翻訳|tragedy
劇のジャンルの一種。ヨーロッパ演劇では喜劇と並んで最も基本的なジャンルである。明確な定義は困難であるが,おおむね通常の感覚が悲惨とみなす事件を扱い,喜劇がいわゆるハッピーエンドをもつのに対して,悲劇は主人公の破滅,多くは死によって終わる。〈悲劇は死で,喜劇は結婚で終わる〉という言葉があるが,結婚とは新しい生命の誕生を予想させる事件であるから,悲劇は人間存在を終りの相で,喜劇は始まりの相でとらえ,それぞれにおいて生命の根源に触れることがもたらす感動を伝えようとするものだといえる。喜劇は滑稽な事件や人物を扱い,観客を笑わせるから,観客は劇の世界に対して距離を保つことになるが,悲劇はまじめさを尊重し,観客を劇の世界に巻き込む。他方,喜劇の登場人物は庶民が主であるのに対し,悲劇の場合は,少なくとも近代以前は,王侯貴族や英雄であるのが普通であった。つまり,喜劇は一般観客がみずからと同一視できる階層の人物を,心理的距離を置かざるをえない状況でとらえるのに対して,悲劇は一般観客とかけ離れた階層の人物を,心理的距離を置きえない状況でとらえるのである。ただし,これらの定義が当てはまらない作品はいくつもあり,たとえばエウリピデスの悲劇のあるもののように幸福な結末をもつものや,シェークスピアの多くの悲劇のように滑稽な場面や人物を含むものがある。喜劇的要素がとくに顕著である場合,その作品は悲喜劇tragicomedyと呼ばれることがあるが,個々の作品についてそれが悲劇であるか悲喜劇であるかを区別することは,実際にはきわめて困難である。
悲劇という日本語は英語のtragedy,ドイツ語のTragödie,フランス語のtragédieなどの訳語として明治時代に生まれた。これらの言葉の語源は〈ヤギの歌〉を意味するギリシア語tragōidiaである。これがなぜ悲劇を意味するようになったかは必ずしもはっきりしない。古代ギリシアのディオニュシア祭においてディオニュソスをはじめとする神々をたたえる歌が歌われたが,これが対話形式をとるに及んで悲劇が生まれたとする説がある。この歌を歌う合唱隊がヤギの扮装をしていたという事実によって語源を説明しようとする学者もいる。他方,ディオニュシア祭の行事の一つであった悲劇の競演で,その優勝作品に賞として元来はヤギが与えられたという事実をもち出す学者もいる。いずれにせよ,悲劇の競演は前5世紀のアテナイでは,市民全員が参加する公共的行事としてのディオニュシア祭の一部として確立していた。したがって,これはもともと高度の祭式性を帯びていたはずであり,祭式そのものが演劇の起源であると考える学者もいる。一部の文化人類学者は,秩序の混乱,主人公の苦難と死,秩序の回復という,多くの悲劇に認められる物語の型を,ディオニュソス神の死と再生の過程に,さらには,冬に滅びた生命が春になって復活するという過程に,重ね合わせている。ディオニュシアの名で呼ばれる祭典はアテナイ市内で1年に2度催されたが,新作悲劇の上演はほとんどすべて,春の到来を祝う祭である〈大ディオニュシア〉(3月末ころ)において行われたから,この説には確かにある程度の説得力がある。
この祭りの一部としての悲劇の上演は,現代の演劇と違って単なる娯楽ではなく,強固な共同体意識に支えられた政治的・宗教的行事でもあった。事実,当時の悲劇の大半が扱うのは作者がまったく新たに創作した物語でも同時代の物語でもなく,観客が熟知しているギリシア神話やホメロスの叙事詩の物語であった。王や英雄が人間を超えた存在の意志としての神託や運命に立ち向かい,苦しんだり破滅したりするのを見ることによって,観客は共同体がもつ信仰を最終的には再確認したと考えられる。悲劇を厳密に定義しようとする人は,アイスキュロスやソフォクレスの作品を典型とする真の悲劇は,近代以後,しだいに成立しにくくなったと説くが,それは,近代人が古代ギリシア人のもっていた共同体意識を失い,共同体の成員がひとしく存在を認める超人的絶対者への信仰をもたなくなったからだと考えられる。