愛媛(読み)エヒメ

デジタル大辞泉 「愛媛」の意味・読み・例文・類語

えひめ【愛媛】

四国地方北西部の県。もとの伊予いよにあたる。県庁所在地松山市。名は、古事記に「伊予国愛比売えひめひ」とあるところによる。人口143.1万(2010)。

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精選版 日本国語大辞典 「愛媛」の意味・読み・例文・類語

えひめ【愛媛】

[一] 「古事記」の国生み神話で、伊邪那岐、伊邪那美二神の生んだ伊予之二名島(四国)のうち、伊予国(愛媛県)につけられた人格的名称。愛比売。
※古事記(712)上「故(かれ)、伊予国(いよのくに)は愛比売(エヒメ)と謂(い)ひ」
[二] 「えひめけん(愛媛県)」の略。

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改訂新版 世界大百科事典 「愛媛」の意味・わかりやすい解説

愛媛[県] (えひめ)

基本情報
面積=5677.38km2(全国26位) 
人口(2010)=143万1493人(全国26位) 
人口密度(2010)=252.1人/km2(全国26位) 
市町村(2011.10)=11市9町0村 
県庁所在地=松山市(人口=51万7231人) 
県花=ミカン 
県木=マツ 
県鳥=コマドリ

四国の北西部を占める県。県域は北東~南西に長く,北は瀬戸内海,西は豊後水道に面する。

愛媛県の範囲はかつての伊予一国からなり,近世には宇和島藩,吉田藩,大洲藩,新谷(にいや)藩,松山藩,今治藩,西条藩,小松藩の8藩と天領(松山藩預所)に分かれていた。明治維新後,旧天領は倉敷県ついで丸亀県に編入され,廃藩置県を経て宇和島,吉田,大洲,新谷の4県は宇和島県(のち神山県)に,松山,今治,西条,小松の4県と天領は松山県(のち石鉄(せきてつ)県)に合併した。1873年(明治6)両者が合併して愛媛県が成立し県庁を松山に置いたが,76年香川県を合併し,88年再び分離して現在の県域となった。県名は伊予国の女神愛比売にちなんでつけられた。

愛媛県沖の瀬戸内海でもナウマンゾウの化石が引き上げられており,また島嶼部を中心に先土器時代の石器が発見されていて,洪積世の大型動物を追う人々が本県にも生活していたことは明らかであるが,そのようすはまだあまり明確にされているわけではない。四国山地の脊梁部,土佐湾に注ぐ仁淀川の上流,久万川の河岸段丘にある上黒岩岩陰遺跡(上浮穴郡久万高原町)は縄文草創期から早期にかけての良好な文化層をもつ重要な遺跡である。すなわち,この岩陰の最下文化層,炭素14法による年代で12165±600B.P.という第Ⅸ層では尖頭器類などの石器と細隆起線文土器,それに緑泥片岩に女性像を彫った線刻礫が出土し,上層の第Ⅳ層では縄文早期中葉の押型文土器,有孔篦状骨器の刺さった男性の腰部の骨を含む20体以上の人骨などが出土している。縄文前・中期はあまり多くないが,後期に入ると遺跡の数も増し,遺物も多彩になる。なかでも平城(ひらじよう)貝塚(南宇和郡愛南町)は後期中葉の代表的遺跡である。土器は磨消縄文手法で飾られるなど,北九州の鐘ヶ崎式に酷似していて,かなり広い地域間の交流がうかがえる。また岩谷遺跡(北宇和郡鬼北町)は環状列石や石組みをもつこの期の祭祀遺跡である。晩期では,船ヶ谷遺跡(松山市)で大量の土器のほか土偶や木偶,朱漆塗の木器などが出土していて注目される。

 弥生文化では前期の凸帯文土器をおもに出土する阿方(あがた)貝塚(今治市)が古くから知られている。この時期に人々はすでに台地末端に定住し採集・狩猟を主としつつも湿地を利用しての稲作も開始したらしい。総合運動公園遺跡(松山市)ではこの期の土壙墓,壺棺墓などが調査されている。中期では土居窪(どいくぼ)遺跡(松山市)の農耕地跡が重要。土器はもちろん,多数の木器類が出土した。後期には,水田耕作の定着発展につれ,集落も標高を下げ,平野の微高地などに発展するに至る。

 古照(こでら)遺跡(松山市)は4世紀ごろの大規模な井堰遺構で,当時の水利技術の高さを示すばかりでなく,転用されていた建築用材から当時の家屋様式の復元に貴重な資料を提供した。

 古墳時代では,相の谷古墳群中,前期の相の谷1号墳(今治市)が全長82mで,県下最大の前方後円墳。竪穴式石室で舶載鐘,刀剣,鉄斧,鉇(やりがんな)などをもち,5世紀末から6世紀初頭。古墳はおもに今治,松山の平野周辺に分布する。弥生時代以後の生産力の発展に基づく経済基盤を手に入れた豪族たちの墓であろう。後期に入ると墳丘は小さくなり,横穴式石室の群集墳が広く分布する。
伊予国

