小説家。本名健次郎。明治元年10月25日(新暦では12月8日)、肥後国水俣(みなまた)(現水俣市)の生まれ。徳富家は代々郷士の家柄。親戚(しんせき)には傑物が多く、兄の蘇峰(そほう)には終生劣等感を抱いた。16歳で受洗。同志社(現同志社大学)では新島襄(にいじまじょう)の義姪(ぎてつ)と恋をし、反対されて出奔、熊本へ帰った。20歳で上京、兄の民友社に入り記者となる。結婚後、立身できないいらだちから生活はすさんだが、29歳、神奈川県逗子(ずし)へ転居し、自然に親しみ、心はほぐれていく。評伝『トルストイ』(1897)の脱稿は新生への足掛りとなった。1900年(明治33)、『不如帰(ほととぎす)』と清新な自然文集『自然と人生』の刊行によって注目され、翌年の『思出(おもいで)の記』ともどもロングセラーとなり、作家的地位を確立。当時、蘆花は汎神論(はんしんろん)的傾向にあり、自然すなわち神による人生の解脱(げだつ)が作品に共通する主題であった。日本という国家の解脱を目ざした社会小説『黒潮(くろしお)』は第1編刊行(1903)だけで中絶したが、その際、兄と決別。この中絶は蘆花の文学観を変える。
1905年(明治38)8月、富士山頂で人事不省に陥り、これを神による警鐘と受け止めて回心。翌年、聖地を巡礼、トルストイを訪ねて『順礼紀行』を著し、1907年からは粕谷(かすや)(東京都世田谷区)に移り、「美的百姓」を始めた。随筆集『みゝずのたはこと』(1913)はその所産。その間、伝記小説『寄生木(やどりぎ)』(1909)を書き、大逆事件では旧制一高での講演『謀叛論(むほんろん)』(1911)などで被告を弁護した。失恋体験を描いた『黒い眼(め)と茶色の目』(1914)以後、虚偽のない「生活即芸術」の文学を志す。紀行『死の蔭(かげ)に』刊行の翌1918年(大正7)、自分と妻をアダムとイブと自覚し、それを告白した随筆集『新春』を出し、夫妻での世界周遊紀行『日本から日本へ』(1921)では、再臨のキリストと自認するまでになる。夫妻で結婚生活の告白小説『冨士(ふじ)』を書いたが、昭和2年9月18日、群馬県伊香保(いかほ)で病死。同書は4巻(1925~1928)で中絶した。晩年は文壇から孤立。文学史的位置も未確定である。墓地と旧居が粕谷の蘆花公園にある。
[吉田正信]
『『蘆花全集』全20巻(1928~30・同書刊行会)』▽『『明治文学全集42 徳冨蘆花集』(1966・筑摩書房)』▽『中野好夫著『蘆花徳冨健次郎』全3部(1972~74・筑摩書房)』▽『蘆花会編『徳冨蘆花 検討と追想』(1936・岩波書店)』
小説家。本名健次郎。熊本県水俣の生れ。惣庄屋兼代官の家に猪一郎(蘇峰)の弟として生まれた。少年時に京都同志社に学び,熊本でキリスト教受洗ののち再び同志社に復学したが,新島襄の義姪との恋を反対されて出奔。1889年上京して蘇峰の経営する民友社に入り,《国民之友》《国民新聞》《家庭雑誌》に種々の文章を書いたが,本領を見いだしたのはのちに《自然と人生》(1900)などにまとめられる自然描写の小品であった。98年から《不如帰(ほととぎす)》を連載,小説家として認められ,精神的・経済的に兄から自立した。《思出(おもいで)の記》(1900-01)を経て,民友社と決別し《黒潮(こくちよう)》の第1編(1903)を自費出版。独自の自然観・社会観を根底に置いた当時の創作は,木下尚江(なおえ)らに影響を与えた。1905年心的革命を経験,翌年パレスティナ順礼の旅に出て帰途トルストイを訪問。07年東京府下千歳(ちとせ)村粕谷(現,世田谷区粕谷)に移転,半農生活を開始した。その記録が《みゝずのたはこと》(1913)である。その間小笠原善平のノートにもとづいた《寄生木(やどりぎ)》を書いたが,〈真なる自己〉を求めてまず《黒い眼と茶色の目》(1914)を書き,さらに生活即芸術という信条の実践として《新春》(1918),《日本から日本へ》2巻(1921)を経て,膨大な自伝《冨士》4巻(1925-28)を書いた。やがて病を得て伊香保に赴き,長年不和であった兄と和解した後に没した。
執筆者:佐藤 勝
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明治・大正期の小説家
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(平岡敏夫)
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1868.10.25~1927.9.18
明治・大正期の小説家。本名徳富健次郎。熊本県出身。同志社中退後,上京して兄蘇峰の経営する民友社に入り,「不如帰(ほととぎす)」によってベストセラー作家となる。以後「自然と人生」や自伝的長編小説「思出の記」「黒潮(こくちょう)」などで地位を確立した。社会的関心も強く,大逆事件に際して政府の処置を批判する講演(「謀叛論」)を行うなど独自のヒューマニズムを実践したり,聖地巡礼とトルストイ訪問なども行った。妻との共著に自伝小説「富士」がある。
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…徳冨蘆花の随筆小品集。1900年(明治33),民友社刊。…
…徳冨蘆花の長編小説。1898年から99年にかけて《国民新聞》に連載,改稿して1900年に刊行。…
※「徳冨蘆花」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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