ただし,この信仰に対して何の疑いもさしはさまれないうちは,悲劇は生まれないであろう。人間の行動の最終的な意味づけを絶対者の判断にゆだねるような世界観は,悲劇にはなじまない。悲劇とは,人間が絶対者の意志を究極的には受け入れるとしても,まずみずからの意志を働かせて己の行動に意味づけを施そうとするときに生まれるものである。ギリシア古典悲劇が成立したのは,既存の世界観が何ほどか揺らぎながら,なお権威を保っていた,緊張に富む時代であった。ギリシア悲劇についてもう一つ強調しなければならないのは,著しい様式性である。いずれも韻文で書かれている。また劇の上演は歌唱や踊りを含んでいたと推定される。それは近代以後の散文劇とはまったく異質の,非日常的劇形式だったのである。
これらの悲劇を具体的に論じたアリストテレスの《詩学》は,世界最初の悲劇論であり,またその後の悲劇観に決定的な影響を及ぼした著作である。この中で著者は,悲劇とは厳粛で,ある大きさをもった一つの完結した行動を模倣するもので,憐憫(れんびん)と恐怖という感情を起こす事件を含み,この事件を通じてこれらの感情の浄化(カタルシス)を達成するという趣旨のことを述べている。また,悲劇は,ある人物がみずからの状況について無知なために過ちを犯すことによって生まれ,劇の状況が逆方向へ変化する〈急転peripeteia〉と,みずからの状況について無知であった人物が認識を獲得して,その結果としてそれまでと異なる感情を抱くに至る〈発見anagnōrisis〉とによって,解決に達するという意味のことも語っている。これらの用語についてはその後さまざまな解釈がなされてきた。とくにカタルシスの意味については多くの意見がある。みずからそれとは知らずに父を殺し,母と結婚し,やがてすべてを知るオイディプスの物語《オイディプス王》(ソフォクレス作)は,しばしばギリシア悲劇の典型とみなされるが,アリストテレスはこの作品において,主人公が実の両親だと思いこんでいた人物がそうではないことを告げられるくだりに〈急転〉を見てとっている。すべてを知るという意味でここでは〈発見〉も起こるが,このように,優れた〈発見〉は〈急転〉を伴うと,アリストテレスは説く。彼は《オイディプス王》の物語を聞くだけでわれわれは憐憫と恐怖を味わうと言うが,〈カタルシス〉については語っていない。《オイディプス王》を見る者は,そのことによってこれらの感情を放出し,精神が浄化されるのだとするのが,一般的な解釈のようである。
中世のヨーロッパには本格的な悲劇はなかった。当時は職業俳優が劇場で演じる劇がなかったのだから,本格的な喜劇もなかったのだが,とくに悲劇については,キリスト教が著しい権威をもっていたことに関係があると思われる。ギリシア悲劇の場合に見たように,悲劇が成立するためには,超人的絶対者の存在が基本的には受け入れられていながら,同時にこの存在のもつ意味が疑問の対象になり,それを解くことに人々が挑戦するという,緊張した状況がなければならない。したがって,本格的悲劇が復活するには,キリスト教の世界観がなお権威をもちながら,もはやそれは絶対的とはい言えないという,ルネサンス期を待たねばならなかった。たとえば16世紀末から17世紀前半にかけてのイギリスでは,シェークスピアを頂点とする作家たちが優れた悲劇を発表した。ただし,それらはギリシア劇よりもローマのセネカの作品の影響を受けており,絶対者についての意識を欠くという意味で,悲劇よりも惨劇という言葉が当てはまる場合もある。作品の構造は法則に縛られず,内容においても喜劇的要素を含む場合が多い。観客は劇の主人公の状況について主人公自身よりも優れた認識をもち,主人公を距離をおいて眺めることがよくある。主人公は十分な英雄性を保ちえないのであり,こういう作品を真正の悲劇と呼ぶことには問題があるかもしれない。他方,カルデロン・デ・ラ・バルカなどが活躍した17世紀のスペインでも悲劇的な作品が多く生まれたが,それらはおおむねキリスト教(カトリック)の世界観を正面から肯定する,教訓的なものであった。
