは中央に噴泉や雨水溜,井戸(あるいは宇宙軸,生命の樹の観念にもつながる象徴的な樹木)を配して,天上の楽園の観念的な表現ともなるものであった。

文化の他のジャンルと同じく,庭園においても新しい動きがいちはやく現れるのはイタリアにおいてである。しかし,15世紀ころの初期ルネサンスの庭園は,中世以来の伝統的な形式からの過渡期的な様相がつよく,まったく新しいルネサンス独自の様式が展開するのは,16世紀に入ってのことである。イタリア・ルネサンスにおいて庭園芸術がめざましい発展をとげるのは,上流階級の人々が好んで営んだビラvillaと,そこでくりひろげられる生活のゆえであった。都市の周縁部,あるいは郊外に造られたビラは,別荘というよりはひとつの知的サロンというにふさわしく,たとえばメディチ家のコジモや大ロレンツォたちがフィレンツェの郊外に建てたビラ群は,当代最高の詩や音楽,芝居などに彩られた芸文の華ひらく場であった。これらは多く丘陵地帯を選んで営まれたが,その庭園は中世の庭の求心的で閉ざされた構成を脱して,大きな展望に向かってひらいた構造をもつにいたっている。たとえばフィレンツェ北方のフィエゾレFiesoleの丘に築造されたビラでは,斜面に複数のテラスが配され,トスカナの田園の広々とした眺望が得られている。しかし,のちの16世紀の庭園のように,テラス相互間を軸線(ビスタvista)でつないで統一するといった手法はまだ行われていない。このほかやはりフィレンツェ北西方のカレッジCareggiのビラも,よく当時の庭の面影を伝えている。

 15世紀末から16世紀の初頭にかけて,すなわち盛期ルネサンスの頂点に,文化の中心がフィレンツェからローマへと移ってきたときに,以後の庭園の構成に大きな影響を与える二つの庭が造られた。一つは大建築家ブラマンテが設計したバチカン宮殿ベルベデーレの中庭で,ここでは細長い敷地に軸線を通して奥行き方向に3段のテラスが築かれ,壮大な階段が空間のアクセントになって,最奥部は巨大なニッチに終わっていた。また建築家でもあったラファエロがジュリオ・デ・メディチ(のちのクレメンス7世)のために造ったビラ・マダマVilla Madamaは,ハドリアヌス帝のウィラに範をとったものだが,ブラマンテの例と同様な造りのほかに,グロッタを主題として大々的に採用したことと水を活用したことが際だっていた。これらの特徴は,16世紀を通じてイタリアのルネサンス庭園の重要な特色となったのである。

 16世紀に完成されたこのイタリア様式の庭園として,今日残存するもっともすばらしい例は,ローマ近郊のティボリにイッポリト・デステの営んだビラ・デステエステ荘),およびローマ北方のバニャイアBagnaiaのビラ・ランテVilla Lante(ともに16世紀中葉)であろう。ともに傾斜地に営まれたものだが,前者は大がかりな水の使用に特色があり,後者は16世紀イタリア庭園に特徴的なジャルディーニjardini(幾何学的な庭園)とボスコbosco(叢林)の組合せの典型である。さらにこれらの庭園が,邸館の内部同様,ギリシア・ローマ神話の神々の像やさまざまな寓意像によって彩られていたことも忘れてはならない。すなわち庭園はメタファーとシンボルの体系として組み上げられていたのである。

イタリアの庭園はヨーロッパ各国に大きな刺激を与え,そのボキャブラリーがアルプスの北方へと輸出されたが,やがてそのなかからフランスに新しい様式への動きがあらわれ始める。まず宮廷造園家の家系に生まれたモレClaude Mollet(1563ころ-1650ころ)が,16世紀後半に刺繡(ししゆう)文様を生垣に写しとったような刺繡花壇を開発し,さらに17世紀にいたってA.ル・ノートルが,イタリアと違って主として平地に営まれた幾何学的構成をもつ庭園に強い軸線を導入して,ブルボン朝の栄華にふさわしい壮大な様式を完成させた。これが〈フランス式(整形)庭園〉と一般に呼ばれるもので,彼はボスケbosquet(叢林)で庭園の主部を限りとり,そこに刺繡花壇,大噴泉などを整然と配して無限へと延びる見通し線を造りだした。とくにこのために彼が活用したのは,カナール(水路)である。彼の出世作は,マザランのもとで大蔵卿をつとめたフーケの城館,ボー・ル・ビコントVaux-le-Vicomteの庭園で,それは南北1.2km,東西0.6kmの広さをもっていた。この庭がルイ14世の目にとまり,ル・ノートルは有名なベルサイユ宮殿の庭をデザインすることになる。ここでは宮殿中央の〈鏡の間〉前のテラスから南へと〈王の並木道〉が延び,その先がカナールになって,それがはるか天と地の境にまで延びていっているように見える。ベルサイユではボスケのなかにもさまざまな小庭園が造られ,これらを舞台に,モリエールの芝居,リュリの音楽,ラ・フォンテーヌの詩の朗読などが行われたのであった。ル・ノートルの関与した作品は,パリ周辺にたくさん残っており,前2者のほかに,シャンティイ,ソー,サン・クルーなどがおもなものである。

フランス式庭園もたちまちヨーロッパ各国の模倣するところとなったが,18世紀に入ると,イギリスにこれとまったく対照的な新しい庭園思潮があらわれてヨーロッパ全土に流行し,既存の名園までもがこれに造りかえるにいたっている。この新しい庭はふつう〈風景式庭園〉と総称されるが,イタリアとフランスの庭がそれぞれの地形的特性をよく生かしたものであったように,それはイギリスのゆるやかな起伏をもつ丘陵の牧歌的な風景をその基盤においたものであった。

 フランス風の整形庭園を攻撃する文章によってこの風景式庭園誕生の先鋒となった人としては,シャフツベリー伯,アディソン,ポープらがいるが,現実の庭園としてはストーStowe(バッキンガムシャー)のテンプル家の館が最初期に属する。この設計は最初ブリッジマンCharles Bridgeman(?-1738)によって行われ,彼は庭と外界の境に一種の堀割であるハハーHahahを導入して,何さえぎるものなく眺望が周囲の自然にとけ込んでいくように工夫した。ストーは以後,ブリッジマンと協同したバンブラー,ケント,ギブズ,ブラウンといった名手たちがつぎつぎに手を加えた記念碑的な庭園となる。風景式庭園のさまざまな相を一つに集めた庭として,いまに伝えられている。しかしブリッジマンのあと,風景式庭園における眺望を一幅の絵としてとらえる新しい傾向があらわれてくる。その手本は,たとえば17世紀フランスの画家ロランやプッサンの描いたような古典的な神殿や廃墟の見えるローマ郊外の風景であって,ケントがその代表的な作家であった。彼の仕事としては1730年代に造ったラウシャム・ハウスの庭園が残っている。またこうした古典的な題材だけでなく,ゴシック,あるいは中国風のものを題材に選ぶものもあらわれており,ロンドンのキュー植物園にパゴダを造ったチェンバーズWilliam Chambers(1723-96)は,そうした東洋風の構成に魅かれた人物の一人である。この絵画的な構成を重んじる派に属するものとしては,ホーアHoare家代々,ことにヘンリー2世がアマチュア造園家として造ったスタウアヘッドStourheadの庭が,完成された美しさを示している。このような傾向に対して,ただ水と芝,樹木と起伏のみによる構成を主張したのが〈ケーパビリティ〉の渾名をもつブラウンであった。レプトンHumphry Repton(1752-1818)はこのブラウンの考えを受け継いで風景式庭園最後の巨匠となった人で,〈Landscape Gardening〉という概念を提唱し,イギリスにおける,庭園の枠を超えるランドスケープ・デザインの伝統の礎を固めている。この風景式庭園の思想の影響をもっとも強くこうむったのはフランスであり,J.J.ルソーが晩年に隠棲したジラルダン卿のエルムノンビルの館の庭や,マリー・アントアネットがベルサイユに営んだプティ・トリアノンのアモーなど,さまざまな例が残されている。

ドイツ文化圏は庭園の歴史においてはとくに独自の様式をつくりあげることなく,つねに各国の様式を採り入れて発展させてきた。イタリア式を採り入れたものとしては巨大なカスケードを配したカッセルのウィルヘルムスヘーエの庭園,フランス式を採用したものとしてはウィーンのシェーンブルン宮殿,風景式庭園の例としてはミュンヘン近郊のニュンフェンブルク宮殿の改造部分などが挙げられよう。ただドイツ文化圏の特色として,単に時々に流行の形式を追うというよりは,さまざまなタイプを等距離において,形式を自由に選び取っている面もなくはない。また北方のロマンティシズムの色づけが,ドイツ文化圏の庭園に独特の幻想的な世界を築きあげていることも注意してよいであろう。

