往生院(読み)おうじょういん

精選版 日本国語大辞典 「往生院」の意味・読み・例文・類語

おうじょう‐いん ワウジャウヰン【往生院】

[一] 京都市右京区嵯峨鳥居本にあった寺。「平家物語」などによると、滝口入道祇王、祇女らが遁世したという。明治二八年(一八九五)、その庵跡に祇王寺が建てられた。
[二] 大阪府東大阪市六万寺町にある浄土系単立寺院。山号は岩滝(がんりゅう)山。天平年間(七二九‐七四九)行基の開創。はじめ六万寺といった。貞和四年(一三四八楠木正行がこもり、四条畷(なわて)の戦で兵火を受ける。往生院六万寺。六万寺。

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日本歴史地名大系 「往生院」の解説

往生院
おうじよういん

[現在地名]東大阪市六万寺町一丁目

生駒山南西麓にある。単立寺院で、正式には往生院六万ろくまん寺といい、山号岩滝山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると天平一七年(七四五)行基が枚岡の地に六万寺を創建、聖武天皇の勅願所となって封戸七〇と寺田一〇〇畝を寄進され、宇多天皇の崇敬を得て寺領三〇余町を寄進された。往生院は六万寺の一坊であったが、天慶年間(九三八―九四七)炎上。平安後期に念仏道場として安助により復興されたという。「拾遺往生伝」の安助伝によれば、河内国高安郡の川瀬吉松なる老人が安助に帰依して一宇を建立、そこは四天王寺(現天王寺区)の西門の真東の地で、日想観を行ずる念仏道場として、安助の没後往生院と称されたという。同書による限り六万寺との関係は不明。山号ともなっている岩滝いわたき山は寺の背後にあり、役行者が大峯山へ籠るまで三年間苦行したと伝える。鎌倉初期には成立していた「諸山縁起」に葛城北峰の宿として「往生院」が記され、山岳修験の霊場であった。「河内名所図会」には「いにしへは、役行者、山嶽をひらき、伊駒、鳴川、鬼取につゞきて、修験練行の地とし給ふ、当山、女人の参詣をゆるし給へば、世に女人の大峰とぞ称しける」とある。

往生院
おうじよういん

[現在地名]熊本市池田一丁目

池田いけだ一丁目の南端にあり、浄土宗、山号は無量寿山、あるいは白川山とも号し、寺号は泰安たいあん寺。本尊阿弥陀如来。「国誌」によれば、開山は法然の高弟浄土宗鎮西派の祖で、筑後善導ぜんどう(現福岡市)の開山である聖光弁阿(弁長)。弁阿は安貞二年(一二二八)白川のほとりに往生院を開き、二〇余名の衆徒と四十八日別時念仏を行い、末代念仏授手印一巻(当寺蔵)を著している。授手印は法然没後、念仏に関する異議が盛んなのを憂え、後代の異議を戒めるために法然相伝の念仏の真意義を記したもの。

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世界大百科事典(旧版)内の往生院の言及

【別所】より

… 別所は,山城,近江,大和を中心に数多く存在するが,摂津・河内・和泉の畿内,伊賀・伊勢・三河の東海,信濃・越前の東山北陸,出雲・丹後の山陰,播磨・備前・備中・周防の山陽,南海の紀伊,西海の筑前・肥前・大隅・薩摩などに分布し,三河以西の現象とみられる。しかし,別所のなかには別所内外の人々の終焉の場として設けられた往生院と呼ばれる施設がある。近世初頭キリシタン宣教師編集の《日葡辞書》に別所を〈墓所〉としたのもこれに基づき,往生院を院号とした別所もある。…

※「往生院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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