ルネサンス以後で最も真正な悲劇が生まれた国はフランスである。ルネサンスの主としてイタリアの批評家たちはアリストテレスの《詩学》を研究してそれを悲劇創造の掟とみなすに至り,〈三統一〉の規則をまとめ上げた。それによれば,すべて悲劇は一つの場所で24時間以内に起こる単一の事件(筋)を扱わねばならないという。アリストテレスは時間の制限と事件の単一性には言及しているが,場所のことは何も言っておらず,こういう規則を念頭に置いていたとはとても考えられない。しかし,三統一は大きな影響力をもつようになり,P.コルネイユとJ.ラシーヌの作品に代表される17世紀フランスの〈古典悲劇〉の規範となった。フランス古典悲劇はギリシア悲劇の再現をねらい,ギリシア神話の物語を扱ったり,それに類似した英雄的世界を舞台にしたりしたが,当時の観客にとっては,ギリシア悲劇を支えていた神話や共同体意識はもはや過去のものであった。つまり,悲劇的修辞に肉づけを与えるものが欠けていたのである。このことはフランス古典悲劇を模した17世紀後半のイギリスの王政復古期悲劇についてはいっそう顕著である。これは英雄悲劇とも呼ばれ,英雄的な主人公がおおむね愛と名誉との対立に悩んで,苦しい選択を迫られるというものである。この私的原理と公的原理との間の選択という基本状況はフランス古典悲劇にも認められるが,ここでは選択はもはや人間の意志にゆだねられており,超人的絶対者の意志は消えている。ここに悲劇の崩壊の萌芽が認められる。
G.リロの《ロンドンの商人》(1731初演)は,イギリス演劇史では画期的な作品であった。これは貴族や英雄ではなくてブルジョアを主人公とし,韻文ではなくて散文のせりふを多く含みながら,悲劇と銘打たれていたからである。つまり,一般観客が同一視できる階層の人物の事件を,一般観客が日常生活で用いているのと本質において同じ言葉でつづった悲劇が生まれたのだ。これは社会の実権が市民階級に移り,劇場の観客に市民が占める割合が高まってもいたことの反映であったが,古典悲劇の定義からすれば明らかに受け入れがたいことであった。リロの作品はドイツのG.E.レッシングなどの模倣者を生み,ヨーロッパ大陸でも同種の作品が書かれるようになった。これが〈市民悲劇〉(市民劇)である。ゲーテやシラーも悲劇と呼ばれるものを創作したが,それらはこの2人の先輩に当たるレッシングなどの市民悲劇に近いものであり,古典悲劇とは異なる。市民悲劇よりもさらに小規模の事件を扱うと〈家庭悲劇〉になる。悲劇的葛藤は親子の対立とか恋愛のもつれとかといった純粋に私的なものとなる。かつての英雄悲劇も形式的には同種の葛藤を扱っていたが,ただこの場合,主人公による選択は単に主人公個人でなく国家全体の将来をも左右する可能性をもっていた。今や悲劇は絶対的存在の意識はもちろん,公的世界の意識をもぬきにして,悲惨な事件を扱うだけのものとなったのである。このことは19世紀に流行したメロドラマについても指摘できる。
20世紀に入ると,古典的悲劇はほとんど見られなくなるが,この現象と重要なかかわりをもつのはブレヒトの演劇観である。彼の〈叙事演劇〉の理論によると,観客は主人公と一体になったり劇の世界に巻き込まれたりすることなく,知的にさめた目で劇の進行の過程を眺めねばならないという。これは悲劇を支えているのとはまったく逆の考え方である。他方,ベケットなどいわゆる〈不条理劇〉の作家は,人間にはまったく理解できない,しかも絶対者の存在をそれと意識することもできない世界を,とり上げている。ここでは,人間と対立している存在がとらえられないから,やはり悲劇は成立しない。もちろん,悲劇を再生させようという試みは現代においてもなされており,たとえばE.G.オニール,T.S.エリオット,J.