愛甲庄・愛甲保(読み)あいきようのしよう・あいきようほ

日本歴史地名大系 「愛甲庄・愛甲保」の解説

愛甲庄・愛甲保
あいきようのしよう・あいきようほ

厚木愛甲あいこう船子ふなこ岡田おかた愛名あいななどを含み、鎌倉時代初期の武士でとくに弓射にすぐれていたと伝えられる愛甲季隆の名字の地。愛甲に鎮座する愛甲熊野社や厚木の熊野堂などが、かつて熊野山領だったことを物語る。寛元元年(一二四三)七月二八日将軍藤原頼経家政所下文(県史一)によれば、熊野山領愛甲庄の領主職が母鶴熊の譲状どおり藤原(山内首藤か)清俊に安堵されているが、荘の成立がいつまでさかのぼるかは不明。一三世紀末から一四世紀初め頃のものとされる年月日未詳足利氏所領奉行注文(県史三)中にみえる「愛田庄」を仮に「愛甲庄」の誤記とみれば、この頃すでに足利氏の所領と化していたことになる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報