江戸幕府第3代将軍(在職1623~51)。秀忠(ひでただ)の第2子(長子長丸は2歳で幼死)。母は秀忠夫人浅井氏お江(ごう)。慶長(けいちょう)9年7月17日江戸城西丸(にしのまる)で生まれる。幼名は竹千代(たけちよ)。乳母(めのと)の春日局(かすがのつぼね)(稲葉重通(いなばしげみち)養女お福(ふく))に育てられる。1620年(元和6)正三位(しょうさんみ)権大納言(ごんだいなごん)。続いて元服して家光と名のる。1623年秀忠と前後して上洛(じょうらく)し将軍宣下(せんげ)を受ける。1626年(寛永3)再度上洛し従一位(じゅいちい)左大臣。1634年三度上洛し太政大臣(だいじょうだいじん)に任じられたが辞退。慶安(けいあん)4年4月20日江戸城本丸で没。法号は大猷院(だいゆういん)。日光大猷廟(たいゆうびょう)(現二荒山(ふたらさん)神社内)に葬る。夫人は関白鷹司信房(たかつかさのぶふさ)の娘中ノ丸殿(なかのまるどの)。
[高木昭作]
大御所秀忠の死により幕府の実権を握った1632年(寛永9)以来20年間の治世は、将軍権力を安定させ政治的権威の伝統化をもたらした点に歴史的意義が認められる。長子相続が確立していなかった当時は、将軍の代替わりは幕府権力の危機であり、家光も秀忠の死の直後に実弟の駿府(すんぷ)城主徳川忠長(ただなが)(55万石)を改易し自殺に追いやっている。秀忠夫妻の偏愛によって忠長に定まりかけていた将軍後嗣(こうし)が、春日局の直訴を受けた家康の裁定で家光に定まったという話が伝わっているが、こうして競争者を滅ぼした家光は、秀忠時代の老臣を老中として優遇する一方で、側近の旗本組の頭(かしら)(親衛隊長)を新設の若年寄に任命し、1634年それらの職掌を定めて新旧重臣のバランスをとった。
政策上では、当面、前代を踏襲して貿易統制やキリシタン禁制を強化し、1639年ポルトガル船の日本渡航を禁止して鎖国を完成させた。ついで寺社奉行(ぶぎょう)を設置し、さらに評定所(ひょうじょうしょ)の規則を定めるなど制度の整備に努めた。諸大名に対しては1632年の熊本城主加藤忠広の改易など依然武断主義で臨み、また1635年改定の武家諸法度(ぶけしょはっと)で初めて参勤交代の制度を定めた。御手伝普請(おてつだいぶしん)も1634年江戸城西丸、1639年本丸の火災などもあり、前代同様に諸大名に割り当てられた。こうした負担は結局のところ農民に転嫁され、1633年出羽(でわ)白岩(しらいわ)(山形県寒河江(さがえ)市)の一揆(いっき)など家光の代に入ると農民一揆が散発し始めたが、宗教問題と絡んで大爆発したのが1637年10月から翌年正月の島原の乱であった。この乱は、鎮圧軍の総大将として派遣された家光の側近あがりの老中松平信綱(まつだいらのぶつな)の持久戦策によって鎮定され、家光の側近グループの政治的権威を高めるとともに、キリシタン取締りの強化を結果したが、他方では幕初以来の大名・農民に対する武断主義に基づく強硬路線の再検討を幕府首脳に余儀なくさせた。
[高木昭作]
領主財政の疲弊に対する関心は早く1633年(寛永10)の旗本番士への総加増や1635年の旗本法度以降繰り返された倹約の強制にもみられるが、島原の乱に続いて起きた1641~42年の寛永(かんえい)の飢饉(ききん)は、領主財政の基盤である農村の再建が本格的課題となるに至った。その一つの帰結である1649年(慶安2)に農民に対して出された慶安御触書(けいあんのおふれがき)は、勤勉節倹の強制を通じていわゆる封建的階層秩序の貫徹を目ざす点で、武士・町人などを対象としたこの期の倹約令・風俗取締令と共通性があり、武断主義からの幕政転換を示すものであった。以上の傾向を裏打ちしたのが家光の偏執狂的ともいえる家康=東照宮(とうしょうぐう)崇拝であった。自身を家康の生まれ変わりと信じていたふしのある家光は、1634年から1636年にかけて東照宮の大改築を行い、自身も10回にわたって日光(にっこう)に社参。1646年(正保3)には朝廷に要請して例幣使(れいへいし)発遣を制度化するなど東照大権現(だいごんげん)の権威の浸透に努め、幕府の権威の基礎を東照宮に置くことに成功した。