ジロードゥー,J.アヌイなどはギリシア神話を下敷きにした作品を書いているが,それらが悲劇的感動を誘うかどうかは相当に疑わしい。なぜなら,ヨーロッパ人にとってもギリシア神話はもはや知的に把握するものにすぎないのであり,往時のギリシア人に対してそれがもっていた切実さも,神話の根底にあったに違いない共同体意識も,消えてしまっているからである。他方,19世紀のイプセンや現代のA.ミラーのように,平凡な人物を主人公にしてまじめな劇を書いた作家もいるが,この場合も観客がいっさい批判なしに劇の世界に巻き込まれるとは考えられない。主人公の破滅が唯一で不可避の選択の結果であるとは必ずしも考えられないからである。悲劇が成立するためには,人間の行動の意味を最終的に判断する絶対者の視点が意識され,しかもそういう絶対者の存在がある大きさをもった共同体によって受け入れられ,そのうえで,この存在の判断に疑問を呈することの正当性が認められていなければならないであろう。今日においては,そういう絶対者の存在を肯定する世界観は広く受け入れられないから,真正の悲劇は生まれなくなったと考えるべきである。ただ,悲劇という言葉は現実の悲惨を形容する比喩として今日も広く用いられる。
ヨーロッパの伝統的な悲劇観をよりどころにするなら,日本に悲劇があったとはい言いがたい。それは一つには,日本の伝統演劇が語り物としての側面を濃厚にもっているからである。このことは人形浄瑠璃はもちろん,歌舞伎や能についても指摘できる。扱われている事件は語り手の視点を通じてとらえられているのであり,語り手は劇の世界についての最終的な解釈を提示する。もちろん,能は滑稽感をほぼ完全に排除し,しばしば貴人や英雄の苦悩を描くという意味で,きわめて悲劇的な味わいをもった演劇ではある。しかし,能においては物語の展開が最も中心的な要素であるとはいえず,様式的な舞が大きな魅力となっていることから見ても,観客に現実世界を離れた高揚感を体験させることを目的とした,高度に祭式的な芸能であると考えるべきである。その根底にあるのは,絶対的権威をもったものとしての仏教の世界観であり,主人公が対立する複数の行動原理の間で選択を迫られたり,超人的な存在に挑戦したりすることはない。
これに対して,人形浄瑠璃や歌舞伎ははるかに現実的で世俗的な世界を描き,祭式性よりも物語性を重んじている。また,登場人物もみずからの全存在を賭けて行動を選択することが少なくない。この場合,主人公の前に立ちはだかる対立した行動原理は,近松門左衛門の作品に典型的に表れているように,義理と人情とである。義理とは社会的存在としての人間が他者との関係において従うことを要求される原理であり,人情とは個としての人間が実現したいと欲する原理であると考えるなら,義理と人情との対立は公的原理と私的原理との対立にほかならない。つまり,近松をはじめとする浄瑠璃や歌舞伎の作者が劇的葛藤の契機としたものは,17世紀のフランス古典悲劇やイギリス王政復古期の英雄悲劇の根底にあったものと本質においては変わらないことになる。主人公は,たとえば主君への忠義という公的原理を選択するために,愛する肉親に生命を捨てさせたり恋人との結婚をあきらめたりするといったかたちで私的原理を犠牲にする。すなわち,主人公は最も耐えがたいかたちの苦痛を体験する。逆に,私的原理を優先させて公的原理にもとった場合には,たとえば切腹というかたちで両者の対立を解消させる。これらが時代物の物語の基本的構造である。他方,世話物においては,いわゆる〈不義理〉な行動の償いとして自殺(とりわけ心中)という行動を選んだり,逆に義理を立てて愛する者との別離に耐えたりするというのが,物語の基本的な型になる。どちらも悲劇の一般的法則にかなっている。ただ,近代以後のヨーロッパの悲劇と同じく,人間を超えた絶対者についての意識は希薄である。これらの悲劇はあくまでも人間界の事件をめぐって成立するのである。
