成羽庄(読み)なりわのしよう

日本歴史地名大系 「成羽庄」の解説

成羽庄
なりわのしよう

和名抄」下道郡成羽なしは郷の郷名を継ぐものか。成羽川左岸の成羽を遺称地とする。八幡宮と国人三村氏とに関する話をおもに叙述する天正一二年(一五八四)奥付の成羽八幡旧記(渡辺文書)に成羽庄六ヵ村として臘数しわす(現川上町)福地しろち西野々にしのの(現高梁市)日名ひな羽根はね宮地(現成羽町)を記す。これに従えば、現川上町の北東部から現成羽町の南部、高梁市の南西部一帯に推定される。庄内に徳治二年(一三〇七)七月から行われた成羽川開削工事の大勧進尊海がいた善養寺があった。

永徳元年(一三八一)四月七日、三村信濃守跡の当庄(地頭職か)が京都天龍てんりゆう寺に寄進され(「足利義満寄進状」天龍寺重書目録)、至徳四年(一三八七)の天龍寺寺領土貢注文案(天龍寺文書)には年貢三一〇貫六六三文とある。明徳元年(一三九〇)九月一二日および同三年六月七日、幕府は守護渋川満頼に当庄を天龍寺雑掌に引渡すよう命じているが、本主三村氏は善養寺に立籠って抵抗し、同四年にも三村信濃入道余類の妨害排除が守護細川満之に命ぜられており(同年一〇月七日「斯波義将奉書」天龍寺重書目録など)、庄内の鶴首かくしゆ城を本拠とする三村氏の抵抗が執拗に繰返されていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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