中国,江西省の北端,鄱陽湖(はようこ)と長江(揚子江)をつなぐ水路の西に,東西を断層崖で画されて,平野中にそびえる山。主峰の漢陽峰は標高1474m。古い岩石が風化浸食され,山体は大きくないが谷が深く,随所に瀑布が形成され,山上には奇岩秀峰が林立し,山麓の湖水とあいまって美しい景観を呈する。古くから江南の名勝として名高い。また長江中流域の要衝である九江,湖口を山下にひかえ,軍事上の拠点としてもしばしば歴史に登場する。周代に匡(きよう)氏の7兄弟がここに廬を結んで隠棲して登仙したという伝説により,匡山・匡廬とも呼ばれる。その後も陶潜(淵明)が隠棲するなど,隠士・道士のすみかともなった。また後漢の明帝のときには仏教の中心地の一つとなり,多くの寺院が山上・山下に建てられた。特に東林寺では南朝晋のときに慧遠(えおん)が出て蓮社(白蓮社)を設立し,弥陀浄土法門を唱えて浄土宗の始祖となった。鑑真(がんじん)も日本へ渡来する前にここを訪れ,本寺の智恩(ちおん)とともに渡日を実行したのであった。山中の名勝の中でも秀峰付近は特に美しく,歴代訪れた文人達の碑刻が多く残されており,その一部をなす香炉峰は白居易(楽天)の詩などで有名である。白鹿洞書院は宋代四大書院の一つとされ,南宋には朱熹(しゆき)(子),陸九淵(象山),王守仁(陽明)ら代表的な学者がここで講学した。近代には湿熱な長江中下流域の都市よりの避暑地となり,外国人や国民政府の施設が設けられた。また植物園は中国全土の植物を集め,植物研究の中心となっていた。解放後も,療養所等が建てられ保養観光地となり,植物園も再興された。
執筆者:秋山 元秀
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中国、江西省北端部の名山。殷(いん)、周のころ匡(きょう)姓を名のる7兄弟が廬(いおり)を結んで隠棲(いんせい)したことからこの名が出たといわれ、匡山(きょうざん)ともいう。鄱陽(はよう)湖の出口に、長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう))江岸を見下ろしてそびえ立つ。北東―南西の走向を示す古い変成岩よりなる山塊で、幕阜(ばくふ)山脈の余脈の東端にあたり、長さ25キロメートル、幅約10キロメートル。最高点は漢陽峰の1474メートル。成因は断層運動による隆起作用で生じたもので、四周は崖(がけ)をなし、多くの滝があるが、山上は傾斜が緩く、谷も下部では険しい峡谷をなすのに上部では広く緩やかになっている。主要な山峰には漢陽峰、香炉(こうろ)峰、五老峰などがある。気候上の特色は年降水量1833ミリメートルと雨が多く、また霧が多いことで、夏にはしばしば雷雨が発生する。そのためしばしば雲海の上に山々がそびえ立つ光景が見られる。雨が多いので植物はよく繁茂し、種類も1700余種に達し、自然の植物園を形成している。このように絶好の名勝地であるため、古来詩人の来遊も多かったが、アヘン戦争以後、牯嶺(これい/クーリン)地区は長江沿岸の欧米人の避暑地となり、また国民党要人の別荘も多かった。
解放後は労働者の療養および保養の場所として開放され、牯嶺地区を中心に図書館、映画館、療養院、博物館、動物園などが開設され、山上まで自動車道路も建設された。解放前も国民党の重要会議が開かれたが、現在も山上で国や党の重要会議が開催される。
[河野通博]
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