このことは,明治以後の日本の悲劇の代表である〈新派悲劇〉についてはいっそう明白である。19世紀のヨーロッパの感傷的なメロドラマの場合と同じく,悲劇の契機となる対立や葛藤は,おおむね狭い視野におさめられており,私的原理と矛盾する公的原理は,国家や民族への忠節といった大規模なものではなくて,家庭や恩人への忠節といった小規模なものであるのが普通である。すなわち新派悲劇は,悲劇と呼ばれてはいても,実際には,崇高なものに触れた感動を誘いはしない。一方,ヨーロッパの演劇観の紹介に伴って,ヨーロッパ古典悲劇を模した作品を生む試みもなされてはきたが,現代においてはヨーロッパと同じく,真正の悲劇は書かれていないと言わざるをえないのである。
→ギリシア演劇 →古典主義
執筆者:喜志 哲雄
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トラジディtragedy(英語)、トラジェディtragédie(フランス語)、トラウアシュピールTrauerspiel(ドイツ語)などの訳語。古代ギリシアの悲劇トラゴイディアtragoidíaが起源。この語は、山羊(やぎ)の意のトラゴスtragosの語幹と歌の意のオイデoideが合体したことばで、その由来は、〔1〕山羊が生贄(いけにえ)にされた、〔2〕山羊が競演の賞品であった、〔3〕発生時の舞唱団は山羊の扮装(ふんそう)をしていた、などの諸説があり、確定されない。アリストテレスの『詩学』によれば、トラゴイディアは、神や英雄を賛歌する舞唱形式「ディティランボス」を源とし、そこから俳優が成立してその数を3人まで増やし、主題上はホメロスの叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』に負うという。20世紀初めに、ニーチェの『悲劇の誕生』の影響下に、「年の霊」であるディオニソス神の受苦と再生の祭事がギリシア悲劇の母胎であったとする説が出され、確証はないという反論もなされたが、今日も「祭式=悲劇」説は広く唱えられている。
[毛利三彌]
アリストテレスは『詩学』で、悲劇は歴史より哲学的であり、われわれの周りの人間より優れた人物を登場させ、恐怖と哀れみを惹起(じゃっき)してカタルシス(感情の浄化)を達成すると規定した。アリストテレスは結末が不幸に終わるのをよしとはしたが、悲劇に必須(ひっす)とは考えていない。事実、ギリシア悲劇でめでたく終わる作品は少なくない。
しかしルネサンス以降、悲劇は王侯貴族の物語で、主人公の不幸(死)で終わり、知より情に訴える荘重な劇、崇高な劇といった卑俗な規定が一般的となる。また、『詩学』で奨励された筋の単一性に加えて、事件は1日以内のこと、場所は一定たるべしという、三一致(三統一、三単一)の法則が、アリストテレスの見解として誤って信じられ、とくにフランスで絶対視された。
しかし18世紀には庶民の悲劇も書かれだし、悲劇概念の混乱が始まる。18世紀末のロマン主義は、非法則的なシェークスピアを模範と仰いだ。ヘーゲルはその『美学講義』で、同等に正当な二つの対立原理の衝突を悲劇の基盤と規定し、国家原理と血族原理の対立を主題とするソフォクレスの『アンティゴネ』を最高の悲劇としている。その後、危機、緊張などを悲劇の源泉とする説なども出され、また、演劇以外の文学ジャンルに悲劇的な世界観の表現をみることも一般的となっている。メルビルの『白鯨』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』などである。悲劇観には形式論以外に、苦悩を通して人生価値を悟るとか、世界崩壊のかなたに救済を予測するとかいった理想主義的な論と、現実世界の不合理性を直視するという現実主義的な論とともに、自己の生をあえて身に引き受けてゆく実存主義的悲劇観もある。
[毛利三彌]