県内には西日本最高峰の石鎚山(1982m)をはじめ高峻な山が多く,総面積の7割が山地である。しかも,四国山地が北に偏って瀬戸内海側に中央構造線が東西に走っていることから,平野は少なく,おもなものは松山平野今治平野新居浜平野の三つにすぎない。このような地形から四国の大河川の上流域の多くが愛媛県内にある。吉野川の支流銅山川は,日本三大銅山として栄えた別子銅山(1973閉山)近くが水源であり,仁淀川の上流の面河(おもご)川は石鎚山の南麓に源があって,面河渓の名勝をつくり,また四万十(しまんと)川の上流の吉野川は愛媛県の南部山地に源をもっている。愛媛県は四国の他の3県とちがって,瀬戸内海,宇和海,宿毛(すくも)湾など内海と外洋とに面し,沿海に芸予諸島防予諸島など多くの島々が点在していることが,漁業活動にも著しい特色をもたらしているが,これは気候にも大きな地域的特性を与えている。瀬戸内海側は,晴天日数が多く,降水量が少ないため,農業にも溜池灌漑を必要とする。松山平野や今治平野には多くの溜池があって,近世以来水争いが絶えなかったところもある。1966年に完成した道前道後水利事業は,面河川上流の面河ダムからの用水路を松山平野と周桑平野(新居浜平野西部)の両方に分けて農地への給水を可能にし,水不足を解消した。これは太平洋に流れる水を瀬戸内海側に導く工事でもあった。四国山地の内陸では,降水量が2000mmを超えるところもあって,久万(くま)盆地や内子町の小田深山宇和島市の旧津島町などでは,杉やヒノキの人工林が多く林業が盛んである。西部の宇和海沿岸では,日本最長の半島である佐田岬半島から南にリアス式海岸が連なり湾入が多い。この地方では大きな川がなく湾頭にもわずかな低地しかないため水利の便が悪い。沿岸では近世からサツマイモや麦の栽培が段畑で行われてきた。この段畑景観は,半農半漁の漁村が新浦を開いたときの自給農作地であった。そのみごとさの裏には,かんころ(いもを干して粉にし,水でねって丸めて蒸して作る)の常食による貧しさがあった。しかし,明治以降,ミカン栽培が普及し,さらに第2次大戦後には真珠やハマチ(ブリ)の養殖業が発達したことから,この地方は愛媛県が全国一の生産を誇るウンシュウミカン,真珠,ハマチの主要産地となっている。ウンシュウミカンは1968年に静岡県をぬいて年産,栽培面積ともに1位となったが,70年代からはイヨカンネーブルオレンジなどへの転換が目だっている。真珠養殖は1956年ころ,おもに三重県の業者が進出,74年には1位となった。

自然環境の多様さは,愛媛県の風土を多彩なものにしている。近世の伊予は八藩による分割統治のもとにあったが,その藩領域も地形的にまとまったものである。東部から今治藩,西条藩,小松藩,そして阿波と土佐との交通要地の川之江は天領,同じく別子銅山のあった新居浜一帯も天領であった。中部では松山平野と久万盆地一帯(久万郷)が松山藩で15万石を有し,南部では大洲盆地一帯が大洲藩とその分家の新谷藩,宇和島には伊達氏の城下町があり,その分家が吉田藩であった。このような分割統治は,愛媛県民性の土壌にも影響を与えている。宇和島藩領は山がちで農作物でも米麦のほかに製紙原料のコウゾ,ろうそく原料のハゼなどの生産や養蚕が行われ,これら紙やろうそくは藩の有力な財源であった。しかし,その生産奨励はきびしく,しばしば農民騒動を起こし,その件数は信州に次ぐほどであった。宇和海沿岸ではイワシ網漁業が盛んで,乾物類は特産品となっていたが,漁村の背後にある段畑は,藩の年貢取立てのきびしさのもとで開墾されたともいわれている。このような生活環境は住民をして勤勉,貧しさに耐えるという気質を生じさせたとみてよい。他方,東部では西条藩が沿岸干潟の開発を進め広大な新田をつくり,米の主産地となったし,今治藩の南の桜井は天領で,紀州の黒江塗の原木の販売から始まって,船による行商が盛んとなり,この椀舟(わんぶね)行商が現在の日本における割賦販売の先駆となった。この商業活動は,明治中ごろに木綿生産から転じてタオル生産に着手し,現在では全国出荷額の6割を占める産地へと発展した進取の企業者気質を生むこととなった。伊予八藩が互いに藩子弟の教育に努め藩校を創設したことは,愛媛県から多くの文人や学者などを輩出する源となった。松山藩の明教館は,のちに夏目漱石の《坊っちゃん》の舞台となった松山中学であり,松山からは安倍能成,正岡子規高浜虚子などが出ている。松山は俳句のメッカといわれ,全国的にも結社が多い地として知られる。

