後藤 恕作(読み)ゴトウ ジョサク

20世紀日本人名事典 「後藤 恕作」の解説

後藤 恕作
ゴトウ ジョサク

明治〜昭和期の実業家 東京毛織創業者。



生年
安政5年3月6日(1858年)

没年
昭和4(1929)年4月

出生地
播磨国揖東郡網干村(兵庫県姫路市)

主な受賞名〔年〕
緑綬褒章〔昭和3年〕

経歴
明治2年12歳の時大阪に出、神戸の英十六番館に務めた後、8年清国に渡り、中国語と毛織物染色の技術を学ぶ。13年帰国後、民間初の毛糸紡績業を始め、14年府下大井町に毛織製造所を設立。19年東京毛布製造会社を創設。日清戦争時の軍需巨利を博したが、36年三井に買収され品川毛織となる。同年島田毛織製造所を設立、40年後藤毛織と改称。大正6年東京製絨などと合併し、東京毛織を設立したが、12年の関東大震災で東京工場は全滅した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「後藤 恕作」の解説

後藤恕作

没年:昭和4.4(1929)
生年:安政5.3(1858)
明治大正期の民間毛織物業の先導者。播磨国(兵庫県)揖東郡網干村生まれ。明治初年に大阪,神戸で外国商館や蓬莱社に勤務し,東京に転じたのち,明治8(1875)年に森有礼に伴われて清国に行き,北京で毛織染色法を修めた。帰国後,多くの苦難のなか,毛織物製織に邁進し,初の民間毛織物工場である後藤毛織製造所を設立。同製造所は,14年の内国勧業博覧会で技術力を認められながらも,最初は経営難が続いたが,日清・日露戦争期には業績を躍進させた。民間毛織物業の揺籃期に果たした後藤の役割は大きい。36年に同製造所は三井に売却されたが,後藤は中島銀行の援助で島田毛織製造所を設立,同社は40年に後藤毛織と改称,第1次大戦期の好況期に東京毛織物,東京製絨と合併して東京毛織となった。その後,関東大震災時に東京工場が全焼し,不況期には毛織物市況の悪化に苦しんだが,屈せず毛織物業の改良発達に努め,昭和3(1928)年実業功労者として緑綬褒章を受章。<参考文献>『後藤恕作履歴書』(『公文雑纂』),『東洋経済新報』91,92,150号

(松本貴典)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「後藤 恕作」の解説

後藤恕作 ごとう-じょさく

1858-1929 明治-昭和時代前期の実業家。
安政5年3月6日生まれ。明治8年清(しん)(中国)にわたり北京で毛織染色の技術をまなぶ。帰国後,民間初の毛織物工場を設立。36年島田毛織製造所を新設し,40年後藤毛織と改称。大正6年東京製絨などと合併し東京毛織を設立した。昭和4年4月死去。72歳。播磨(はりま)(兵庫県)出身

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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