運命悲劇と性格悲劇の区別がよくなされるが、便宜的なものにすぎない。たとえば、ソフォクレスの『オイディプス王』は、無実のオイディプスが運命にもてあそばれる劇とみれば運命悲劇であり、彼の傲慢(ごうまん)な言動に没落の原因をみれば性格悲劇となる。近代の庶民が主人公となるものは市民悲劇、親子や夫婦関係など家庭内の問題を扱うものには家庭悲劇の名称も使われる。単に涙を誘うだけの悲劇を今日ではメロドラマとよんでおとしめる場合もある。今日は、喜劇に対置される用語として、「真面目な劇」serious dramaの名称が一般的になっている。
[毛利三彌]
西洋演劇の歴史は古代ギリシアのアテナイ(アテネ)に始まるが、最初の俳優とされる紀元前6世紀のテスピスは悲劇作家でもあった。むろん作品は残らない。作品が現存するのはアイスキロス、ソフォクレス、エウリピデスのみで、ともに前5世紀の詩人。彼らによって悲劇は歴史が始まってまもなく最高峰に達してしまった。ローマ期で作品が残るのはセネカ(前4~後65)のみだが、ギリシア悲劇の翻案に近く、朗読用だったともされる。
中世宗教劇は本質的に悲劇性をもたず、16世紀末イギリスにシェークスピアが登場して悲劇の歴史は二つ目の峰を形づくる。この土壌をつくったのは、クリストファ・マーロウ、トマス・キッドらの、古典の伝統を意識しない独自の悲劇である。逆に古典劇に範を求めて別の峰に達したのが、17世紀なかばに演劇が開花したフランスのコルネイユとラシーヌである。彼らは三一致の法則を重んじる風潮のなかでフランス古典主義悲劇を確立した(近年は17世紀の芸術全般をバロック芸術と想定する場合があり、そのときはフランス古典主義演劇が、様式上反対概念であるはずのバロックの名でよばれもする)。18世紀から、悲劇概念の崩壊とともにメロドラマ、センチメンタル・ドラマの流行をみるが、ドイツのレッシング、ゲーテ、シラー、クライストらが近代の新しい悲劇の可能性を探求する。そこにヘッベルの『マリア・マグダレーナ』(1846)に代表される19世紀の市民悲劇がつながり、イプセン、ストリンドベリらの「自然主義悲劇」へと続く。しかしこれら2人には、純粋の悲劇性よりも悲喜劇的傾向がうかがわれ、チェーホフに至って、それはいっそうはっきりする。また、散文が通常の表現手段となった近代悲劇に、韻文で書かれた古典悲劇の荘重さは求むべくもない。近代の合理思想は世界の神秘性に対するわれわれの感覚を消滅させ、神の喪失が価値基準の混乱を結果させたために、本来の悲劇は不可能になったとする考えもある。
[毛利三彌]
西洋の、王侯貴族を主人公とした荘重な劇という悲劇規定に合致するのは、能の修羅物や女物の妄執劇とか、人形浄瑠璃(じょうるり)や歌舞伎(かぶき)の時代物であろう。近松の心中物などはさしずめ市民悲劇の範疇(はんちゅう)に入るだろうし、幕末の歌舞伎で好まれた殺し場を中心にした生世話(きぜわ)物も、どちらかといえば悲劇とみられるかもしれない。しかし日本の文芸伝統では、人生の苦悩や死を叙情的に美化することが主であり、そこから新しい世界像をかいまみさせるだけの思想性と先見性をもつ場合はほとんどない。強烈な個性をもつ人物はいても、その行動を発展させる筋立ての思考にも欠ける。もし、義理と人情ゆえに心中する男女を描く近松の作品に叙情的表現以上の思想性と悲劇的世界観を探ることができるとすれば、それは今後の課題である。明治以後も、新派悲劇とよばれる「お涙頂戴(ちょうだい)」劇が中心を占めるのは、日本人は国民性として真の原理的対立を好まず、現実を直視せずに互いに甘えをよしとする性向をもつからだとも考えられよう。西洋の悲劇はいわば「ドラマ」の本質を明示するものであり、日本にこうした悲劇がなかったことは、彼我の演劇観の相違を示唆するものであるといえる。
[毛利三彌]
『C・ブルックス著、大場建治他訳『悲劇の系譜――ソポクレスからエリオットまで』(1981・至誠堂)』▽『E・ダウデン著、入江和生訳『悲劇論』(『シェイクスピア論シリーズ8』1979・荒竹出版)』▽『塚崎進著『悲劇文学の誕生』(1983・桜楓社)』