イタリアのルネサンス期には上流階級の庭園は公開が原則となっていたが,アルプスの北方ではこの習慣はなかなか広まらなかった。しかし18世紀になると,大都市においては上流階級のパークpark(狩猟園)の公開がしだいに行われ,19世紀の後半になると,公共の公園が庭園の新しいテーマとして登場する。各都市は競って公園を造り緑地を確保したが,そのデザインの基調となったのは,イギリスで発達した風景式庭園の思想であった。この種の公園として最大のものは,人口が増加しつづけるニューヨーク市が創設した面積850エーカーに及ぶセントラル・パークの計画(1854)であり,その設計にはオルムステッドがあたった。これは人口の密集するニューヨークにあって,今日もなお貴重な財産となっている。

 しかし近代建築運動の登場にともなって,こうした風景式庭園を基調とする公園の造り方に異議が唱えられ,主として建築家を中心として改革運動が起こった。彼らは建築の有する秩序体系に合致する庭園デザインを求めたのである。ここに〈戸外の室〉としての庭のデザインが成立した。今日では現代の広汎な要求に応えて,庭園の枠を超えて環境全体のデザインを手がける専門家の誕生をみており,都市内に建築と一体となって造られる公園や大規模な住宅地計画などに活躍している。
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今日われわれが〈庭園〉なる語で理解する造形空間は,伝統的には,特権的富裕階級によって,個人の審美的欲求のために造営されたものであった。自然がそのままであれば,外敵や害獣が跳梁(ちようりよう)するから,それは囲い込まれねばならない。また木や草や花は,夏には茂りすぎるし,冬には枯れてしまうから,適度な刈込みや,植えかえや,灌水・施肥等によって,できるだけまんべんなく美しさを保つ必要がある。植生の配置も,雑然たる自然のままの混乱状態ではなく,人間の秩序願望を反映した植え分けが好まれ,花壇や植込みの姿をとった。

 この種の〈庭園〉は,すでに古代エジプトの支配階級によって造営されている。これに比べ,古代ギリシアに個人の庭園が発達しなかったのは,それが民主主義社会であったからだろう。ローマ時代に入ると,支配階級による造園が盛んになった。これに比べ,中世の城館や修道院の庭は比較的小規模であり,むしろ宗教的象徴性を優先させる傾向が目立った。ルネサンス期のイタリアから,近代ヨーロッパの造園史は始まる。メディチ家をはじめとする新しい特権階級は,競ってそのビラに庭園を作った。イタリアの地形からして,それはテラス(露壇)式であったが,中央に軸線(ビスタ)を貫通させ,その左右に幾何学的図形の花壇や植込みを配置する基本構図は,新しい支配階級の秩序への意志を反映すると同時に,新しい時代の理性への確信を表現していたというべきであろう。この種の庭園は約1世紀後のフランスで,ブルボン朝の絶対主義によって,いっそう徹底した完成に達する。地形的にはテラス式でなく平面式に変わるが,ベルサイユの大庭園に見るように,広大な地面を囲い込み,中央を貫通する長大な軸線を中心に,厳密な左右対称図形を展開させるその造形は,絶対王政の強い秩序意志を表現していた。宮殿のバルコニーからこの大庭園を見下ろせば,あたかも完全なる忠誠を誓う大軍隊を閲兵するごとくであったろう。同じ支配者たちによって,都市も整然たる区画に整理されていく。自然の中の森や荒野,都市の中の迷路やスラムは,野獣や暴徒,情念や非合理を隠すから,新しく整然たる理性の秩序に置きかえられなければならなかったのである。

 その同じころ,海峡をへだてたイギリスでは,早くもピューリタン戦争という名の市民革命の洗礼を受け,議会制民主主義が急速に育ちつつあった。18世紀に入ると,イギリスはいよいよ市民階級の時代である。このイギリスでフランス式整形庭園(フォーマル・ガーデンズ)が,圧政者の精神の象徴と目され,目の敵(かたき)とされ始めたのは当然であったろう。この意識は,新しく〈イギリス式〉と呼ばれる〈非整形式庭園(インフォーマル・ガーデンズ)〉の誕生をうながした。〈風景式庭園〉とも称されるこの形式は,自然をなるべく自然のままで愛(め)でるという精神に根ざしていたから〈自然風庭園(ナチュラル・ガーデンズ)〉とも呼ばれる。絶対主義的支配者の単一的視点から構築される人工的秩序ではなく,むしろ三三五五そぞろ歩く自由な個人の,多様なる視点の前にひらける,多様なる風景であった。しかしこの種の庭園は,イギリスの自然そのものとだんだん区別がつかなくなっていく。ついには庭園の周囲の塀や垣まで取り払われてしまう。囲われていない庭の出現は,ヨーロッパ文化史上,画期的な事件だったというべきだろう。

 〈イギリス式庭園〉は,ヨーロッパ各国に輸出され,強烈な影響を与えた。時あたかもヨーロッパ全体が,政治史的には市民社会の方向へ,文芸思潮としてはロマン主義の方向へ,大きな歩みを始めた時代であった。新しい庭園の誕生は,新しい時代精神の誕生と揆を一にしていた。とはいうものの,まったく自然に回帰してしまった庭園とは一種の名辞矛盾であって,やはり強い不満を残す。そのせいもあり,そこに古代風または異国風の神殿などを混在させるといった手段によって,当時〈絵画風(ピクチュアレスク)〉と呼ばれた要素を導入しようとする試みもあった。また〈自然風庭園〉とは,じつは広大な地所を所有する階級にのみ可能であったはずで,だからさらに新興の市民階級,小市民階級には,限られた土地を利用して,芝生や花壇などで庭を構成する必要もあった。19世紀以降のヨーロッパの個人庭園が,極端な整形式ではないにしても,極端な非整形式でもなく,比較的小規模な常識的庭園に落ち着いているのは,当然のことである。かたわら,都市住民のために公共の大庭園,すなわち公園の必要が認識され始めたのは,古代ギリシアの民主主義社会と通じあう事情のためであろう。その一方,小市民階級の居間の片隅でテラリウムterrariumと呼ばれるガラス鉢園芸が行われたりするのは,日本の盆栽と同じく,もっとも縮小した形においてすら庭園を所有したいという,共通の衝動なのであろう。
公園 →造園 →楽園
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「庭園」の意味・わかりやすい解説

庭園
ていえん

大自然に擬して人間がつくった小自然の景観。原初は神を祀(まつ)る儀式の場であったり、農作業などの実用の場であったりしたが、文化が進むにつれて、人間と自然とのかかわりを求めて、住居を取り巻く環境として発達した。

 庭園にあたることばは、ヨーロッパではゲルマン語系で表現される。すなわちgarden(英語)、jardin(フランス語)、jardín(スペイン語)、giardino(イタリア語)、Garten(ドイツ語)などで、これらの語の基礎となる共通の語根はgher-で、土地に関する支配ないし囲い込みを意味している。これは村落や部族の共同体の生活のなかで家畜を飼育する場所であったが、のちに王や貴族のための蔬菜(そさい)、果樹、森林園をさすようになったことを示している。それが文化の発達に伴って、実用目的から離れて花や緑樹を植え、憩いの場として装飾的な地割や植栽を施して、観賞を目的とした庭園へと発達していった。

 日本で「庭園」ということばが使われるようになるのは、西洋文明が入ってきた明治40年(1907)ごろからで、gardenの訳語としてであり、その歴史は浅い。庭園の「庭」という字は、元来中国においては堂前の場所、つまり屋前の平坦(へいたん)な場所をさしたから、日本に伝わったとき、一木一草一石もない広場(祭政を行う場所)を『日本書紀』では「庭(てい)」、『古事記』では「邇波(には)」「二八(には)」といったが、これは後世のいわゆる庭園ではなかった。

[重森完途]

