成生庄(読み)なりゆうのしよう

日本歴史地名大系 「成生庄」の解説

成生庄
なりゆうのしよう

最上川支流のみだれ川と立谷たちや川で南北を、奥羽山脈と最上川で東西を画するほぼ現在の天童市域を庄域としていたと考えられる庄園。現天童市成生が遺称地とされる。なお庄域の北限を現東根市域を流れる村山野むらやまの川、南限を現山形市域の高瀬たかせ川とする考察もある。立谷川と乱川・押切おしきり川の複合扇状地上を占め、集落跡などの遺跡も豊富で、扇端部矢野目やのめには六―七世紀の集落遺跡である西沼田にしぬまた遺跡(国指定史跡)があり、早くから開発が進んだ生産性の高い地域であった。安元二年(一一七六)二月日の八条院領目録(内閣文庫蔵山科家古文書)に「成生」とみえ、南接する大山おおやま庄などと並び、鳥羽院の三女八条院子内親王の女院庁の庁分の庄園であったが、それ以前に南西方の大曾禰おおそね庄などと同様に、摂関家領として成立していたと考えられる。道満どうまんにある春日神社は、藤原氏の氏神である奈良春日社を勧請したと考えられる。平安時代末期の政変のなかで、当庄も摂関家の支配を離れ皇室領となったのであろう。横浜市金沢かなざわ区の金沢かねさわ文庫に納められていた倶舎七十五法名目の建仁元年(一二〇一)五月一日の奥書に「成生御庄小畑村」において同名目を筆写した旨が記され、同村は現JR天童駅周辺の小畑おばたに比定される。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に庄名が載ることから、鎌倉時代を通じほぼ皇室領として伝領され、大覚寺統を支える庄園の一つであったと考えられる。

地頭は明らかではないが、中条(三浦和田)氏にあてる説と、二階堂氏にあてる説がある。越後奥山おくやま(現新潟県北部)に所領をもつ幕府御家人中条氏、藤原南家の出であり、幕府政所執事の二階堂氏はともに出羽守に任ぜられることが多く、出羽国との関係が深い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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