[高木昭作]
『広野三郎著『徳川家光公伝』(1963・東照宮社務所)』
江戸幕府3代将軍。2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早死)。母は浅井長政の三女江与(えよ)(逵子(みちこ),崇源院)。幼名竹千代。法号大猷院。誕生とともに稲葉重通の養女福子(のちの春日局(かすがのつぼね))が乳母となる。永井直貞・松平信綱・稲葉正勝(春日局の子),おくれて阿部忠秋らが小姓に召された。幼時,両親の愛情は弟国千代(忠長)にそそがれていたが,祖父家康が嫡庶の序にしたがい世子と定めさせたと伝えている。1615年(元和1)家康と秀忠は竹千代の守役として酒井忠世・土井利勝・青山忠俊を任命,輔翼させた。20年元服,従二位権大納言となる。この前後,かぶきの風俗が流行し,家光もこれを好んで衣装・髪・化粧に凝り,合せ鏡をしたり,市中を微行して辻斬のうわさをたてられたり,躍り(おどり)にうちこんだりしたが,忠俊の強い諫言もあって改まった。23年父とともに上洛して将軍宣下を受け,正二位内大臣,26年(寛永3)再度上洛,後水尾天皇の二条城行幸を迎え,従一位左大臣。29年には勅許紫衣(しえ)停止の幕命に背いた大徳寺の沢庵らを流刑にし(紫衣事件),朝廷に対する幕府の優位を確定し,34年の上洛を最後に幕末まで歴代将軍の上洛はなく,将軍宣下は勅使を江戸城に迎えて行うようになった。
32年秀忠が死去した後は大御所と将軍の二元政治が解消され,家光のもとで一元化された将軍政治が行われることになった。このことは,征夷大将軍という朝廷官職が,太閤や大御所といった〈天下人〉の権力を吸収し,固有の機構をもった独立の〈将軍権力〉として権能を発動し始めたことを意味する。家光が諸大名に対し〈余は生まれながらの将軍である〉と言ったと伝えられるのは,この意味において正しく,家光の政治はそれを完成させるところに向けられた。32年の熊本城主加藤忠広や弟忠長(駿河大納言)の改易は,将軍権力の強化集中を進め,旗本諸士法度の制定は,直臣団の統制をはかったものといえる。老中・若年寄・三奉行(寺社・町・勘定)のほか,大目付・巡見使等の職務と権限を定め,評定所(ひようじようしよ)の構成と機能をととのえた。35年武家諸法度を改訂し,諸大名に参勤交代を義務づけ,譜代・外様を問わず大名の格を万石以上と規定するとともに,将軍家の近習(きんじゆう)・物頭(ものがしら)を大名と同列として幕府政治の基礎を固めた。対外的には,長崎の直接掌握を果たした33年から36年にかけて貿易統制とキリシタン禁令を強化し,ついに日本人の海外往来を禁止,39年にはポルトガル船の来航を止め,41年長崎出島にオランダ商館を移して鎖国体制を完成した。37年の島原の乱はこれに大きな影響を及ぼしたが,同時に対百姓戦略の上でも全領主階級結集の必要を痛感させ,飢饉対策や,44年(正保1)の諸国郷村高帳(郷帳)・国絵図の作成,49年(慶安2)の慶安御触書などへと展開し,幕藩体制を国家的な統治体制として確立させた。死後,日光山に葬られる。夫人は鷹司信房の娘,中の丸と称した。
執筆者:朝尾 直弘
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(山本博文)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1604.7.17~51.4.20
