韓国,慶尚北道南東部の都市。人口27万5842(2000)。新羅(3世紀ころ~935)発祥の地であり,伝説時代を含めると約1000年の間王都として栄え,新羅の全盛時には人口78万余を数えたともいう。かつては鶏林と呼ばれ,慶州という呼称は高麗時代に始まる。兄山江の中流にある慶州盆地に位置し,北は迎日湾,南は蔚山(うるさん),西は洛東江流域の水田地帯へ通ずる要衝の地にある。年平均気温は約13℃であり,温暖な気候にも恵まれている。新羅は仏教を国教として尊んだため,吐含山の仏国寺,芬皇(ふんこう)寺をはじめ古代仏教文化の遺跡が数多い。国立公園に指定されており,古都としての市街地の保存につとめ,博物館,古墳内部の展示,ホテルなど観光施設がよく整備され,四季を通じ内外の観光客でにぎわっている。高速道路の開通により,ソウルから5時間,釜山から2時間の距離にある。
執筆者:谷浦 孝雄
慶州盆地は,東は明活山,西は玉女峰,仙桃山,南は南山(金鰲山),北は金剛山に囲まれ,さらに外郭を吐含山,亀尾山,武陵山などの諸山が二重にめぐる自然の城塞となっている。慶州市街には,西川・北川・南川によって堆積された砂礫層が発達する。盆地一帯には,紀元前から統一新羅時代にわたる数多くの遺跡が残っている。三国時代以前の無文土器・原三国時代の遺跡として,九政洞,朝陽洞,月城郡入室里などの墳墓が知られ,銅剣,銅矛,銅戈,銅鏡,小銅鐸,鉄剣,鉄斧,鉄鎌など各種の青銅器,鉄器,土器が出土している。盆地中央の平地には,三国時代の古墳群が集中して分布する。円形・瓢形の封土をもつ積石木槨・竪穴式石室・横穴式石室墳などである。積石木槨墳は,木棺を安置した木槨の周囲を人頭大の河原石で覆い,さらに盛土した新羅独特の墓制である。これまで金冠塚,金鈴塚,飾履塚,瑞鳳塚,壺杅(こう)塚,天馬塚,皇南大塚など王陵級の古墳が発掘されている。これらを5世紀末から6世紀代の慈悲,炤知,智証,法興などの王ないしは王族に比定する説もあるが,いまだ確定されていない。古墳には金製冠をはじめ,金・銀・金銅製装身具,武器,馬具,農工具,鉄鋌,ガラス器,土器など膨大な遺物が副葬され,なかには西方・中国・高句麗系文物を含み,新羅王権の強大さと国際性がうかがえる。古新羅末期から統一新羅初期にかけて造営された馬塚,忠孝里などの横穴式石室墳は,慶州古墳群の縁辺から丘陵地帯に分布する。統一新羅時代の金庾信(きんゆしん)墓,伝聖徳王陵,掛陵などの墳墓には,墳丘の裾に外護列石をめぐらせたり,その列石に十二支像を彫刻したもの,墳丘の周囲に十二支像や文武の石人像・石獅子像を配したものがある。武烈王陵の前面には,碑の台石・装飾物である亀趺と螭首(ちしゆ)が残り,その螭首には〈太宗武烈大王碑〉と陽刻されている。
新羅における仏教の初伝は訥祇王代(417-458),その公伝は法興王15年(528)といわれ,仏教の興隆とともに造寺・造仏が盛んとなった。皇竜寺址,芬皇寺などにみられるように初期の寺院は,百済の影響をうけ一塔式の伽藍をもつが,四天王寺など統一新羅期の寺院では,金堂の前面に2塔を並べた双塔式伽藍が主流となる。塔も,初期では木造であったが,芬皇寺の磚塔(せんとう),千軍里廃寺・感恩寺址・仏国寺の石塔のように石造となる。慶州南方の南山一帯は,新羅仏教芸術の一大宝庫であり,火葬墓,数十の寺院址,40基以上の石塔,70体におよぶ石仏・磨崖仏が遺存する。
慶州は条坊制の施行された都城であった。南川の蛇行に沿って半月形に造営された月城には,土石混築の城壁がめぐらされ,その北に隣接して離宮である臨海殿,園池の雁鴨池(がんおうち)が造られた。京(みやこ)の北方の城東里では宮殿址,門址などが発掘されている。王都は,四方を明活山城,西兄山城,南山城,さらに外方を富山城,関門城,北兄山城で守護されていた。南山城は591年(真平王13)に築造された石城であり,城内に長倉址があり,炭化米も出土した。周辺で発見された石碑により,南山新城と呼ばれたことも明らかとなった(南山新城碑)。このほか慶州には,古新羅時代の天文台である瞻星(せんせい)台,統一新羅時代の石窟庵,宴跡の鮑石亭,朝鮮時代の邑城,石氷庫などの遺跡がある。1970年以降,慶州開発計画に基づいて発掘された天馬塚,皇南大塚,雁鴨池,臨海殿址などは史跡公園として整備されている。
執筆者:東 潮
