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奈良・平安時代に,身寄りのない貧窮の病人や孤児などを収容した公設の救護施設。723年(養老7)奈良の興福寺に施薬院(せやくいん)とともに設けられたのが初見で,その後諸大寺にも設けられ,730年(天平2)光明皇后によって皇后職に悲田,施薬の両院制が公設され,奈良・平安時代を通じ救療施設の中心となった。仏教の博愛慈恵の思想にもとづいてはいるが,唐の開元の制度に倣った施設で,悲田院の名称も唐制の踏襲である。平安京にも引き続き継承され,一条の北と鴨川西畔の東西2ヵ所に設けられ,天皇が義倉物をしばしば支給していることが記録にみえる。施薬院の管轄下にあって,悲田院に収容された者を施薬院から巡回してきて施薬した。平安中期には衰微に向かい,末期には両院とも荒廃した。1213年(建保1)には西悲田院の建物が焼失し,東のそれも泉涌寺内に移って乞食の住みかとなってしまった。
執筆者:宗田 一
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身寄りのない貧窮の病人や孤老を収容する救護施設。「悲田」とは慈悲の心で哀れむべき貧窮病者などに施せば福を生み出す田となるの意。聖徳太子が四天王寺に建てたと伝えるが、723年(養老7)興福寺に施薬院とともに建てたのが初見。光明(こうみょう)皇后もまた施薬・悲田の二院を設けている。平安京には左・右京に官営の悲田院が置かれ、京中の病者・孤児などを収容した。833年(天長10)武蔵(むさし)の国司が行旅の飢病者を救うために置いた「悲田処」は布施屋に近い。京の悲田院は、室町時代のころまで左京の一所(鴨(かも)川の西)が残った。民間の慈善事業として、鎌倉時代に忍性(にんしょう)が各地に悲田院などを設けたのが有名。
[中井真孝]
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寺院などに付属して,孤児や病者・貧窮者を収容・救済した施設。仏教の福田(ふくでん)思想にもとづく。聖徳太子が四天王寺に設置したとも伝えられ,興福寺にもおかれていた。730年(天平2)光明(こうみょう)皇后は皇后宮職に施薬院を設けたが,同じ頃悲田院もおかれたらしい。これを継承して平安時代には施薬院別院として東西悲田院があり,貧窮者を救済するとともに京内の死体埋葬などを行った。預僧・預・乳母などの職員がおり,運営には藤原氏の封戸があてられた。
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…慈善事業生活保護【小沼 正】
[中国]
19世紀半ばまでの旧中国では,儒教の経典《礼記(らいき)》の王制篇などの理念に基づき,身寄りのない矜(やもめ),寡婦,孤児,老人,廃疾者などを為政者が仁愛をもって救済すべきであるとされ,その政策を卹政(じゆつせい)と呼び,個人がそれを行えば義挙と賞揚された。血縁,地縁共同体の残存度の強い唐代前半までは,貧民の救済はまず近親,ついで郷里の者に強制され,国都長安などの大都市では悲田院(福田院)や病坊などの施設が作られてはいたが,仏教を中心とする宗教的慈善事業の色彩が濃厚であった。宋代に入って都市が発達し,貧しい人たちがそこに集まりはじめると,政府も本格的な救貧政策に取り組んだ。…
… つぎに仏教に関心の深かった光明皇后の活動も著名である。施薬院や悲田院の設置は藤原氏の氏寺であった興福寺に置かれた先例があるが,光明子が皇后宮職にそれらを設置した意義は注目され,のちに孝謙女帝も興福寺の施薬院を財政面で援助し,弘仁年間(810‐824)には淳和天皇の皇后正子内親王が病気の僧尼のための済治院や癩病患者専門の不譲化身院を嵯峨の大覚寺に設けた。その他個人で孤児や貧農の救済を行う者などいくつもの活動例があるが,藤原氏の一族のみの救済を目的として大臣が財源を提供したり施設を建て,その運営を施薬院等にゆだねている例や,私財による救済活動を行った豪族の中には位階の取得を目的とした者も考えられることなど,問題を含んだものも少なくない。…
…田に種子をまくと収穫があるように,仏,僧,父母,貧窮者などに布施すると,未来に功徳が得られるとして,布施する対象を福田といった。三福田(敬田,恩田,悲田)とか八福田など,その数え方はさまざまであるが,なかでも重要なのは,苦しみ悩む者(悲田)の救済事業であって,悲田養病坊,悲田院などが設けられた。また橋の建設,義井の開掘など諸種の社会事業も,この思想に基づいている。…
※「悲田院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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