慈遍(読み)じへん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「慈遍」の意味・わかりやすい解説

慈遍
じへん

生没年不詳。鎌倉末期より南北朝期の天台学僧神道家。神事に仕えた卜部兼顕(うらべかねあき)の子。『徒然草(つれづれぐさ)』の兼好(けんこう)法師の兄。天台宗学僧の身で、神夢により神道(しんとう)に開眼する。度会(わたらい)(伊勢(いせ))神道に通じ、度会家神職とともに南朝側にたち、神仏一致の立場をもって日本および神道中心の説を唱える。卜部兼倶(かねとも)(吉田兼倶)の説として有名な神儒仏三教「根本枝葉花実説(こんぽんしようかじつせつ)」は実は慈遍の唱道が先行である。南朝の後醍醐(ごだいご)天皇に召されて、仏法・神道を説く。のち大僧正に任ぜられた。著書『豊葦原(とよあしはら)神風和記』『旧事本紀(くじほんぎ)玄義』『密法相承審要抄』『天地神祇(じんぎ)審鎮要記』など、ほかの多くは現存しない。

[小笠原春夫 2017年10月19日]

『大隅和雄訳注「旧事本紀玄義」(『日本思想大系19 中世神道論』所収・1977・岩波書店)』『山辺習学著『豊葦原神風和記講義』(1943・大谷出版協会)』

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改訂新版 世界大百科事典 「慈遍」の意味・わかりやすい解説

慈遍 (じへん)

鎌倉時代末の天台宗の学僧。神道家。生没年不詳。卜部(吉田)兼顕の子。《徒然草》の著者吉田兼好の兄弟。卜部氏の系図などには後世の付加が多く,経歴は不明の部分が多いが,幼いとき出家して公尋の弟子となり,後醍醐天皇に厚く信任された天台座主慈厳僧正に仕え,法印に任ぜられた。鎌倉時代末の討幕気運の高まりのなかで,伊勢外宮の祀官度会(わたらい)(檜垣)常昌と交わって伊勢神道の影響を受け,《神懐論》《旧事本紀玄義(くじほんぎげんぎ)》《旧事本紀文句》《大宗秘府要文》《神祇玄要図》《神皇略文図》《古語類要集》《天地神祇審鎮要記》《豊葦原神風和記》などを著した。その神道説は,伊勢神道の教説の展開に天台教学の理論を援用したもので,主著《旧事本紀玄義》では神本仏迹の論を説いたうえ,天皇を宇宙の元始神の正系を引き,天を父,地を母とする存在であると論じ,神道の政治論を展開して皇徳皇位,神器について説いている。
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朝日日本歴史人物事典 「慈遍」の解説

慈遍

生年:生没年不詳
鎌倉後期・南北朝時代の延暦寺僧で,神道論に精通していたことで知られる。卜部(吉田)兼顕の子,吉田兼好の弟。若くして比叡山延暦寺に登り,出家・受戒する。天台宗を学ぶとともに神道も研究。後醍醐天皇に召されて仏法ならびに神道のことを奏上した。のち,大僧正となる。南北朝の動乱においては南朝方に仕えた。天台の立場から神道を論じたが,天台神道(山王神道)のみならず伊勢神道の説にも精通していた。<著作>『山王審鎮要記』『豊葦原神風和記』『密法相承審論要抄』<参考文献>卍元師蛮『本朝高僧伝』巻17

(松尾剛次)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「慈遍」の解説

慈遍 じへん

?-? 鎌倉-南北朝時代の僧,神道家。
吉田兼好(けんこう)の兄(弟とも)。京都の人。比叡(ひえい)山で天台教学をおさめ,神道も研究。神道の仏教に対する優位を主張。後醍醐(ごだいご)天皇(在位1318-39)に仏法,神道を説き,のち大僧正に任じられた。著作に「山王審鎮要記」「豊葦原神風和記」など。

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