日本の庭園

 自然と深いかかわりをもつ日本の庭園は、その自然や四季の移ろいとともにつくられ、生き続けてきた。国土の周囲を海洋で取り囲まれている日本の庭園は、その広大な海や湖沼を表現するために池泉を多く設け、中世のころには庭園のことを「園池(えんち)」というようになった。『日本書紀』では「園」「苑(えん)」「囿(ゆう)」などが用いられている。同時代、庭園にあたることばに「前栽(せんざい/せんさい)」があり、また奈良期から鎌倉期ころまで用いられていったんとだえ、江戸期に復活されたことばに「林泉」がある。このほか庭園を意味することばとしてわが国で用いられてきたものには、「坪」「池庭(ちてい)」「泉石(せんせき)」「山水(さんすい)」「仮山(かざん)」「枯山水(かれさんすい)」「石壺(いしつぼ)」「蓬壺(よもぎがつぼ)」「泉水(せんすい)」「水閣(すいかく)」「水石(すいせき)」「御庭(おにわ)」「御園(おその)」などがある。

 日本の庭園は大きく類別すると、次の三つに分けられる。

〔1〕池庭(池泉) 舟遊式、回遊式、借景式
〔2〕枯山水 禅院式、池庭式
〔3〕露地(ろじ) 草庵(そうあん)式、書院式
 また、庭の構成要素としては、(1)池と水、(2)石組(いわぐみ)、(3)自然の風景を再現するための築山(つきやま)、野筋(のすじ)、植栽、(4)付属物としての飛石、敷石、石灯籠(いしどうろう)、垣根などの類がある。以下、日本の庭園の変遷を時代を追ってみることにしよう。

[重森完途]

古代

古代の人々は、大自然が神仏のつくったものとすれば、庭は神仏に捧(ささ)げるものと考えた。『万葉集』に、「庭なかの阿須波(あすは)の神に小柴(こしば)さし吾(あれ)はいははむかへりくまでに」(第4350歌)などしばしば出てくる「庭」は、家の前の開けた所で、神を祀(まつ)る場所、斎庭(ゆにわ)(忌庭)とよばれ、隅に梅や橘(たちばな)が植えられていた。現在のような意味での庭はシマとよばれ、この島は離れた地であり別世界を意味した。この場合、島を取り巻く池は海の象徴で、池と島が日本の庭の原型である。また古代、神々は天空から地上の高い所に降臨すると信じられ、その際に大きな枝ぶりのよい木とか大きな石に神が来臨すると考えた。日本の庭園が、外国のそれと比べて、みごとな石組を特色とするのはこれに由来する。

 石組の原初の形とみられるものに「環状列石」や、石を神格化した「磐座(いわくら)」「磐境(いわさか)」がある。環状列石は有史以前の先住民族のつくったものであるが、その規模は直径2~50メートルくらいで、直立した石が円形あるいは楕円(だえん)形に並んでいる。個々の石の高さは1ないし2メートルのものが多く、環状の石の一つはかならず子午線の方向をさしている。このことから環状列石は漁に関係あるとか祭祀(さいし)に関係あるともいわれ、また、北海道積丹(しゃこたん)半島の直径2メートルの環状列石から人骨を葬ったとみられる燐(りん)が採取されたところから墳墓説も行われたが、まだ定説となってはいない。

 磐座は祖霊祭祀やその地の守護神が宿る場所として、山上や山腹にある巨石を崇拝したことから始まる。やがて祖霊の降臨する場所あるいは聖地に巨石をいくつも据えて崇拝するようになった。これが磐境である。すなわち、磐座は自然の巨石崇拝、磐境は人間の手によって設けられた巨石崇拝で、縄文末期から弥生(やよい)初期にかけて多くつくられた。

 ついで弥生後期から飛鳥(あすか)時代にかけて現れるのが神池(しんち)・神島(しんとう)である。これも祖霊崇拝や土地の守護神の祭祀と深いかかわりがあり、広い池に島々が点在する形態は庭園のようにみえるが、実は庭園ではない。古代、異民族や異なった文化は、海を渡り島伝いに伝来した。ために海と島は神として崇(あが)められ、海や島を再現して神を祀ったのである。これが神池・神島である。当初は庭園として構築したものではないにせよ、飛鳥期以降、神池・神島を基盤として庭園意匠が構成されていったことは間違いない。神池・神島が磐境と異なるのは、土木技術を必要とした点で、これは大陸からの渡来人によってもたらされた造園技術によって各地でつくられたと考えられる。

 現存する神池・神島は、後世の庭園・池泉の中島(なかじま)に相当する神島の数、配置、形態などにより次の四系統に分類することができる。これらは祭祀の形式や祭神によって決まる。

(1)宇佐(うさ)系あるいは宗像(むなかた)系 三島直線あるいは直線多島形式
(2)秋津島(あきつしま)系 丁字形二島
(3)出雲(いずも)系あるいは吉備津(きびつ)系 三島による三角形、または四島以上の多島形式
(4)阿自岐(あじき)系 複雑多島形式
 神池・神島よりやや時代が下って、古代の宮居における池と島のあり方を示したものに、池心(いけごころ)と瑞籬(みずがき)がある。『日本書紀』巻四の孝昭(こうしょう)天皇元年秋7月の条に池心宮の記述があり、同書巻五の崇神(すじん)天皇3年の条には瑞籬宮の記がある。池心宮とは池泉の中央に中島を置いた形態で、池の中心点の島にある宮居の意である。瑞籬は中島の周辺の水の垣根、つまり池泉を意味する。いうなれば、池心とは池泉の外に立って宮殿を見たもので、瑞籬(=水垣)は池泉の中心にある中島から外部を見た考え方である。中島に宮殿を建てるということは、中国の蓬莱(ほうらい)神仙の思想に基づくもので、『漢書(かんじょ)』によれば、都の長安に太液(たいえき)池が掘られ、池の中に瀛州(えいしゅう)、蓬莱、方丈の三山をかたどったと記されている。またそうした神仙思想とは別に、池心や瑞籬は一種の城郭的な構えをなしていたであろうとも思われる。

 現存する出雲系の神池・神島は、いずれも池心や瑞籬のような構えをみせており、出雲系の神島に祀られている神々は磐座や磐境である事実も注目すべきである。こうした神池や神島の形態は庭園ではなくとも、庭園としての萌芽(ほうが)をみせ始めたものと考えてよい。そして奈良朝ごろから平安中期にかけて本格的な庭園が出現してくるのである。

[重森完途]

奈良時代

『日本書紀』によれば、推古(すいこ)天皇(在位593~628)のとき蘇我馬子(そがのうまこ)が飛鳥川のほとりに臣下として初めて池泉をつくり島をつくった。このことは当時話題となり、人々は彼を嶋大臣(しまのおとど)とよんだと記されている。同じ「推古紀」に、庭造りの路子工(みちこのたくみ)が渡来し須弥山(しゅみせん)をつくったとある。法隆寺五重塔の内部に須弥山をかたどったものがあるが、仏説によれば須弥山は世界の中心にある山で、周囲は海であった。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)3月の記に、宮殿の南西に新しく池亭をつくり曲水の宴を催したとあり、奈良時代になると多くの園池がつくられた。園城寺(おんじょうじ)園池、薬師寺竜宮池庭、橘島宮(たちばなのしまのみや)苑池、浄御原(きよみはら)苑池、藤原宮御苑池、藤原不比等(ふひと)山荘園池、長屋王(ながやのおおきみ)園池、藤原宇合(うまかい)園池、葛井広成(かつらいのひろなり)園池など多くつくられたが、現存するものは一つもない。『万葉集』にも当時の数々の池庭が歌われているが、これとても完全な形で残っているものはない。これらの園池は神池・神島から発展して、庭園としての形をみせ始めたと推察されるが、反面、広大なわりには粗放なものではなかったかと思われる。庭園としての景観を重視して設計整備された、優美で本格的な庭園が出現してくるのは平安時代に入ってからである。

[重森完途]

平安時代

景観を主体に庭をつくり、舟遊びの面を強調し、さらに滝を落とし、流れとしての遣水(やりみず)を整備して、優美な眺めをみせた庭園ができあがるのは平安期に入ってからである。この時代の庭園の主体をなすものは池で、洲浜(すはま)形という海岸線を模した曲線で構成され、中島や岩島を配して海洋的風景を演出した。また東に桜、西に紅葉というように四季を表す樹木を植えた。池は竜頭鷁首(りゅうとうげきす)の船を浮かべ詩歌管絃(かんげん)を楽しむ舟遊びを目的としたもので、池の中央に一島大きな島を据えて蓬莱島とし、島の間を巡って時々刻々に変わりゆく風景を眺められるようにした。池泉の底部は水が漏らないように粘土を約30センチメートルほど厚く張り、さらに水が清らかに澄むように砂利30センチメートルほど敷くという念の入った技術で、東西約650メートル、南北約860メートル(鳥羽(とば)離宮)のような大きな池泉もあり、池水は海のようだと記録されている。

