このことばは、ドイツの美学者であり、かつ心理学者であったリップスが用いたアインフュールングEinfühlungというドイツ語の翻訳語である。英語ではエンパシーempathyという語をあてる場合と、シンパシーsympathyをあてる場合とがある。有斐閣の『心理学辞典』(1999年)ではempathyは共感性、sympathyは感情移入となっている。定評のある今田恵(いまだめぐみ)(1894―1970)の『心理学史』(岩波書店、1962年)ではEinfühlungにempathyをあてている。『文部省 学術用語集 心理学編』(日本学術振興会、1986年)ではempathyを共感とし、sympathyには、(1)同情と(2)共感をあてている。心理学における「多義の虚偽」がよく表れていると思う(多義の虚偽については感情の項参照)。リップスのいう感情移入とは、自然界や他の人々に自分のもっている感情(広義の感情で情動や気分なども含む)を知らず知らずのうちに移し入れて、自然界や他の人々があたかもその感情をもっているかのように感じ取ることである。五線譜の上に並んだ音符のそれぞれは感情をもっていないが、それが楽器によって奏でられると聴く人のもっている感情によってさまざまな意味をもってくる。小鳥のさえずりが喜びに満ちたものとして聞こえたり、お寺の鐘の音が寂しく聞こえたりすることがある。これが感情移入にほかならない。これに対して共感というのは、人と人との間の感情の移入や伝達であって、人間以外の動植物や無生物などとの関係は含まれていない。カウンセリングの際、この共感の働きは欠くことができないものである。共感性をもっていないような人はカウンセラーの資格はない。カウンセリングと類似した活動に心理療法(サイコセラピー)があるが、ここでももちろん共感の働きは必要で欠くことができない。カウンセリングを受けにきた人(クライエント、カウンセリー)とカウンセラー、それから心理療法を受けにきた人(クライエント)と治療者(セラピスト)の二者が、おたがいの心と心の間にベルトをかけて共感しあうのである。
[大村政男]
感情移入は芸術的作品の鑑賞の基礎にあるもので、これが欠けていると鑑賞は成立しない。心理学者の千葉胤成(たねなり)は、有名な能面である「雪の小面(こおもて)」(面打ちの巨匠石川重政(しげまさ)の作)が、それ自体にはなんらの表情も彫られていないにもかかわらず、見る人によってさまざまな感情を現すことを発見した。能面は元来このような性質をもっているが、千葉はこの能面においてそれがもっとも顕著であると指摘している。このような能面の表情認知は感情移入の働きである。
ゴーギャンの『タ・マテーテ』(1892)という有名な絵がある。「マテーテ」というのは「マーケット(市場)」ということである。この絵の前面には6人の女性が描かれている。5人はベンチに腰をかけ、1人は右端に立っている。静けさと落ち着きに満ちた絵であるが、とりわけ興味がもたれるのは彼女たちの手のポーズであるといわれている。1974年、スピーゲルJ. P. SpiegelとマホトカP. Machotokaは、大学生にこの絵を見せて、6人の女性たちの姿態からどのような感情が読み取れるかを質問した。それによると、類似した回答も出てきたが、描かれている同一の姿態でもいくつにも違った解釈がなされていた。見る人の感情がそこに移入されるからである。
ボッティチェッリの『ビーナスの誕生』(1487)は不思議な魅力をもっている絵だといわれている。レオナルド・ダ・ビンチの『モナ・リザ』は不思議な魅力をもっていることで有名な絵であるが、それがあの夫人の顔面表情に起因しているのに対して、『ビーナス誕生』のほうは両手の位置が重要な意味をもっている。このビーナスの手をさまざまに変えていくと、それによってビーナスの性格がさまざまに変容していくことが西谷(にしたに)節子によって明らかにされている。実際の絵におけるビーナスは右手の手腕部で左右の乳房を押さえ、左手で下腹部を覆っている。このままの姿態では、上品で消極的という感じを与える。これに対して、両手を左右に水平に近い形で伸ばすと、下品で積極的という感じを与えてくる。さらに、右手を側面にだらりと垂らして、左手を後ろに回すと、暖かく、平静、受動的で、魅力的という感じを与える。手の位置の変化が鑑賞者の感情を一様に変容させることも、そこに感情移入の働きがあることを立証するものである。
[大村政男]