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…ともあれそのような文学理念としての古典主義の特長は,均整のとれた隙のない構成と,品位ある明解な言葉と,典型的な主題・状況・人物設定によって人間の普遍的な真実の表現を目ざすものだと,一応は言っておくことができる。
[フランス古典主義文学の成立と展開]
ヨーロッパの文学において,古典主義が一国の文化の精髄を表すとみなされるほどの力と完成に達したのは17世紀フランスをおいてなく,しかもその代表的なジャンルは劇文学,しかも悲劇であった。確かにスペイン黄金時代の劇作家ローペ・デ・ベガやカルデロン・デ・ラ・バルカにも古典主義的要素は認められるし,イギリスでは,B.ジョンソンを先駆とし,J.ドライデンによる古典主義的詩法の確立を介して,18世紀に至りA.ポープを中心とする〈オーガスタン時代〉の出現を見る(ホラティウスにならう風刺詩,書簡詩など)。…
…とくに〈町民劇〉とも訳される。 18世紀前半までは,多くの戯曲はギリシア・ローマ古典劇の方法にのっとって作られており,悲劇の主人公は,神話的人物,王侯,歴史的な大人物に限られ,普通の市民の登場する演劇はすべて喜劇であった。アリストテレスの《詩学》では,悲劇の主人公が偉大な人物でなければならないのは,破滅の際の落下の距離が大きい方が,悲劇的な効果も大きいからと説明している。…
…祭祀のなかで,人間は願望,畏敬,感謝,諦念など,世界に対する一定の態度をとるのであるが,この態度は演劇のなかにもひきつがれて,それが特定の演劇の方法論と結びついたとみることができる。演劇には古くから悲劇,喜劇という二分法があり,今日もなお強く生き残っているが,これは,劇の形式的な分類であるとともに内容上の区別であり,劇作法の種類でありながら,同時に人間の人生観の違いに結びつけられている。そのことから,悲劇的,喜劇的という形容詞は,人生上の事件そのもの,人間の生き方そのものに転用されるが,これは他の芸術分野のジャンル名にはみられない現象だといえる。…
…しばしば日本でもそのままトラジコメディとよばれる。悲劇的要素と喜劇的要素が入り混じってあらわれるために,伝統的な悲劇,喜劇の定義にはあてはまらない作品をいう。最初にこのいい方を使ったのは,古代ローマの劇作家プラウトゥスで,自作の《アンフィトルオ》の第50行から63行にかけて,古代ギリシア演劇以来伝統的に悲劇の主人公に定められている神々や王侯と,喜劇の主人公に定められた奴隷とがともにあらわれるため,粗野な喜劇と崇高な悲劇との混淆型が生まれると述べている。…
…なお,16世紀後半の宗教戦争の激化の中で,絶対王権への共同幻想を結晶させる役割を果たすのはイタリア起源の〈宮廷バレエ〉であり(1581年の《王妃の演劇的バレエ》に始まる),それはのちにルイ14世によるベルサイユ宮における《魔法の島の楽しみLes plaisirs de l’ile enchantée》(1664)を頂点とする,古代神話の衣装をまとった絶対王権顕揚の世俗的大祝典劇を生む。キリスト教の典礼や物語にのっとった宗教劇は,バロック時代の劇作や,J.deロトルー《聖ジュネスト》,コルネイユ《ポリュクト》あるいはラシーヌ晩年の2悲劇の例はあるものの,以後は19世紀末のP.クローデルの出現まで姿を消す。 中世ゴシック都市における大聖史劇上演には,同時代の他の舞台表現,すなわち〈阿呆劇(ソティsottie,sotie)〉〈教訓劇(道徳劇)moralité〉〈笑劇farce〉などもプログラムに組み込まれることが多かった。…
※「悲劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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