彦根城下(読み)ひこねじようか

日本歴史地名大系 「彦根城下」の解説

彦根城下
ひこねじようか

彦根藩井伊家三〇万石(預地を含めると三五万石)が建設した彦根城の城下町。天守を中心とした城郭を第一郭とすると、内堀を隔てて内曲輪とよぶ第二郭が囲み、それを石垣・土塁・中堀を隔てて内町とよぶ第三郭、さらに土塁・竹藪・外堀を隔てて町とよぶ第四郭がめぐる。外町の周りには北に大洞おおほら口、東に里根さとね口、南に猿尾さるお口、芹橋せりばし口・池須いけす口など七ヵ所に番所が設置されていた。町方は第三郭・第四郭に営まれるが、武家屋敷を含む。内曲輪は上級家臣の居住地や有力施設が営まれた。

〔城下建設以前の景観〕

江戸初期の花居清心の原図に連なるという彦根古絵図(彦根市立図書館蔵)などによれば、彦根城の築かれた彦根山や長尾ながお山などの南方に平地が広がり、西方は湖、東方と南方は世理せり(善利川とも、現芹川の旧流路)とその支流和川が限り、北方には松原まつばら内湖がめぐり、一帯は水に囲まれている。平地部にも盲亀もうきガ淵・さいガ淵・金亀こんきガ淵はじめ五ヵ所の淵があり、湖岸べりには葦地が多い。同絵図には後代のものも含め注記があり、平地部内に長曾根ながそね浜藪はまやぶ中藪なかやぶ青柳あおやぎなか(彦根村の内)・世理、世理川両岸にわたる彦根、同川東岸の小藪こやぶ安清やすきよ、同南の後三条ごさんじようなどの地名・村名などがみえる。なお観音信仰で高名な彦根寺に至る巡礼往来道が記され、和川を渡る辺りに茨木いばらき茶屋とみえる。内湖と湖を三つの島が区切り、これが形成する水路を北から一ッ川・二ッ川・三ッ川・四ッ川と記すが、うち前の三水路は石田三成の時代の開削とみられ(「城下近辺絵図付札写」西村文書)、四ッ川は城下建設に伴って開いたという。また世理川は付替えられ、尾末おすえ山はその河口部の低湿地を埋立てるために切崩されたようである。前掲の古絵図注や付札写には城下町の建設により潰された村々として里根・彦根・長曾根の三郷三彦さんげん三ッ根みっねという)と、公藪こやぶ村・松原まつばら村を含む五ヵ村をあげるが、うち彦根・長曾根の場合一村残らず取潰しになり、替地を与えられたという。百姓は腹を立て役人らと争論に及ぶが、「役人生首を竹の先に指しつらぬき持参り郷民共に見せ懸け」るなどをもって強制したと伝える。また宮一社、寺の本尊二体・坊主三人を舟に乗せ、多景たけ島の付近に沈めたという伝えもあり(淡海落穂集)、神仏に対する井伊家の姿勢の一端をみるが、石田三成の時代を払拭しようとする意図ともいう(彦根市史)。なお彦根村は慶長高辻帳に高五六〇石余とあるが、「但城やしきニ成」と注記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の彦根城下の言及

【彦根[市]】より

…滋賀大学,県立短期大学などがあり,文教都市的な色彩も濃厚である。【井戸 庄三】
[彦根城下]
 地名の由来は,彦根山に活津彦根(いくつひこね)命が降臨したとの伝承による。平安・鎌倉時代,彦根山中の彦根寺が観音験所として京畿一円に知られ,白河上皇はじめ宮廷人の参詣もみられた。…

※「彦根城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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