 石組意匠は、護岸の場合は三重五重と重ね、滝の三尊(さんぞん)石組は上から見た形を正三角形とし、横石風な石を立て、豪健で優美な手法を示している。

 こうした庭園の展開の背景には、奈良時代のころからの庭造りに関するさまざまな言い伝えや、禁忌・方法論などの集大成『作庭記』の成立がある。「前栽秘抄」ともよばれる本書はもともと題名のあった巻子本(かんすぼん)でなく、伏見修理大夫(ふしみしゅりのだいぶ)であった橘俊綱(たちばなのとしつな)の著作といわれ、成立は康平(こうへい)年間(1058~1065)とされる。こうした書物の生まれた平安期の庭園は、作庭家が各地の名所や風情ある場所を参考にしながら、作家独自の心象風景をわかりやすく、具象的に表現したものであった。『作庭記』に「国々の名所をおもひめぐらして。おもろしろき所々をわがものになして。おほすがたをそのところところになずらへて。やはらげたつべき也(なり)」と記されているのをみても、当時の作庭の事情がよくわかる。すなわち寝殿造庭園では、全体の意匠、つまり地割は同じようにみえても、洲浜や洲崎の形、築山や野筋の規模・形、あるいは滝の規模、水の落とし方、池泉護岸の石組の形、三尊石組の規模、植栽の配置、島の大きさと数、干潟線(汀(みぎわ))の意匠など、さまざまに変化させて作庭したのである。しかし、作庭家がいかに多くの名所を見ようとしても、当時の交通手段を考えると、そこにおのずから限界がある。そこで作庭家が参考にしたのは絵画であった。

 日本の庭園は、平安以降江戸末期に至るまでさまざまな芸術の影響を受けて発展してきたが、とりわけ深く影響を受けたのは絵画であって、平安のころはいうまでもなく大和(やまと)絵であった。これは日本的な絵画を中国的な絵画の唐(から)絵と区別するために、倭(やまと)絵と称し、様式や技法よりも題材内容が日本特有の事物であるかどうかを重視したものである。これら大和絵に描かれた日本の四季絵、名所絵、あるいは月々の行事を描いた月次(つきなみ)絵が作庭の参考にされ、新しい庭園の意匠として採用された。

 平安期にできた池泉の多くは荒廃してしまったが、現存するものに、京都の大沢池庭、渉成(しょうせい)園、平等院鳳凰(ほうおう)堂池庭、勧修寺(かじゅうじ)池庭、積翠園(しゃくすいえん)池庭、岩手県の毛越寺(もうつうじ)池庭、静岡県の摩訶耶寺(まかやじ)池庭などがあり、いずれも舟遊式の池庭である。

[重森完途]

鎌倉時代

初期には舟遊式のものが作庭されていたが、やがて舟遊びと回遊を兼ねた形式(西芳(さいほう)寺、鹿苑(ろくおん)寺)から回遊のみの庭園(南禅院)へと移行する。池泉の形にも、二つの池を結んだ一種の瓢(ふくべ)形の池泉(西芳寺、知恩院)が現れた。平安期から鎌倉期の庭園は平面の地割をとくに重視し、幾何学的・有機的に整然とした地割をしているが、これを高所から俯瞰(ふかん)することによって、さらに平面的美観に加えるに立体構成による美観を考えた。そのために鹿苑寺の金閣のように、楼閣を設け、2階・3階からの俯瞰的観賞にあてた。

 池泉の底部は、平安時代より粘土の厚みや砂利の厚みが約半分と薄くなっている。洲浜形の池泉が多く、洲崎の先端に大石を1個据えているのもこの時代の特色である。中島には立石による石組が用いられ、上から見た三尊石組は平安期の正三角形に比べ、二等辺三角形となっている。石橋もこの時代になって架けられるようになった。

 建築では書院造が現れ、それに対応して回遊式庭園が多くつくられるようになった。石組も平安期の優美さが消え、時代相を反映して豪健さが好まれるようになる。『作庭記』にかわるこの時代の代表的な造園書『山水並野形図(さんすいならびにやぎょうず)』には新しい庭園に対する意欲がみられ、作庭家阿波阿闍梨静空(あわあじゃりせいくう)の弟子静玄は、鎌倉の二階堂に高さ3メートル余もある石組を立て、建久(けんきゅう)3年(1192)8月24日、源頼朝(よりとも)も見物に出かけたことが『吾妻鏡(あづまかがみ)』に記されている。

 平安期に造園の参考とされた大和絵の影響に加えて、中国から来朝した禅僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)らの意匠が加わり、竜門の滝の様式が生まれた。京都・天竜寺や信州・光前寺(長野県駒ヶ根(こまがね)市)の滝石組がその例である。

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室町時代

この時代に入ると、庭園の形態に大きな変化が現れる。初期のころはまだ池泉回遊式が多くつくられたが、それと並行して、屋内から座視して観賞する観賞式池泉が現れる。当時の将軍足利義教(あしかがよしのり)が庭園を好んだこともあって、1430年(永享2)室町殿に池庭がつくられた。細川右京大夫(うきょうのだいぶ)もこの年京都の自邸に作庭し、大内氏も京都の邸(やしき)に飛泉亭をつくった。しかし、室町時代は政治的にも経済的にも不安定で疲弊していたから、莫大(ばくだい)な工事費を要する広大な池泉はつくられなかった。

 池底部の粘土は鎌倉期よりもさらに薄くなり、砂利は岩島を意匠する部分にしか敷いていない。これは舟遊びの習慣がなくなって、それほど清冽(せいれつ)な水を必要としなくなったからでもあるし、経済的理由も大きい。現存するこの時期の池泉庭園は、島根県の小川邸・万福寺・医光寺、山口県の常栄寺・香山園、愛媛県の保国寺、福岡県の亀石坊・横岳崇福寺などかなり多い。こうした足利氏を中心とした各地の作庭には河原者(かわらもの)が多く従事し、善阿弥(ぜんあみ)、文阿弥、左近四郎など著名な作庭家が活躍した。

 池泉庭園にかわって出現したのが枯山水(かれさんすい)である。『作庭記』にも、「池もなくやり水もなき所に石をたつること、これを枯山水と名づく」とある。枯山水は水を一滴も使用しないで水の表現をするという一種の抽象表現であり、平安末期にはすでに庭園の一部に使われ始めており、これを前期式枯山水とよんでいる。室町期になると、庭園となるべき敷地は非常に狭く、たとえば京都・大仙院庭園などは約31坪(約100平方メートル)しかないが、この狭い敷地に広大な池泉を巡らして具象的な内容を盛り込むのはとうてい困難で、いきおい省略的・抽象的表現の庭にならざるをえなかった。すなわち、庭園の本来の姿は山と水が基本であるが、それを、白砂を敷いて海洋の姿とし、岩を配して山あるいは島に見立てるという表現方法である。

 庭園の構成の参考となるべき絵画も、大和絵はすでに衰退期に差しかかり、かわって北宗(ほくしゅう)山水画のような水墨画が盛んになってきた。とくに「破墨山水」といわれる抽象表現の高いものが作庭に与えた影響は大きい。さらに河原者以外にも、雪舟のような画僧が作庭に参加したため、水墨の世界が庭園に生かされ、工事費が安くつくこともあって、禅的な抽象性の高い枯山水が流行した。

 また応仁(おうにん)の乱(1467~1477)以前は、書院や寺院方丈の南庭は儀式や法会(ほうえ)を営むための広場であったが、応仁の乱以後は儀式や法会が屋内で行われるようになり、これらの広場はいわば無用の長物となった。そこで、その場所につくられたのが龍安寺(りょうあんじ)や大仙院などの方丈前の庭園であり、この時期のものを後期式枯山水とよぶ。以上のような理由から、室町時代の庭は一般に小庭園が多い。

 こうした枯山水庭園は、応仁の乱後の1478年(文明10)以降、京都を中心に流行したが、地方にはあまり伝播(でんぱ)しなかった。地方のほうが保守的傾向が強かったからでもあるし、水墨画はまだ京都を中心にもてはやされていたからでもある。室町末期になると、枯山水も室町初期の省略的・抽象的表現が薄れ、具象的・説明的になってくる。京都・退蔵院庭園はその好例である。庭園の石組の素材としての石は、平安・鎌倉期に比べて際だって小ぶりになっている。これは庭園が狭くなったためとも考えられるが、雪舟作庭の山口県常栄寺のように広大な庭園でも、枯山水部分の石は比較的小さいのである。

