延暦寺焼打(読み)えんりゃくじやきうち

改訂新版 世界大百科事典 「延暦寺焼打」の意味・わかりやすい解説

延暦寺焼打 (えんりゃくじやきうち)

1571年(元亀2)9月12日,織田信長比叡山延暦寺の根本中堂,山王二十一社をはじめとする諸堂社をことごとく焼き払った事件。前年9月,三好三人衆,本願寺顕如に呼応して南近江に兵を進めた浅井・朝倉軍の一部は叡山に拠って信長に対抗した。信長は,翌年,この敵対的行為の報復として全山を一気に攻撃,焼亡させた。このとき,王城の鎮護として広く信仰されていた叡山の堂宇以下寺宝・古文書類はほとんど灰燼かいじん)に帰し,この信長の行為は多くの驚きと非難を集めた。しかし,この焼打ちは,堕落しつつも依然宗教的権威であり,大荘園領主あるいは金融・流通支配者として絶大な力をもっていた叡山をまっこうから否定するものであり,中世から近世への移行過程の中で重要な意味をもつと言える。延暦寺は信長の死後,復興に着手され,豊臣秀吉徳川家康の寺領安堵も受けて,寛永年間(1624-44)にはほぼ旧観に復するが,昔日の勢力は失った。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「延暦寺焼打」の意味・わかりやすい解説

延暦寺焼打
えんりゃくじやきうち

1571年(元亀2)9月、織田信長が比叡山(ひえいざん)の延暦寺を焼き払った事件。1570年4月、浅井長政(あさいながまさ)は信長に反旗を翻して朝倉義景(あさくらよしかげ)と連合した。浅井・朝倉軍は6月姉川(あねがわ)の戦いで一時敗退したが、9月には織田信治(のぶはる)を敗死させ、のち比叡山にこもり、叡山もこれを庇護(ひご)、信長と対決の構えをみせた。一方、本願寺(ほんがんじ)顕如(けんにょ)による蜂起(ほうき)の指令を受けた伊勢長島(いせながしま)の一向一揆(いっこういっき)が11月に信長の弟信興(のぶおき)を殺し、翌71年5月になっても抗戦していた。このような危機的な状況のなかで9月12日、信長は一気に比叡山に攻撃をしかけ、根本中堂(こんぽんちゅうどう)をはじめとする堂塔伽藍(がらん)のすべてを焼き払い、数千名の僧俗男女を皆殺しにした。この事件は、信長が、古代以来鎮護国家の霊場として人々に君臨してきた叡山の伝統的権威を一挙に解体することで反信長勢による総包囲という窮地を打開し、新しい権力者としての自己の姿を誇示しようとしたものであると考えられる。

[奈倉哲三]

『永原慶二著『日本の歴史14』(1975・小学館)』

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