翻訳|operation
治療の目的で皮膚あるいは粘膜,その他の組織を切開して,なんらかの操作を加えることを手術という。日本でいう外科にあたる欧米語は,ラテン語のcheirurgia(〈手のわざ〉の意)に由来するので,外科の代表的なものが,手を血でよごして治療する手術であるということになる。かつて手術は,主として体表面の病巣に対して行われたため,外を治療する,すなわち外治という意味での外科を代表して内科medicineに対してきた。しかし現在では,頭蓋,胸膜,腹膜を開き直接内臓にメスを入れて手術を行っているので,日本語の外科という言葉は,内容と字面とでは食い違いがおこってきており,外科が内科でもあるような内容をもつようになったといえよう。なお手術を広義にとる場合には,上述したように切開して血を見る,いわゆる観血的手術のほかに,粘膜や皮膚を切開せずに行う治療行為を含む。後者を非観血的手術とよぶが,これには関節脱臼の整復,骨折の固定,ヘルニア嵌頓(かんとん)の徒手整復などがある。しかし一般的に手術は,観血的手術をさすのが通常である。
人類の歴史の始まりにおいて,狩猟中に負ったけがなどを動物がするようになめたり泥などを塗ったりしたのが,いってみれば傷の手当の始まりと考えられる。石器時代には,このような原始的,初歩的な手当を含めて,骨折,創傷などに対していろいろの処置が行われたであろうが,それだけでなく石器を使って瀉血(しやけつ)したり骨に穴をあけたり,またヘルニアの治療や陰茎切断など,今日の外科手術にあたるようなものまで行われていたように思われる。時代ははるか下るが,前18世紀のバビロニアのハンムラピ法典には,外科医の手術に対する報酬のことが記載されている。古代エジプトでも,創傷,骨折,脱臼など日常生活のうえで避けることのできないけがや,刑罰的あるいは宗教的色彩をもった去勢,包皮環状切開などの手術や,腫瘍摘出などの外科的治療が目覚ましい進歩をとげていた。
このように外科的治療は,古代からかなり活発に行われていたが,当時の医術は,もっぱら僧侶にまかされていたため,しだいに彼らの属する上流階級のみに治療が限定され,一般民衆の治療は,低い階級に属する治療師(理髪師や湯屋の主人)にまかされるようになった。また僧侶は不潔な血液や膿汁で自分の手を汚すことを嫌い,外科手術は治療師にまかされていた。medicineという英語は〈医〉という意味と〈薬〉という意味をもつが,この当時の医(療)は内科的治療(薬を飲ませて治す)をさしており,外科的治療は医師の行うべきものではないとされていた。この思想が長い間外科的治療の進歩を阻害し,かつ外科医の社会的地位をきわめて低く押さえていて,理髪師と同等の外科医は長い間内科医の下働きに甘んじなければならなかった。
ところがインドにおいては,貴族階級が医療を独占しようとする気運がなかったことが幸いして,紀元前から外科はかなり発達した。種々の手術器具が考案され,穿刺(せんし)による腹水の排除,傷の縫合,白内障,鼻骨の手術,膀胱結石に対する砕石術,腸閉塞に対する開腹術なども行われていた。当時鼻をそぐ刑罰を受けたものに対する造鼻術などは,インドの造鼻術として,その原理は今日の形成外科に生かされている。
しかしながら古い時代の医療は,いずれも経験だけによって築き上げられたもので,むしろ魔術的要素も多く,科学としての体系をもたなかった。このような魔術的医術は,やがて古代ギリシアのヒッポクラテス(前460ころ-前375ころ)の出現によって,科学的基盤をもった医療へと転換することになったのである。ヒッポクラテスは外科を科学的に考え,外科治療のみならず消毒法,病理学,生理学,診断学の面でも数多くの業績を残した。なかでも彼の消毒に関する記載は今日のわれわれが驚くほど卓越したものである。この時代には細菌についての知識などはもちろんないが,医師は身体を清潔にし,つめを切り,頭部の手術では頭髪をそり,創傷には手を触れず,使用する水としては雨水を煮沸しろ過するなど優れた意見を述べている。また彼の〈箴言〉は医道のあり方を説いたもので,医師の倫理を明らかにした名言としていまも生きている。
ヒッポクラテスのギリシア医学は,アレクサンドロス大王の東征により,インド医学と結合し,ローマ医学へと受け継がれる。中世までの間ローマ医学は多くの優れた外科医を輩出した。〈赤く,はれて,熱くて,痛む〉という炎症の四徴候を提示したケルススは専門の医師ではなかったが,優れた外科医でもあったガレノスは,絹糸や腸線による結紮(けつさつ),肋骨切除による心臓露出,膿胸手術などを行い,一方,創傷治癒に関する見解などを明らかにしている。ガレノスはヒッポクラテス以後の医学をしめくくり,一つの新しい壮大な医学体系をうちたてた2世紀の大学者であるが,彼は,理論的整合性を追うあまり,観察や実験によって得られない空白の部分を種々の概念と堅固な理論で補い築き上げたために,彼の折衷的でもある医学体系の中にいくつもの誤りが入り込んでしまっている。
