恵美須町(読み)えびすまち

日本歴史地名大系 「恵美須町」の解説

恵美須町
えびすまち

[現在地名]長崎市恵美須町・中町なかまち

長崎町の北部、岩原いわはら川右岸にある長崎そと町の一ヵ町で、船手に属した。恵美酒と記すことが多い。北は西中にしなか町に隣接した(享和二年長崎絵図)外下そとした町・築出つきだし町・浦築出うらつきだし町などが合併して成立したとされ(増補長崎略史)、浦築出町は岩原川河口部を埋立ててなった町という。慶長二年(一五九七)恵美須町衆が伊勢参宮に赴いているが、正保三年(一六四六)以降も伊勢参りがみられる(「御参宮人抜書」橋村家文書)。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「つき出町」の「あばんるひす」「うきミける」が署名している。寛永長崎港図に「下町通り」「築出町」「浦築出町」がみえる。当町名恵美須神社(釛山恵美須神社とも)を祀っていたことに由来するとされるが、寛永年間(一六二四―四四)わき郷に移ったという。

恵美須町
えびすまち

[現在地名]平戸市うお棚町たなちよう 恵比須町

平戸城の南西にあり、戸石といし川とさかい川に挟まれて立地する。北の善積ぜんつみ町、東の築地つきじ町方面と結ぶ二ヵ所の橋が架けられていた(元禄一〇年町方年鑑次第など)本町ほんちよう通六ヵ町の一つ魚の棚町に属する。築地の埋立以前は当町はかがみ浦の奥にあたり、海産物の荷揚げ場として賑いをみせた。町名は海上の漁および商いの守護神に由来するのであろう。町の西端はてらさかの入口に通じ、境目には朱印船貿易で富を得た小川理右衛門の居宅があったとされる。小川家は寛永一〇年(一六三三)の渡航禁止令の翌年に当地の戸石川といしがわ境に小川しようせん庵を設けて著名人を招いて交遊しているが、平戸藩の切支丹嫌疑事件に伴って検分に訪れた東海とうかい(現東京都品川区)の江月が寛永一六年これを旅寓としている。

恵美須町
えびすまち

[現在地名]上野市恵美須町

東はいけ町、西は日南ひなた町。古くはかや町といった。寛文(一六六一―七三)頃の絵図(上野市立図書館蔵)では、農人地はほとんどかや町と記されるが、それより古い寛永絵図(岡森明彦氏蔵)では、ひがしかや町・かや町と区別され、東かや町は池町、かや町は当町にあたる。蛭子ひるご町とも通称された。延宝(一六七三―八一)頃の戸数は五一(統集懐録)。元禄七年(一六九四)四月一七日茅町一二〇軒、池町八四軒類焼とある(永保記事略)

恵美須町
えびすちよう

[現在地名]萩市大字恵美須町

油屋あぶらや町の東に続く町人町。東は米屋こめや町、北は細工さいく町と塩屋しおや町、南は呉服ごふく町弐丁目とかわら町。西半部が一丁目、東半部が二丁目と二つの地域に分れる。

「萩諸町之旧記草案」は「往古恵美須を勧請し来て社建立せし由。依之如斯名付け市町立候由。然処に承応三午三月恵美須町出火にて右之祠類焼に及ひ、縁記・棟札等まて不残焼失して委曲不相知。其後市立たる事も中絶之由いひ伝へり」と記す。宝暦元年(一七五一)の萩大絵図別冊文書によれば町の長さ三八〇間、家数一五二、うち本軒五〇、店借一〇二でほかに蔵が六ヵ所あった。

恵美須町
えびすまち

[現在地名]宇和島市恵美須町一―二丁目

元禄一六年(一七〇三)七月の城下町絵図には、塩屋しおや町とある。東南は辰野たつの川、西は海、北は御旗おはた(御足軽町)、東北部には水田が広がっている。海岸の一角に恵美須社があったので、恵美須町とよばれるようになった。辰野たつの川の北西部、城下の外にできた町ははじめ新町しんまちとよばれ、しだいに塩屋しおや町・足軽あしがる町・船大工ふなだいく町に分化したと考えられる。塩屋町には塩問屋があり、商札をもって商売する在方商人も多かった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報