松山市は県庁所在地のみならず四国郵政局,電気通信監理局,NHK四国本部など四国地方の行政・情報機能が集中し,人口も四国最大の都市となっている。しかし,愛媛県の人口は経済高度成長期には県外流出が多く,人口過疎地域指定の農山村が多くなり,とくに南部では若年労働力の流出と出稼ぎが増加した。人口は1960年代に140万人台に落ち込んだが80年になって150万人を超えたものの再び減少している。人口高齢化の進行が著しく,Uターン者の雇用増加も限られているために経済社会の活性化が重要な課題となっている。

 経済活動は,松山市より東に位置する今治,新居浜,伊予三島,川之江などの諸都市では,造船,タオル,重化学,紙・パルプなどの生産に特化しており,とくに新居浜市は瀬戸内海沿岸で唯一の財閥(住友)系の金属・化学・機械工業の集積をみている。1964年東予新産業都市,88年テクノポリスの指定を受け,電機,化学,造船,製鋼,ビールなどの進出があり業種の多様化をみ,四国最大の工業地域となっている。松山市周辺では,臨海地区に石油化学・化学繊維(帝人・東レ)工業の立地に加え,松山港は1988年FAZの承認を得て輸入加工業の立地に努めている。県南部では,八幡浜市の水産加工業,宇和島市の造船や家具・食品工業など地場産業があり,農村工業導入で立地した電機や縫製などのほか自動車部品生産が見られる。

全国最初の軽便鉄道(現,伊予鉄道)が松山市(道後)と旧藩時代の外港三津浜との間に開通したのが1888年であった。また宇和島鉄道が近永まで開業したのが1914年である。陸上交通の近代化は著しく遅れ,旧国鉄予讃線が松山と高松間に開通したのが27年で,現在の全線開通は45年であった。JR四国になって,1988年に瀬戸大橋線の開通と伊予市までの電化で,岡山との直通特急の増発をみ,四国の鉄道旅客の半分は予讃線が占めている。松山と高知を結ぶ国道33号線による国鉄バスも1935年に運行を開始した。海上交通の近代化は早く,1871年に三津浜に定期船が就航し,阪神~九州間を結び,広島(宇品)と三津浜間は91年,さらに今治,新居浜,宇和島,八幡浜なども定期航路の寄航地となった。また松山空港は中国・四国地方でジェット機の就航が最も早く(1972),旅客輸送量も最大である。

愛媛県は自然的・経済的条件から東予,中予,南予の三つの地域に大別され,それぞれ地域的特性が強いが,第1次産業の比率が高いのは中予および南予地方である。

(1)東予地方 今治市から東へ四国中央市の旧川之江市に至る燧(ひうち)灘沿岸および芸予諸島南部の越智諸島を含む地域で,今治,周桑,新居浜,宇摩の各平野がある。周桑平野は豊かな穀倉地帯で,米,麦のほか野菜,畜産などの生産が多い。ミカン類は越智諸島に多く主産地となっている。東予地方は新産業都市やテクノポリスの指定地域で重化学工業生産が多い。とくに伊予三島・川之江は地場産業の手すき和紙から発展した機械すき,パルプ洋紙生産が盛んで,西日本最大の製紙工業都市となっている。水引細工やのし紙の生産も盛んで,製紙ではトイレットペーパーをはじめ衛生紙の生産でも業界をリードしている。今治市のタオル生産は,先ざらし紋織タオルを特色とし高級品が主で,最近では衣類生産にまで進出した。中小企業が多く,労働集約的生産ではあるが,不況には強いところがある。また今治市周辺には中小造船業が多い。中予地方にかけての沿海部は瀬戸内海国立公園,石鎚山周辺は石鎚国定公園に含まれる。

(2)中予地方 松山平野から久万盆地一帯で,松山市の都市圏内にある。交通の要地で,松山の卸売業は四国西部を有力な市場としている。日本最古の温泉である道後温泉は松山市内にあり,温泉本館は国の重要文化財である。南郊では白磁を基調とし陶石を原料にした砥部(とべ)焼が生産されている。松山平野は肥沃な農村地帯であるが,山麓はミカン園として開かれており,商品作物栽培農家が松山市の小売商業を支えている。伊予市は有名な削り節(花鰹)の産地で,1972年にパック生産に着手してから急成長をとげた。高知県境の大野ヶ原付近には石灰岩台地が広がり,四国カルストと呼ばれる。

(3)南予地方 佐田岬半島から宇和海沿岸にわたる海岸景観の美しい地域で,高知県の足摺岬とともに足摺宇和海国立公園に属し,真珠,ハマチの養殖生産地として知られ,沿岸漁業も盛んである。八幡浜市の真穴(まあな),向灘,宇和島市の旧吉田町の立間(たちま)はウンシュウミカンの特産地で,佐田岬半島にはアマナツの栽培が多い。
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