医学の進歩の長い停滞期である中世をすぎてルネサンスを迎えると,北イタリアを中心に宗教から独立した医療が徐々に台頭し,外科のその後の発展への足がかりをつくった。16世紀のフランスのA.パレは理髪師(いわゆる床屋外科医)の出であるが,血管結紮による止血法の採用や四肢切断術の改良などを行い,さらに包帯法,手術器具などを考案し,外科の進歩に対して大きな貢献を果たした。1731年フランスでアカデミーに外科専門学校Académie royale de chirurgieが併設された。一方それまで医学において遅れていたドイツのベルリンにもCollegium medicochirurgicumが設立され,ようやく医学の一分野としての外科の立場が認められるようになった。
19世紀に入って,アメリカのロングCrawford Williamson Long(1842),ウェルズHorace Wells(1844),W.T.G.モートン(1846)やイギリスのシンプソンJames Young Simpson(1847)らによる全身麻酔法,L.パスツール(1861)の腐敗現象は空気中の微生物によるという報告に基づいたI.P.ゼンメルワイス(1847),J.リスター(1867)らによる制腐消毒法,ベルクマンErnst von Bergmann(1886)やシンメルブッシュCurt Schimmelbusch(1889)による無菌法,エスマルヒJohann Friedrich August von Esmarch(1823-1908)による駆血帯の使用は,その後の外科手術を飛躍的に進歩させることとなった。すなわち,ランゲンベックBernhard Rudolf Conrad von Langenbeck(1810-87)の子宮全摘出術,ティールシュCarl Thiersch(1822-95)の植皮術,フォルクマンRichard von Volkmann(1830-89)の直腸癌手術,ビルロートTheodor Billroth(1829-94)の胃切除術の成功例が報告されるようになった。20世紀に入ると,G.ドーマク(1932)によるサルファ剤の発見,A.フレミング(1929)によるペニシリンの発見はその後の多くの抗生物質発見の引金となり,それによって,それまで実施不可能であったような大きな手術もできるようになった。
日本では,最も古い記録である《古事記》や《日本書紀》のなかに医術に関する事柄がいくつか書かれている。いわゆる〈因幡(いなば)の白兎〉の話もそのなかの一つで,皮をはがれて痛み苦しんでいる白兎が大国主神に教えられたとおり,清水で体を洗いガマの穂にくるまると元の白兎になったという物語は,神話伝承の形で創傷の治療法の一つを語っているものといえるであろう。古くから日本はすべての面で大陸の影響を強く受けており,医術ももちろんその例にもれないが,記録のうえでは414年に新羅から医師が来て天皇の病気を治したとあるのが大陸からの医学伝来の最初である。その後日本は長く中国医学(およびインド医学の一部)の影響下にあり,西洋医学の導入されたのは1543年(天文12)のポルトガル船の種子島漂着以降,ことに宣教師の来日以降のことである。すなわち,伝道の一環として宣教師たちは医療行為を行ったが,とくに医師としての活躍で有名なのがL.deアルメイダである。彼らによりキリスト教とともに南蛮外科が日本に入ってきたのである。しかし,ほどなくキリスト教の禁止,鎖国令の実施により,ポルトガル,スペインの南蛮外科はすたれ,わずかに長崎の出島を通じてオランダ流の外科(当時の人は紅毛外科とよんだ)だけが細々と命脈を保つようになった。そして,これが現在の日本の西洋医学の基礎ともなった。1649年(慶安2)出島に到来したオランダの医師カスパルはフランスの外科医パレの医学を伝えたが,彼の教えた医学はカスパル流外科として知られる。
1774年(安永3)に杉田玄白,前野良沢らによってクルムスJ.A.Kulmusの解剖書を翻訳した《解体新書》が刊行されたが,それから31年後の1805年(文化2),華岡青洲は曼陀羅華(まんだらげ)(チョウセンアサガオ)を主とした麻沸湯による全身麻酔下での乳癌手術に成功している。これはW.T.G.モートンらのエーテル麻酔に先立つこと約40年であった。華岡流外科は中国式とオランダ式の折衷であったが,西洋外科学の直接の導入は,大槻玄沢によるハイスターL.Heisterの外科書の翻訳やP.F.vonシーボルトの外科書の日本語への翻訳による。当時の外科医としては青洲の門弟の本間棗軒(そうけん)や,順天堂をおこした佐藤泰然らが知られる。1853年(嘉永6)のペリーの黒船到来前後から幕府は西洋の軍事技術とともに西洋医学をも導入すべく努めるようになり,57年(安政4)にはオランダ海軍軍医のポンペを海軍伝習所医官として長崎に招いて西洋医学の講義を行わしめた。