心理学で使用している性格検査のなかに「主題統覚検査(略称TAT)」という検査がある。この検査は、主題がはっきりしていない写真や絵を何枚も1人の人に見せて、その絵について、現在―過去―未来にわたる物語をつくってもらう検査である。同じ絵を見せても、明朗で幸福な過去をもった人がつくった物語と、憂鬱(ゆううつ)で暗い過去をもった人のつくった物語では大きな差異が現れてくる。主題統覚検査では、一定の手続に従ってその物語を分析し、作者の性格を診断する。この検査も感情移入の働きに基づくものである。なお、幼児や児童のための主題統覚検査(略称CAT)では動物の絵が用いられている。雄のライオン、黒クマ、白ウサギ、リスなどの動物が絵のなかに登場してくる。小さい子供は、動物と自分の家庭の人々を同一視する傾向が強いからである。小さい子供自身が白ウサギやリスになることはよくあることだが、父親が黒クマになったり、母親が雄のライオンになったりして物語が展開していくこともある。猛烈な父親や母親がいる家庭であることが容易に想像されよう。これも感情移入の結果である。
[大村政男]
『『千葉胤成著作集4 芸術の心理学』(1972・協同出版)』▽『藤田統・森孝行・磯貝芳郎編『心の実験室2』(1977・福村出版)』▽『詫摩武俊・鈴木乙史・清水弘司・松井豊編『シリーズ 人間と性格6 性格の測定と評価』(2000・ブレーン出版)』▽『リタ・L・アトキンソン他編、内田一成監訳、神谷俊次訳『ヒルガードの心理学』(2002・ブレーン出版)』▽『氏原寛著『ロールシャッハ・テストとTATの解釈読本――臨床的理解を深めるために』(2005・培風館)』▽『仲島陽一著『共感の思想史』(2006・創風社)』
他人や芸術作品や自然と向かいあうとき,これら対象に自分自身の感情を投射し,しかも,この感情を対象に属するものとして体験する作用をいう。ドイツ語Einfühlungの訳語であるが,この心理学用語は英語圏ではempathy(共感)と訳されて定着し,独自の展開をみせている。目に見るものを通じて当のものの心に触れるという体験はどのようにして成立するのか。その根拠をリップスやフォルケルトは,経験による類推とか連想の作用でなく,いっそう根源的で直接的な作用である感情移入にあるとした。ところでこの作用が美的観照においては実生活にみられるよりはるかに深く,余すところなく行われて,知覚と感情を融合させ主客の一体化をもたらすことから,両人はここに美意識の中心現象をみとめ,感情移入美学を成立させた。第1次世界大戦開始のころまで美学を主導した心理学的美学の実質はこれであり,論者にはグロースK.Groos,ウィタゼークS.Witasekも挙げられる。
感情移入は本来は感情をもつ人間(現実の,および芸術作品に表現された)に対して行われるが,この〈本来的感情移入〉のほかに,無心非情の自然物や風景に対してこれらを有情化する〈非本来的な象徴的感情移入〉も強調された。このばあい対象に移入される感情は明確な情緒でなく一定の漠然たる気分であるから,象徴的感情移入は〈気分移入・情調移入Stimmungseinfühlung〉とも呼ばれている。こうしてあらゆる美的対象がそれぞれ〈対象的感情〉を備えて現れるとともに,対象に反応する観照者には充実した現実感情として〈人格的感情〉が体験されることになる。感情移入の原理の限界については,美学では,のちに新たな規範的美学や現象学的美学によって批判され,感情移入美学は克服された。しかし芸術創作の一契機として感情表出が厳存する以上,感情移入が美的享受の特質を一面で支えている事実は今日なお無視することができない。
執筆者:細井 雄介 感情移入とは対象にその心があると感ずることであるが,精神医学や心理学の分野では,他者の立場に身をおいて,相手の心の状態をともに分かちあって体験する共感の意味にも用いられる。われわれが他人の体験に感動したり,同情したりするのは,相手に共感するからであり,それは自己の過去の同種の感情的体験を相手に感情移入するからである。精神科の治療者には,患者の表情,態度,発言内容などから,患者の精神現象を共感的に理解すること,つまり感情移入的了解einfühlendes Verstehenが要求される。神経症の不安,躁うつ病の抑うつ気分や爽快気分は感情移入が可能であるが,正常心理とは異質な統合失調症の体験は感情移入できず,了解不能とされる。なお,精神病者では他者への感情移入が障害されることがある。
執筆者:臼井 宏+野上 芳美
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