後閑城(読み)ごかんじょう

日本の城がわかる事典 「後閑城」の解説

ごかんじょう【後閑城】

群馬県安中市にあった城。同市指定史跡。1441年(嘉吉1)に、信濃国の御嶽城(依田城、長野県上田市)の城主、依田忠政が築城を開始し、1447年(文安4)に完成したとされている。1560年(永禄3)、越後長尾景虎(上杉謙信)は、関東管領上杉憲政を擁して第1回目の関東出陣を行う。その際、西上野の多くの武将は景虎方についたが、城主の新田信純(のち真純に改名)は小幡城の小幡信実とともに武田方に与したため、城を失った。しかし、1566年(永禄9)に武田信玄が長野氏の箕輪城を攻略して西上野を制圧し、翌1567年(永禄10)、信玄は新田真純を後閑城に入城させたことから、城主として復帰した。1582年(天正10)に武田氏が滅亡すると、真純の長男の信重は厩橋城の北条(きたじょう)高広(上杉氏の城代として同城に入城したが、のちに離反・自立した)に従い、次男重政と三男信久は北条氏に属して両後閑と呼ばれた。1584年(天正12)、高広が北条氏に降伏すると、北条氏直は新田兄弟(両後閑)に厩橋城在番を命じている。1590年(天正18)の小田原の役では、両後閑は小田原城に篭城し、後閑城は松井田城の大道寺駿河守政繁に属したが、北条氏の滅亡とともに、廃城となった。城跡には曲輪(くるわ)、土塁堀切などが残っている。また、城跡の一部は城址公園として整備され、櫓(やぐら)などが復元されている。JR信越本線安中駅から柿平行きバスで金蔵入口下車、徒歩1時間弱(城跡まで)。

出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報

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