感応寺(読み)かんのうじ

精選版 日本国語大辞典 「感応寺」の意味・読み・例文・類語

かんのう‐じカンオウ‥【感応寺】

  1. [ 一 ] 東京都台東区谷中にある天王寺の旧称。開山は日源。はじめ法華宗であったが元祿年間(一六八八‐一七〇四)に天台宗に改宗。天保四年(一八三三)、天王寺と名を改める。毎年一、五、九月の一一日に富くじ興行が行なわれた。また、その塔は幸田露伴の「五重塔」の題材ともなる。
  2. [ 二 ] 鹿児島県出水郡野田町にある臨済宗の寺。山号、鎮国山。建久五年(一一九四島津忠久創建。開山は明庵栄西。島津家の菩提所
  3. [ 三 ] 京都市上京区にある清和院の別称。平安初期の建立。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「感応寺」の解説

感応寺
かんのうじ

[現在地名]野田町下名 八幡

下名しもみようのほぼ中央部、八幡はちまん地区にある。鎮国山と号し、臨済宗相国寺派。本尊は十一面千手観音。当寺には詳細な由来や歴代住持名、所蔵文書目録、古文書写などがまとめられた「感応寺由来」が伝来する。同由来によれば建久五年(一一九四)島津氏初代忠久の厳命を受けた本田貞親が、臨済宗の開祖栄西を開山として当地に創建したという。開基である忠久が嘉禄三年(一二二七)六月一八日相州鎌倉に没すると、忠久の子忠時は翌安貞二年(一二二八)の命日に納骨堂である光明院を寺内に創建し、併せて墓碑石塔を建立、当寺は島津家の菩提所となった。現在、忠久・忠時・久経・忠宗・貞久と島津氏第五代までの宝塔墓が境内の一角に並び五廟ごびよう社とよばれている。同年八月一八日、忠時は光明院に田三町を寄進している。

その後寺勢は一時衰退したが、元亨三年(一三二三)島津忠宗が祖興(雲山)中興開山に迎えて再興、忠宗から貞久の代にかけて整備され、京都東福寺を倣った七堂伽藍を誇ったという。


感応寺
かんのうじ

[現在地名]瀬戸市水北町

小金山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊聖観世音菩薩。行基の開創と伝え、もとは天台宗であったという。慶長五年(一六〇〇)才菴存佐が中興して臨済宗となる。元禄七年(一六九四)新居あらい(現尾張旭市)洞光どうこう院の住僧集雲止水(如得子)は「開山行基菩薩木牌記」を著し、次の小金山おがねやま八景を選び和歌一軸を残す。


感応寺
かんのうじ

[現在地名]米子市祇園町一丁目

愛宕あたご(感応寺山とも)北麓、新加茂しんかも川南岸にある。常住山と号し、日蓮宗。本尊大曼荼羅。近世には米子城南方深浦ふかうら門の外堀の南外に位置していた。慶長五年(一六〇〇)中村忠一(一忠)米子転封後、老臣横田内膳村詮によって駿河感応寺(現静岡市)一一世日長を開山として寺を創建し、同じ寺名を付して菩提寺とした。「伯耆志」は創建は慶長七年のこととし、寺領三〇〇石を与えられたと記す。翌八年一一月横田村詮は反対派に乗ぜられた忠一により城内で誅殺された。このとき日長は深浦門より城内に入り、村詮の遺骸を畳表に包んで運び出し、当寺に葬ったという(中村記)


感応寺
かんのうじ

[現在地名]弘前市独狐 沢辺

弘前市から西津軽郡鰺ヶ沢あじがさわ町へ向かう県道鰺ヶ沢線沿い、独狐とつこの北端沢辺さわべにある。七面山と号し、日蓮宗。本尊十界曼陀羅。もと本行ほんぎよう寺末寺。

重宝錦嚢(受源院蔵)によれば、元和八年(一六二二)三森みつもり村に創立され、元文三年(一七三八)に現在地へ移ったとある。開山、開基とも不詳。貞享四年(一六八七)の三森村の検地帳には、同村に法華宗の感応院があり、同院抱の観音堂があった。


感応寺
かんのうじ

[現在地名]今立町粟田部 新道

粟生そくしよう寺の南東にある。法性山と号し、日蓮宗。本尊は十界大曼荼羅。もと真言宗であったが、天文五年(一五三六)の天文法華の乱で延暦寺の衆徒によって破却された妙顕みようけん(現京都市上京区)の広盛が当寺に入り、改宗して開基日誉となった。以後妙顕寺末となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「感応寺」の意味・わかりやすい解説

感応寺 (かんのうじ)

東京都台東区にある寺。現在は天台宗で,天王寺と改称し,山号は護国山。もと長耀山感応寺という日蓮宗の寺院で,日蓮の弟子日源によって開創されたと伝えられる。寛永年間(1624-44)に住持の日長は将軍徳川家光と英勝院の援助を受けて,広壮伽藍を建立した。しかし,寛文年間(1661-73)から江戸幕府は日蓮宗の不受不施派を弾圧し始めたので,この派に属した感応寺は幕命によって天台宗に改宗された。現在の山寺号に改称したのは,1833年(天保4)のことである。感応寺は江戸の富くじ興行で有名となり,湯島天神,目黒不動とともに江戸の三富と呼ばれた。また,当寺にあった五重塔は幸田露伴の《五重塔》のモデルとして知られる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「感応寺」の意味・わかりやすい解説

感応寺【かんのうじ】

鹿児島県出水市にある臨済宗東福寺派の寺。本尊千手観音。鎌倉時代栄西(えいさい)が創建。その後七堂伽藍が造営されたという。近世まで寺観を誇ったが,明治維新後鹿児島で徹底して行われた廃仏毀釈によって廃絶,1880年に再興された。当地にあった木牟礼(きむれ)城は島津家初代忠久が築かせた城で,当寺に同氏が鹿児島に進出するまでの5代の墓が現存する。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

デジタル大辞泉プラス 「感応寺」の解説

感応寺

鹿児島県出水市にある臨済宗相国寺派の寺院。山号は鎮国山、本尊は十一面千手観音。1194年、島津家初代当主・島津忠久の命により、栄西を開山として創建と伝わる。島津家の菩提寺。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「感応寺」の意味・わかりやすい解説

感応寺
かんのうじ

天王寺

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の感応寺の言及

【谷中】より

…元禄年間(1688‐1704)ころまでに大半は市街地化したが,とくに慶安年間(1648‐52)以後,神田台方面からの寺院の集中などによって大規模な寺町が成立し,俗に〈谷中八丁に九十八ヵ寺〉といわれた。その中心をなした感応寺(天王寺)は応永年間(1394‐1428)の創建と伝えるが,3代将軍家光の代(1623‐51)に寺域を大拡張した。以来,毘沙門天をまつる巨刹として知られることとなったが,富くじ興業の勧進元としても有名で,のちに湯島天神,目黒不動とともに〈江戸の三富〉といわれた。…

※「感応寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

仕事納

〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...

仕事納の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android