 植栽に関しては、山口の大内盛見(もりはる)が京都の邸に庭をつくり、わが国で初めて蘇鉄(そてつ)を植えたことが『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』にあるが、これは注目すべきことで、蘇鉄は江戸時代になって大いに珍重された。

 室町時代は政治的にも経済的にも暗い時代ではあったが、代々の足利将軍は芸術を愛し、庭園愛好家が多く、仏教では禅宗のもっとも盛んな時代であったから、禅宗寺院に作庭された例が多い。

 この時代を代表する池庭としては、慈照寺(京都)、旧大寺(きゅうだいじ)(兵庫)、旧秀隣寺(滋賀)、北畠(きたばたけ)氏館跡(やかたあと)(三重)、常栄寺(山口)、旧亀石坊(福岡)、志度寺(香川)、保国寺(愛媛)などがある。枯山水で有名なのは、前述のほかに、真珠庵(あん)、竜源(りょうげん)院(京都)、安国寺(広島)などである。

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安土桃山時代

この時代は政治上の時代区分としては徳川家康が江戸幕府を開いた1603年(慶長8)までということになるが、絵画や工芸、建築、庭園などの芸術の作風は江戸初期の寛永(かんえい)(1624~1644)ごろまで続いたと考えてよい。つまり、桃山芸術の特色である豪華絢爛(けんらん)な風潮は、慶長(けいちょう)・元和(げんな)(1596~1624)のころよりむしろ寛永期のほうが顕著であった。この時代、大和絵がまた復興の兆しをみせているが、それよりも長谷川等伯(とうはく)や俵屋宗達(たわらやそうたつ)、狩野山楽(かのうさんらく)・山雪(さんせつ)らの雄大で鮮やかな障壁画の発達が目覚ましい。等伯は大画面の障壁画に古典的な水墨画を復興し、宗達や山楽・山雪は金碧(きんぺき)の障壁画で装飾性の強い華麗な作品を残した。

 桃山期は戦国の様相がようやく鎮静して、平和な社会を迎えた時代で、公武僧俗いずれも明日を思い煩うことなく、豊かな生活を楽しんだ。武家は自己の勢力を相手に誇示するために金碧の屏風(びょうぶ)や金の瓦(かわら)を建築に飾り付けたが、こうした時代風潮は庭園の分野にも浸透して、ふたたび池泉庭園がつくられるようになった。枯山水もなくはないが、豪壮華麗な石組を展開させるためには、池泉庭園が適していたからである。織田信長が足利義昭(よしあき)のためにつくった二条旧庭園(現存せず)や、朝倉義景(よしかげ)の越前一乗谷館址(えちぜんいちじょうだにやかたあと)の諸庭、粉河(こかわ)寺(和歌山)、名古屋城二の丸・三の丸、松尾(まつお)神社(滋賀)、徳島の阿波(あわ)国分寺、千秋閣(せんしゅうかく)などがある。そして、桃山的な華麗な意匠を示した池庭としては、醍醐(だいご)三宝院、二条城二の丸、光浄院など数多く作庭され、枯山水では京都の本法寺、玉鳳(ぎょくほう)院庭園などがある。

 この時代の池泉の底部の構造は室町期と大差ないが、大きく変化したのは石組の素材である。室町期の小ぶりな石とは対照的に、高さ2、3メートル、重さが2、3トン以上もある大きく豪快なものを数多く用い、それも集団的に用いている。

 池泉では島を多くつくり、中央の大きい島を蓬莱島とし、ときには鶴(つる)島、亀(かめ)島で表現した。新しい手法としては、蓬莱島に石橋などの橋が架けられる。本来、蓬莱島は海上はるかな理想郷とされていたから、それまでの池泉庭園では、島を往来する船が港に停泊しているさまに見立てて石組にした夜泊(よどまり)石組が行われていたのであるが、その蓬莱島へ歩いて渡れるように橋を架けたのは画期的なことであった。

 三尊石組は、平安期の正三角形、鎌倉期の二等辺三角形、室町期の前期よりさらに開いた二等辺三角形があったが、桃山期には不等辺三角形という変則的で動きの激しいものとなり、この時代にふさわしい表現となった。

 この時代のもう一つの大きな特色は、茶の湯のための露地が創案されたことである。それまでの庭園はすべて観賞するためか、あるいは舟遊びや遣水にみられるような文学的遊びの庭であったが、露地はそれまでの庭の性格とはまったく異なる、茶室に入るための実用の庭であった。それも最初は「面(おもて)ノ坪ノ内」とか「脇(わき)ノ坪ノ内」とかよばれて、せいぜい1~4坪くらいの狭い庭空間で、植栽はなく、坪の外は松林とか大きい松が1本あるのみの簡素なものであった。それがしだいに意匠を整え、雨の日のために敷石や飛石が考案され、手水(ちょうず)鉢や石灯籠、垣根などが取り入れられ、茶室に至る通路としての佗(わ)びた庭の体裁を完成させたのである。この露地の意匠は一般の庭園にも応用され、現在にまで及んでいる。豊臣(とよとみ)秀吉は蘇鉄だけの露地をつくり、千利休(せんのりきゅう)在世のころまでに二重露地が完成していた。なお、寛永期の特徴として、築山には植栽や石組を施さないで山容の美しい姿を強調したことがあげられる。築山に植栽、石組を行うようになるのは寛永末年ごろからである。

[重森完途]

江戸時代

寛永以後、江戸時代全般を通じて、大きな変革はみられず、舟遊びや回遊を兼ねた池泉に茶亭や露地も付設され、これまでの作庭の集大成的表現に終始した。

 正保(しょうほう)から万治(まんじ)年間(1644~1661)はまだ寛永期の影響がみられるが、それ以後はしだいに力強さを失って、寛文(かんぶん)から延宝(えんぽう)(1661~1681)ごろにかけて、それまでの広く大きく丸い池泉は細長くなり、この傾向は貞享(じょうきょう)(1684~1688)ごろまで続く。そして元禄(げんろく)(1688~1704)のころ池はふたたび円となり、中央に鶴島か亀島、あるいは蓬莱島のみを置き、その中島と対面して滝石組を設けるようになった。この意匠は正徳(しょうとく)(1711~1716)ごろまで用いられた。

 享保(きょうほう)年間(1716~1736)には江戸中期の意匠がかなり判然としてきて、池泉は小さく、滝の三尊石組も横に並んだ形となり、上から見ると三角形の両辺が広がった姿で、素材の石そのものも小ぶりのものとなった。

 家屋から見た池泉の対岸の中央部を突出させ、出島を大きく見せるという新しい風潮もこのころ生まれた。また、山裾(やますそ)の下部を利用して池泉をつくることも行われた。植栽は正真木(しょうしんぼく)と称して、築山の上か中島など庭園の中心となるべき位置に、松柏(しょうはく)いずれかの樹木を植えたが、この場合、松は一庭の草木の司(つかさ)としての役目を与えられていた。1本の樹木を丸、四角、菱(ひし)、長方形などに整形する小刈込みが行われ、これを粋(すい)とかいきといって喜んだ。このように末梢(まっしょう)的な技巧に走って、意欲的な作品は少なかった。江戸中期から末期にかけて、草花の園芸書や『築山庭造伝前篇(ぜんぺん)』『同後篇』『都林泉名勝図会(みやこりんせんめいしょうずえ)』などの作庭の手引書や案内書が数多く出版された。これは江戸末期、一般人も庭をつくることが許され、豪農豪商が競って庭をつくったことにも原因があるが、その一方、こうした手引書によって作庭意匠が定型化し、創作的な庭が出にくくなったことを物語っている。江戸で作庭を手がけた庭師たちは諸大名に従って各国に散り、そこでやはり定型化した庭園をつくった。そのため、地方においては江戸中期以降、傑出した庭園は少ない。

 しかし、これほど数多くの庭園がつくられた時代は、ほかに例がない。天下泰平の時代であったから、全国に分布した諸大名によって広大な大名庭園がつくられ、またそれら大名の庇護(ひご)のもとで寺院庭園もつくられた。有名なものに、東京の小石川後楽園・旧芝離宮・伝法院・六義(りくぎ)園・旧浜離宮、香川の栗林(りつりん)園、岡山の後楽園と衆楽(しゅうらく)園、熊本の水前寺成趣(じょうじゅ)園、その他がある。枯山水では京都の大徳寺方丈・酬恩庵方丈・金地院(こんちいん)、その他があり、池庭では京都の智積(ちしゃく)院・清水成就院(きよみずじょうじゅいん)その他がある。