江戸幕府3代将軍(在職1623.7.27~51.4.20)。2代将軍秀忠の次男(兄長丸は早世)。母は正室崇源院(お江与の方)。幼名竹千代。法号大猷院。乳母春日局に養育される。1620年(元和6)元服,23年将軍職を継ぐ。32年(寛永9)秀忠の死後に将軍政治を本格化,評定所寄合の定例化や老中月番制など江戸幕府の諸制度を整備した。朝幕関係では34年30万の大部隊による上洛で朝廷を威圧し,幕藩関係では諸国巡見使の派遣,参勤交代の制度化,改易・転封策による大名統制策をとる。キリシタン禁圧と島原の乱の鎮圧,沿海防備体制の構築を推進する一方で,琉球国王・オランダ商館長の江戸参府,朝鮮通信使来聘を3回実現するなど,幕府の権威を高めた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…徳川家光の乳母。お福ともいう。…
…江戸幕府の職名。幕府最高の職。定員は1名。常置の職ではない。老中の上に位置するが,日常的幕政に関与することは免除され,ごく重要な政策決定のみに関与した。官位は四位少将ないし三位中将で老中よりも高く,老中と同道のときは1,2歩先を歩き,江戸城内では総下座の礼を受けた。 3代将軍家光のとき,1638年(寛永15),酒井忠勝,土井利勝が任じられたのが最初とされるが,家康の将軍就任以前では,石川数正,酒井忠次,井伊直政など軍事的に有能な大身の武将が徳川家の宿老として内外から重視されていた。…
…江戸時代,日光東照宮に参詣すること。社参者には,日光例幣使,将軍,大名,旗本,御家人,一般の武士や農工商の庶民など,さまざまの身分階層にわたったが,御宮(東照宮)と大猷院(家光)御霊屋(おたまや)に拝礼を許されるのは旗本以上に限られ,御家人以下の身分の者は拝見が許されただけであった。江戸時代を通じて16度行われた将軍の社参は,4月17日(家康命日)の法要に集中しているが,莫大な費用と人手をともなうので,4代徳川家綱以降は8代吉宗,10代家治,12代家慶に各1回が記録されているにすぎない。…
…栃木県日光市山内にある徳川家康をまつる神社。1616年(元和2)4月17日家康が駿府城で没すると,遺言に基づき,幕府はその夜神式をもって駿河久能山に葬り,墓前に社殿を建てた。遺命により天海の主導で,一周忌を期し下野国都賀郡日光山に改葬することとなり,翌17年仏岩山南に本社,拝殿,本地堂以下が完成,神霊をうつして4月正遷宮の祭礼が行われ,朝廷から東照大権現の神号の宣命と正一位の神階を受けた。なお廟所奥院の木造宝塔は22年竣工した。…
…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…
…1670年(寛文10)完成。本書ははじめ羅山が徳川家光の命で1644年(正保1)から通史の編修に当たり,50年(慶安3)に神武朝から宇多朝までを完成して《本朝編年録》の書名で幕府に提出したが,明暦の大火で焼失した。62年修史継続の命が徳川家綱から羅山の子鵞峰に下り,64年から忍岡林邸内の国史館で作業が開始され,《本朝編年録》の稿本を復元校勘して正編とし,続編を林梅洞,林鳳岡,人見友元,坂井伯元らが分担起草し,鵞峰が統轄して完成し幕府に献上した。…
…1601年(慶長6)叔父で長沢松平家を継ぐ松平正綱の養子となる。04年徳川家光の小姓として近侍。20年(元和6)采地500石,信綱と改名。…
…老中が朝廷,寺社,諸大名など幕府外部の諸勢力を管轄することによって国政を担当したのに対して,若年寄は,旗本,御家人などを指揮,管理することにより,将軍家の家政機関としての幕府内部のことを掌握した。若年寄の職名と職掌は,3代将軍徳川家光の時代の六人衆に起源する。1632年(寛永9)大御所秀忠の死によって実質的に幕政を掌握した家光には,太田資宗,三浦正次,阿部重次,阿部忠秋,堀田正盛,松平信綱の六人衆と呼ばれた6人の出頭人(しゆつとうにん)が存在しており,彼らは旗本を統率して家光の身辺を護衛すると同時に,常時家光に近侍して諸事を取り次ぐ役割を果たしていた。…
※「徳川家光」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加