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韓国(大韓民国)、慶尚北道(けいしょうほくどう/キョンサンプクド)にある古都。面積1323.69平方キロメートル、人口27万5132(2000)。1955年、慶州郡の一部を分離し慶州市を設置。95年、慶州郡と統合。迎日(げいにち/ヨンイル)湾に注ぐ兄山江(けいざんこう)上流の侵食盆地に位置する。市街地の周囲には明活(めいかつ)山(245メートル)、金鰲(こんごう)山(495メートル)、仙桃(せんとう)山(380メートル)など丘陵性の山が取り囲み、秀麗な景観をなす。農業は米作を中心に周辺地域で行われ、リンゴ、ナシなど果樹が栽培される。市街地は格子型の街路構造をもっており、市内には王陵、瞻星(せんせい)台、仏国寺の多宝塔・釈迦(しゃか)塔、雁鴨池(がんおうち)など新羅(しらぎ)時代の遺跡が多く、国立公園に指定された観光都市である。古墳公園、博物館、ホテルなど観光開発が進められており、また、高速道路を使った直行バスや、あるいは特急列車によりソウル、釜山(ふざん/プサン)からの交通も便利で、内外からの観光客が多い。1995年に石窟庵と仏国寺が、2000年に「慶州歴史地域」がそれぞれ世界遺産の文化遺産に登録された。
[森 聖雨]
辰韓(しんかん)12国中の斯盧(しろ)国に始まるが、首都としての体裁を整えるようになるのは4世紀からであり、その造営が本格化するのは6世紀以降のことと思われる。最初の王城は金城といわれるが、位置は不明である。やがて月城(新月城、半月城、在城)が南川を背にその北岸に築かれ、おもにその北側の地域に都城が営まれた。首都は梁(たく)部、沙梁(さたく)部、牟梁(むたく)部、本彼(ほんぴ)部、漢祇(かんぎ)部、習比(しゅうひ)部の6部にまず区分されていた。さらに方形地割が二度にわたって施され、坊里制が敷かれていた。そして月城を中心に官衙(かんが)、宮殿、寺院が配され、民家が軒を連ねていた。『三国遺事』はそのようすを、「京中十七万八千九百三十六戸、一千三百六十坊、五十五里」と伝えている。首都には羅城がなく、周囲の山々に山城を築いて守りとした。935年に高麗(こうらい)に降(くだ)るまで、慶州は一貫して新羅の首都であり続けた。わずかに一度だけ、689年に大邱(たいきゅう)への遷都が計画されたが、それも果たされずに終わった。慶州は新羅貴族の重要な勢力基盤をなしていたからである。
[木村 誠]
中国、遼(りょう)の第6代皇帝聖宗を葬る慶陵の奉陵邑(ほうりょうゆう)(皇帝の陵墓に奉仕するために置かれた州県)として、第7代興宗が1031年に設けた州。現在の内モンゴル自治区赤峰市バリン左旗内の白塔子村にあたる。いまも東西約930メートル、南北約1100メートルの方形の土城址(し)が残り、城址内に数十の土壇があり、付近に無数の瓦(かわら)片や陶磁片が遺存している。城址内北西隅に高さ約65メートル、八角七層の白塼塔(せんとう)がある。遼代文化の粋を尽くした仏塔で、このためこの地は白塔子ともよばれる。この地は遼代の皇帝がしばしば遊猟し、ことに奉陵邑設置後は宮殿や人戸も増えて繁栄したが、遼の滅亡後は衰え、金の1130年奉州と改名され、43年に廃止された。
[河内良弘]
『田村実造著「徙民政策と州県制の成立」(『中国征服王朝の研究 上』所収・1964・東洋史研究会)』
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韓国慶尚北道の都市。古くは蘇伐(ソブリ)といい,また金城と称した。新羅の国都。山に囲まれた慶州盆地にあり,北東は迎日(ヨンイル)湾に,南東は蔚山(ウルサン)湾に通じる。盆地は新羅の遺跡に満ち,古墳群,王陵,城址をはじめ,石窟庵,磨崖仏(まがいぶつ)など,新羅芸術の宝庫である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…その伝播は,直接的には遼東地方の鮮卑族から高句麗を経て,新羅で開花したと考えられる。しかし,統一新羅時代になると唐文化の影響を大きく受けて金工の技術が飛躍的に発展し,奉徳寺銅鐘(国立慶州博物館)のような独特な形式を備えた朝鮮鐘も生み出された。高麗時代にも高度な金属工芸技術は伝承され,主として金銀象嵌文様を施した仏具にすぐれた作品を残している。…
※「慶州」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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