 江戸時代に活躍した作庭家には、小堀遠州(えんしゅう)、片桐石州(かたぎりせきしゅう)、正阿弥、玄丹、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)らがおり、また青森を中心として大石武学(ぶがく)が武学流を広め、九州地方では石龍が夢想流を、出雲地方では沢玄丹が玄丹流を、伊予地方では吉良桜きょうが桑原流を流行させた。この何々流という形で、定型化にさらにいっそうの拍車がかかった。

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明治以降

明治初年に洋風庭園が入ってきて日本の庭園に影響を与えたが、当初は日本庭園とあまり調和したとはいえない。やがて各地に公園もでき、日清(にっしん)・日露戦争以後はいわゆる戦争成金が金に飽かせて作庭する風潮を生じた。それらの池泉は広大で、庭園の中に枯山水風の配石をし、二重露地、園遊会のできる芝生の広場、さては田園の風趣を楽しむための田んぼや畑、水車を設けた。いわば一種の総合園のような形態の庭園であったが、石組は自然の山野の姿を模したにとどまり、庭師も石組の技術を持ち合わせていなかった。ほとんどが借景式庭園で、依頼主がいわゆる旦那(だんな)芸で作庭の施工者を指図し、庭師もその命令に唯々諾々と従い、傑出した庭園など望むべくもなかった。

 大正末年ごろから時代の新しい要請にこたえて、いくつかの大学に造園科が設置されたり、造園の専門学校や研究団体も生まれた。

 第二次世界大戦後は建築の多様化によって数多くの庭園がつくられ、組織的・体系的な研究も盛んになってきており、ようやく今後に期待しうる状態になったといえる。

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中国の庭園

種類

中国は悠久な歴史と広大な国土をもち、その時々の王朝の民族によって、さまざまな古典庭園がつくられた。それらは規模も大きくかなりの数に上っている。中国の庭園を分類すると、王宮庭園、貴族庭園、寺院庭園、公共庭園の4種になる。このうち帝王の庭園がもっとも早くからつくられ、歴代の帝王はいずれも大規模な造営を行ったが、ひとたび戦乱が起こるといち早く破壊されるのは王宮庭園であったから、商殷(しょういん)の沙丘苑(さきゅうえん)、周の霊囿(れいゆう)、呉(ご)王の消夏(しょうか)湾、秦(しん)の阿房宮(あぼうきゅう)、漢の上林苑(じょうりんえん)、北朝の鹿苑(ろくえん)、唐の神都苑(しんとえん)、金の明池(めいち)など、数多くの名が残ってはいるものの、現存するものは故宮の乾隆(けんりゅう)花園など、時代も新しく、数も少ない。貴族や豪族の山荘は山西省の唐代の絳守の居園、広州の五代の南苑楽州、山東省の清(しん)代の十笏(じっしゃく)園などがある。

 寺院庭園は王宮庭園ほど広くはないが、周囲の風景とよく引き立て合い、寺院とともに静かなたたずまいをみせている。揚州平山堂の西園、北京潭柘(ペキンたんたく)寺の行宮院など、比較的多く残っている。

 公共庭園は都に近く、交通の便のよい、川湖の近辺につくられた。長安曲江、杭州(こうしゅう)の西湖(せいこ)、済南(せいなん)の大明湖などは古来からの遊覧地として人気があった。そのほかに料亭の庭も、北京にある明(みん)代のい園飯荘などいくつか残っている。

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歴史

中国古代の周時代(前11世紀~前3世紀)の庭の意匠は詳しくはわかっていない。土を掘って広い池泉をつくり、その土で高い霊台をこしらえ、樹林に鹿(しか)が群れるさまを『詩経(しきょう)』などによって知るのみである。『春秋左氏伝』には周の恵王(在位前677~前652)は大臣の圃(ほ)をとって囿としたとあり、『説文解字(せつもんかいじ)』によれば圃は菜園、囿は禽獣(きんじゅう)の飼育園とあり、中国も日本の古代と似たような状態であったと想像される。同じく『詩経』によれば、周時代、花樹を観賞し、梅、李(すもも)、竹、荷(か)、楊柳(ようりゅう)を植えていたことがわかる。

 秦代には壮大な阿房宮がつくられたが、秦はわずか15年で滅び、このときの建築や庭園の様式は次代の漢に引き継がれることとなった。秦代で注目すべきことは、海上に三仙山を想定し、その一つを蓬莱山(ほうらいさん)に模して作庭することで、この思想や形式は漢代に伝わり、のちにわが国の造園にも影響を及ぼした。

 漢代は前漢と後漢(ごかん)に分かれるが、約400年続き、最大勢力時には西域(せいいき)、南海、東方、北辺に及んだ。大きな庭園が前漢の都長安と、後漢の都洛陽(らくよう)につくられた。とりわけ広大であったのは前漢の武帝がつくった上林苑で、渭水(いすい)の南にあり、周囲は百数十キロメートル、この中に離宮を70か所建て、庭園には花樹を3000余種植え、百獣を放し飼いにしたという。園内には昆明(こんめい)湖をはじめ大湖を六か所つくった(前119)。また長安に近い茂陵(もりょう)の商人は、東西四里・南北五里にわたる広大な庭園を築いた。園内は岩石を積み重ねた高さ30メートルの山を何キロメートルにも連ね、激流を奔(はし)らせ、奇獣珍鳥を放ち、奇樹異草を植栽した。この園はのちに宮苑となり、園内の素材は上林苑に移された。これらの記事から、漢代の庭園は自然の景を写し、さらに新しい楽園を求めた傾向がうかがえる。

 南北朝のころは、玄武湖のような大湖をつくり、水辺に楼閣をつくることが流行し、この伝統は後世の造園にも引き継がれた。また花樹の林や曲池は、当時の庭園意匠の一典型となった。

 唐代になると、山岳に宮殿を建て、さらに大池泉を掘り、水辺に亭(ちん)をつくった。庭園の中には、山岳や湖沼の岩をしのばせる大湖石(たいこせき)を配した。これは次の宋(そう)代に大流行したが、前代におこった禅宗と、宋代に一つの頂点に達した水墨山水画と無縁ではない。大湖石は中国人の山水愛好の思想の一つの証左といえよう。

 南宋(なんそう)になると、江南の風光明媚(めいび)な風景をそのまま庭園に取り入れ、巨岩の大湖石を適宜配置し、竹林、松、梅林、蓮池(れんち)、牡丹(ぼたん)園など植栽を主体にした庭園が流行した。一般の住居も庭園をつくり、仮山(かざん)と称してその雅趣を楽しんだ。

 金は北京に都し、城内にいくつもの御園を設け、北京西山(せいざん)一帯の八処寺院にも行宮をつくり、西山八院と称した。1179年、大寧宮が落成し、金、元、明、清(しん)四王朝の王宮庭園となった。ほぼ完全な形で現存するもっとも古い王宮庭園で、現在の紫禁(しきん)城外の北海である。総面積68万平方メートル、そのうち水面は39万平方メートルを占める。団城、瓊華(けいか)島などの島があり、瓊華島は海上に浮かぶ仙山、蓬莱島を想定している。

 1234年モンゴル民族は金を滅ぼし、1271年元王朝を建て、引き続き北京を都とした。元も漢民族の文化を伝承し、庭園にもあまり異なった趣向はみられない。貴族官僚の庭園には何々とよぶものが多く、水に臨んで建てられ、別荘として使われた。

 明代には、王宮の庭園、禁苑のほかに貴族の邸宅にもかなり規模の大きい庭園がつくられるようになった。これにも山水画のように古樹、大湖石が配置された。

 明代の造園には文学、絵画、彫刻、建築が加わり、一つの芸術世界を形象している。建築・彫刻には神話の世界や、道家・仏家にまつわる説話、仏教的内容が盛り込まれ、全国の景勝地や古寺・名園をまねて取り入れた。庭園の中に蘇州(そしゅう)や杭州の商業地の風景を実物そっくりに写し、美しい町並みや亭や坊の建築も取り入れてある。つまり、園内を散策すればそのまま広大な中国各地の趣(おもむき)を目の当たりにすることができるのである。模景は中国庭園の特色の一つで、人々は庭園を歩いて一幅の絵画を鑑賞し、さらに名勝の地に旅する思いを味わった。こうした庭園は「天を移し、地を縮め、君が懐(ふところ)にあり」といわれたように、王家の権力と財力を誇示するものでもあった。

 清代は北京地区を中心として王宮庭園がいちばん盛んにつくられた時代で、「百里青(みどり)を浮かべ、金碧(きんぺき)あい望む庭園の海」とたたえられたが、1860年の英仏連合軍に破壊され、現存するものは少ない。

 頤和(いわ)園は乾隆(けんりゅう)帝の時代の1750年に建設され、たびたび破壊されたが、1903年に復旧された現在のものは総面積約2.9平方キロメートル、周囲8キロメートルに及ぶ。宮殿中庭は左右に老柏(ろうはく)・老松を植え、四季折々の花を鉢植えにして並べた。

 総じて中国の庭園は、すべて楽園追求の思想から発しており、規模も日本のそれと比べてはるかに大きく、人工による独自の絵画といえる。

[重森完途]

西洋の庭園

 ヨーロッパの庭園史は、古代エジプトやメソポタミアにその先駆を求めることができる。古代ギリシアでは陶器や壁画、遺跡にその姿をとどめているが、おそらくは果樹園などの実利的な苑囿(えんゆう)であったと思われる。庭園については、『旧約聖書』の正典および外典の文献にも出現するが、造園作業がさまざまな建造物と組み合わされて、高度な内容をもった庭園空間として生まれてくるのはローマ帝国時代からである。

 ローマでは、造園は文化創出の一現象として総合的な内容をもっていた。初期の古代ローマの庭園では住宅と庭園とが一体化され、住宅部分が戸外まで延長された意匠であった。ラテンの史書、文学、書簡などの著作のなかには皇帝、貴族、富者、有力者たちの造園についての記事が散見されるが、とくに有名なのは、小プリニウスがローマ北方の田園の二つの別荘ラウレンティナ荘とトスカナ荘について記述した部分で、その詳細な描写は多くの専門家により想像復元図がつくられ、ヘレニズム文化の生活内容の豊かさを想像することができる。

 しかしこうした文章よりも、より現実的に紀元後1世紀後半のローマの庭園の模様を物語っているのはベスビオ噴火の灰礫(かいれき)の下から発掘されたポンペイとヘラクレネウムの都市遺跡で、各住宅の内庭は当時のローマ市民の生活を彷彿(ほうふつ)させる。またローマ郊外のハドリアヌス帝別荘遺跡から、各地を旅行した皇帝がその風景を模したといわれる当時の離宮庭園の実態をうかがうことができる。

 中世になると修道院には中庭が設けられ、薬草や果樹が栽培され、また瞑想(めいそう)のための遊歩苑がつくられた。この時期、イベリア半島ではビザンティン時代の王侯貴族たちの愉楽的な生活を表現したイスラム宮殿の庭園がつくられた。

 ヨーロッパ庭園の典型的様式が生み出されるのは近世以後である。産業革命によって中間生産者層やブルジョアジーが自らの手で市民社会を切り開いてゆく段階で、現世生活の物質的・精神的充実を図る理想から、庭園もまた台地の展望性や平地の整形性と力動性や風致性が求められた。しかしながら、ヨーロッパの庭園はその国の歴史、文化、宗教、民族性、さらに風土、地勢、気候によって、独自の発達をみせた。以下、欧米のそれぞれの庭園形態を概括的にみてゆくこととする。

[重森完途]

エジプト庭園

人類文明発祥の地として、メソポタミアとともに5000年にわたる長い歴史をもつエジプトは、国土の97%は不毛の砂漠と岩山であるが、残りの3%は母なるナイル川が乾いた大地を潤し、南に向かっては細長い沃野(よくや)をなし、地中海に向かって肥沃なデルタ地帯をつくっている。ここに花開いた古代エジプト文明は神殿と墓の文化といわれるが、神殿遺跡や墓室の壁を飾るおびただしい壁画や浮彫りに、当時の庭園のようすをうかがうことができる。

 カルナックのコンス神殿はピュロン(塔門)に入ると中庭があり、両側が列柱廊になっている。アメン大神殿の内陣には巨大な聖池があり、ナイル川から運河によって水が運ばれた。これらの中庭や池は神への祭祀(さいし)の場であり、もちろん観賞や散策のためのものではない。しかし、エジプト人は墓室に描かれた壁画や浮彫りにみられるように、家庭を愛し、生活を楽しみ、美しい庭を好んだ。エジプトで壮大な石造建造物は神殿に限られ、神殿以外は王宮といえども葦(あし)と木と日乾(ひぼ)しれんがでつくられたので、現存するものは一つもない。第18王朝アメンヘテプ3世の王宮跡といわれるマルカタ遺跡などから推測すると、高級住宅は南北に長い方形で、東西は壁、奥(北)に中庭があり、西の食料品を準備する所にまた小さい庭が設けられていた。王のビラ(別荘)は長方形に囲んだ中庭の大部分を池とし、周囲に緑陰樹を配し、池には舟を浮かべ、池畔に亭(ちん)を設けた。池泉の植物は、上エジプト(カイロ以南)の象徴であるスイレン(ロータス)と、下エジプト(カイロ以北のデルタ地帯)の象徴であるパピルスであり、この二つはエジプトを統治する王の権威の象徴でもあった。

 アマルナ遺跡の「北の宮殿」「王の家」にも巨大な中庭があり、池があった。意匠は左右均等のものである。このように庭に池を掘って水を引くことは王や顕官に限られていた。というのは、ナイル川の水位は低かったので、一般人に運河を掘ることなどとうてい不可能であった。

[重森完途]

イタリア庭園

ローマ帝国時代の庭園は中世以後とだえたが、15世紀ごろからフィレンツェを中心にイタリア・ルネサンス期の庭園が盛んにつくられた。庭園は傾斜地につくられ、建物に接して露壇(テレース)が設けられ、池泉、水盤、滝、花壇、芝生、彫像、柱廊などを配し、住居やテレースの背後には森をつくって、それらをつなぐ階段状の園路によってはるかな遠方へと眺望を広げるようにした。水の多用がイタリア庭園の特徴で、噴水、壁泉、人工滝などを各所に設け、大理石の彫像、壁面装飾などを随所に配している。植栽はカシ、傘松が多く、これらの樹木で森をこしらえた。フィレンツェのボーボリ苑、メディチ家のいくつかの別荘(ビラ)がそれである。なかでもカレジ別荘庭園は15世紀初頭のもので、イタリア最古の庭園といわれ、外縁に彫像を配し、丸い水盤を中心に十字路で区画されている。イタリア・ルネサンス期の庭園は傾斜地に設けられているのが特徴で、この意匠をまねたのが東京の旧古河邸の洋風庭園である。

[重森完途]

フランス庭園

フランスの庭園はイタリアよりやや後れ、17世紀になって初めて独自の意匠をもつに至った。バロック期における最大の造園は、ルイ14世時代のベルサイユ宮殿である。これより先、財務長官フーケは造園家ル・ノートルがつくった私邸の庭を披露したが、これを見たルイ14世はル・ノートルに命じて、莫大(ばくだい)な国家予算を投じてベルサイユに作庭させた。大胆な地割と左右均整のとれた幾何学的な造型、十字形の大運河(カナル)、いくつかの花壇、装飾的な刈込みを施した植栽、芝生、森林、噴水池、それに無数の彫像を配置した。こうして整形性と力動性をあわせもつ広大な苑囿の造営が実現、自然をも人間の芸術に服従させるという西欧思想とルイ14世の意図を今日にまで伝えている。

 ベルサイユ宮殿の庭園は、当時ヨーロッパ庭園の最高の範例として各国に伝わり、この様式と形態に倣った宮苑と庭園を数多く生み出した。たとえばロンドン南西郊のハンプトン・コート宮、ウィーン郊外のシェーンブルン宮、ポツダムのサンスーシ宮、コペンハーゲンのフレーゼンスボー宮、マドリード郊外のラ・グランハ宮などの庭園である。しかし18世紀になると、自然をそのままの形で生かすイギリス風庭園が流行した。ベルサイユの庭園のなかでも、ルイ15世時代につくられた小トリアノンはイギリス風庭園になっている。

[重森完途]

イギリス庭園

イギリスの庭園は非整形で、自然の風景をそのままに生かした、自由で夢想に富むものである。これは、イギリスの国土がなだらかな丘陵をもち、雨量が多く植物が繁茂し、美しい田園風景を展開していることにもよる。

 画家で造園家のケント(1685―1748)は「自然は直線を嫌う」といい、そのため彼は並木道をつくらなかったといわれる。自然の景観をできるだけ残し、不完全な部分だけを補うにとどめた。人工的な印象をできるだけ避け、部分的に花壇と芝生を配したが、その花壇も単純な構成となっている。これは切り花を栽培するという実用目的も兼ねていた。こうしたイギリス庭園の造園には、自然の景観を重視した中国庭園や、J・J・ルソーの思想の影響も考えられるのである。

 イギリス風庭園はロシアやポーランドでもつくられ、スウェーデンのグスタフ3世(在位1771~1792)もイギリス風庭園をつくった。フランスのパリにあるモンソー公園はオルレアン家の狩猟宮のあった所で、1862年にイギリス風庭園につくられた。

[重森完途]

ドイツ庭園

森林と大平原、渓谷美に恵まれたドイツでは、庭園よりむしろ戸外生活を楽しむ傾向にある。庭園は最初フランス庭園の模倣もあって、ことにプロイセンのフリードリヒ大王はフランス文化に心酔し、バロック風のサンスーシ宮をつくった。ハノーバーのヘレン・ホイザー庭園は17世紀後半から18世紀初めにかけてつくられたが、長さ1.5キロメートルの長方形の庭園で、周囲を堀で囲み、木立、灌木(かんぼく)、花壇、池などがみごとな幾何学的構成をみせている。ドイツの北西部は平原で土地の高低がないので、庭園に変化をもたせるために、ときには沈床を設けて段差をつくった。近代のドイツ庭園は実用主義を追求し、戸外生活を好む国民性から、露壇を設けて庭園から直接出入りできるように、農家の庭の意匠も取り入れている。花壇の配列が単純なのはイギリス庭園の影響である。

[重森完途]

スペイン庭園

8世紀のなかばイスラム教徒によって占領されたスペインは、15世紀の末に国土回復運動が完了するまでサラセン文化の影響を受けた。イスラム教徒は造園に優れた手腕を示し、グラナダのアルハンブラ宮殿はその代表例である。13世紀から16世紀にかけて増改築され、年代によってイスラム風、スペイン・ルネサンス風に分かれる。いくつかの小中庭(パティオ)から構成され、有名なライオンのパティオはイスラム風で、ヘネラリーフェのアセキアのパティオは噴水がモチーフになり、これらのパティオが壮麗な造園空間を形づくっている。

[重森完途]

アメリカ庭園

建国当時は、当然のことながら本国イギリス様式の庭園が東部に出現した。ついで好まれたのはイタリア風庭園である。個人住宅では、南北戦争時代は農家や中産階級の邸宅は周囲に芝生を巡らし、塀や垣根を設けず、この傾向は今日の都市郊外住宅にも及んでいる。これに反してブルジョアや有名人の大邸宅の多くは、厳重な塀を巡らした中に園遊会用の芝生とプールを設けているのが通例である。いずれにせよ、各国の人種の集合であるため、上記二つの様式のほか、フランス、ドイツ、スペイン、さらには日本の様式を取り入れたものまで、その種類はさまざまである。

[重森完途]

『岡崎文彬著『ヨーロッパの造園』(1969・鹿島出版会)』『重森三玲・重森完途著『日本庭園史大系』全35巻(1971~1980・社会思想社)』『重森完途編著『日本庭園の手法』全5巻(1976~1977・毎日新聞社)』『伊藤ていじ他監修『探訪日本の庭』10巻・別巻2巻(1978~1979・小学館)』『重森完途著『茶の露地』(1979・淡交社)』『重森完途著『枯山水』(1979・講談社)』『京都林泉協会編『全国庭園ガイドブック』増補改訂版(1980・誠文堂新光社)』『劉敦てい著、田中淡訳『中国の名庭――蘇州古典園林』(1982・小学館)』『西澤文隆・中村昌生監修『日本庭園集成』全6巻(1983~1985・小学館)』『吉永義信著『日本庭園史――昭和初期ころの回想』(1985・小学館)』


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百科事典マイペディア 「庭園」の意味・わかりやすい解説

庭園【ていえん】

庭園は,自然的条件による制約と,その影響を受けて生まれた美意識の差により,各地でそれぞれ多様な展開を示しているが,大別して,自然を生かした風景式庭園と,人工的に構築した整形式庭園の2種がある。西欧では後者の伝統が強く,中世の修道院や城の庭園を経て,ルネサンス期にイタリア式庭園と呼ばれる典型的なものに発展,17世紀になってル・ノートルを中心にフランスで飛躍的に発展した。18世紀以降は自然賛美の思潮を背景に,英国を中心に風景式庭園が発達。日本では神仙説を具現した中国の庭園の影響を受けながら風景式庭園が独特の発達を遂げた。平安期には寝殿造を中心に池泉庭園,浄土庭園が発達。室町期には禅宗寺院を中心にして,その自然観を象徴化した枯山水が盛行,これは茶室と結びついて桃山期以降の茶庭(露地)の発達を促した。一方,諸侯の大邸宅には自然風景を模した大庭園がつくられ,回遊式庭園と呼ばれた。
→関連項目兼六園

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「庭園」の意味・わかりやすい解説

庭園
ていえん
garden

芸術的に構成された自然の景観を取入れた庭。風土と芸術観の相違により,規則的,幾何学的に配列された整形庭園と,風景を再現した風景式庭園とに分けられる。中近東やヨーロッパの庭園は前者が伝統的形式で,近世ヨーロッパの庭園は,古代ローマの庭園に基づいたイタリア・ルネサンスに高度の発展がみられる。一直線の生垣,並木道,彫刻,噴水,園亭などを伴い,イタリア式庭園としてヨーロッパ庭園の模範となった。これはフランスにおいてバロック・ロココ時代には宮殿建築と対応して頂点に達しベルサイユ宮庭園などの傑作を生んだ (→フランス式庭園 ) 。一方,自然風景式庭園は 18世紀末からイギリスを中心に生れたためイギリス庭園とも呼ばれ,ロマン主義と結びついて各地に発達した。また日本や中国では独自の自然観,宗教観から,理想的風景を志向した整形的庭園 (石庭など) 風景式庭園が造成された (→日本庭園 ) 。

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世界大百科事典(旧版)内の庭園の言及

【園耕】より

…周到な栽培管理のもとに集約的に行う農耕方式をいう。粗放的に行われる穀耕などの農耕方式との対比で,しばしば使われる用語である。対象とする作物は,野菜,果樹,花類などの園芸作物を中心とするが,必ずしも作物の種類は問題とされない。栽培法としては,すじまきや点播(てんぱん),移植,間引き,補植,中耕,培土,除草,整枝,剪定(せんてい),摘心,追肥など,各種の手作業を中心とした諸技術が,作物の特性に応じて適宜に採用される。…

【池】より

…池のもつ意義にはそのおもなものとして,灌漑(かんがい)のことがまず取りあげられなければならない。つぎに文学に現れる池,また庭園の池を考えなければならない。庭園の池は最初から鑑賞もしくは造園上の風趣をそえることに目的があるが,文学の中に取り入れられた池は,むしろ灌漑池として築造された池のすぐれた景観が,人工池ではあるが自然を背景とした美しさによって,人の心をゆすぶるものである。…

【噴水】より

…前1世紀ころに活躍したアレクサンドリアのヘロンは,サイフォンの原理を応用した〈ヘロンの噴泉〉の考案者として知られている。古代ローマにおいては,水道の建設技術の展開と庭園の愛好があいまって,宮殿や住宅,ウィラの庭を噴泉が彩るのが見られ,ポンペイの廃墟などに,その遺構を見ることができる。イタリアは中世においてもこの伝統を受けつぎ,11世紀ころからの中世都市の繁栄の時代に,都市の広場に美しい噴水を造った。…

【露地(路地)】より

…おおいのない土地・地面のこと。また家と家との間の狭い道,敷地内に設けられた狭い通路,のことであるが,山梨県南巨摩郡,愛知県北設楽郡,飛驒の民家では屋内の土間,北陸,北信,奥羽地方の民家では庭,京都では町屋内の庭園,東北・北陸地方では庭園,大阪府,和歌山県,香川県の民家では裏木戸門,関西地方で路地の奥にある裏長屋を意味する。いっぽう茶道では茶室(座敷)に至る通路が,庭園として整備されたのちも露地と呼ばれる。…

※「庭園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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