これは日本最初の公的な西洋医学教育であり,後日この教育を受けたもののなかから日本医学の指導者と目されるような人々が育った。明治になるや政府は軍事病院(東京府大病院)と幕府時代の医学所とを合わせて医学校兼病院(のちに大学東校と改称)としたが,これが東京大学医学部の前身である。医学校兼病院長であったW.ウィリスはイギリス人であるが,その後(1869年,明治2年6月)ドイツ医学採用の政府決定により,ドイツ人のミュラーL.Müller,シュルツェW.Schultze,J.スクリバの順に大学東校(または東大医学部)教師として外科の講座を担当した。こうして明治以来,日本の医学はドイツ医学の影響を強く受けてきたが,第2次大戦後はアメリカ医学の影響下に置かれ,外科も例外ではなかった。しかし先学の努力により現在日本の外科は世界において指導的立場をとれるほどに成長している。
外科手術は過去100年間で長足の進歩をとげたが,この進歩は外科医の腕が上がっただけではなく,大きな手術でも安全にできる基盤が築き上げられたこと,すなわち無菌法,抗生法,麻酔,輸血・輸液などの進歩によるところが大きい。
パスツールにより有機物の腐敗・発酵は空気中の微生物によりおこることがわかり,これを受けてJ.リスターは石炭酸消毒を,R.vonフォルクマンは昇汞消毒を提唱した。しかし,この種の消毒法は腐敗を制する制腐法にすぎず,また組織に対する障害も大きいので,他の方法が考案された。1886年E.vonベルクマンは蒸気消毒法を,88年デービッドソンは煮沸法を考案し,89年C.シンメルブッシュは手術器具,包帯材料,手術着などの煮沸蒸気消毒法を完成した。これらの方法は,制腐とは異なり無菌状態にするもので,今日の無菌法の基礎となった。
制腐レベルから無菌レベルで行えるようになった手術は,抗生物質の登場によって感染対策を完全なものにすることができた。すなわち,それまでの手術は無菌手術とはいっても,消化管などは細菌の巣であり,また手術に伴う大きな傷からの細菌感染の危険につねにつきまとわれていたから,抗生物質によるこのような危険の除去は,手術の安全性を飛躍的に高めるのに役立った。抗生物質はA.フレミングによるペニシリンの発見以来,現在では各種の細菌から数多く分離されているだけでなく合成もされており,かつグラム陰性・陽性菌,リケッチア,スピロヘータなどにまでも効果の及ぶ広域抗生物質も発見されているが,これらの抗生物質の外科手術を含めた治療面への応用を,ストレプトマイシンの発見者S.A.ワクスマンは抗生法と名づけている。
手術が恐れられるのは,出血,感染とともに手術に伴う痛みがあるからである。麻酔薬を使って痛みを除き手術を行ったパイオニアは日本の華岡青洲であり,西洋では,青洲の手術後約40年後の1840年代にW.T.G.モートンらが全身麻酔(エーテル麻酔)下に手術を成功させたことは,前述のとおりである。その後シクロプロパン,エチルエーテル,ペントレン,ハロセンなどの吸入麻酔薬が開発,導入され,今日では痛みを感じさせずに安全に手術ができるようになった。
外科手術を安全にした第3の要因は,輸血,輸液療法の進歩である。ヒトとヒトとの間の輸血を可能にしたのは1901年のK.ラントシュタイナーによるABO式血液型の発見,14年ヒュースティンAlbert Hustinらによる抗凝血剤クエン酸ナトリウムの考案である。さらに40年にはRh式血液型が発見され,輸血の実施を促進させ,多くの人命を救った。
生体組織は大量の水分を含む。ヒトの場合,体重の70%前後が水分であることを考えれば,水分補給のたいせつさが理解できよう。またナトリウムイオン,カリウムイオン,塩素イオンなど種々の電解質の補給もたいせつである。水・電解質の経口摂取が不可能または不十分な状態に対して非経口的に水・電解質を補給するために用いられる輸液としては,ブドウ糖液,生理食塩水,リンゲル液などがあるが,とくに〈リンゲル〉という俗称は輸液の代名詞として一般に口にされたほどである。補給経路としては,かつての皮下注射法から現在は静脈内点滴注入法に代わり,種々の病態に適合した内容のものが作られている。しかも,以前はいかに努力しても1日の補給カロリーは600kcal前後を超えなかったが,1960年代から経中心静脈的高カロリー輸液法(中心静脈栄養)が開発され,1日に2000~3000kcalの補給が可能となり,外科治療に大きな福音をもたらした。
上記のような手術周辺の管理技術の進歩と手術手技の進歩とは両々相まって,対象となる疾患も大幅に拡大され,体表はもちろんのこと,頭蓋腔,胸腔,腹腔の三大腔で外科医のメスの及ばない部分がないほどになった。こうして,以前には想像もできなかったような大きな手術が,種々の分野で実施されるようになり,それに伴い外科も細分化の傾向が強まった。
第2次大戦前猛威をふるっていた肺結核に対して,栄養,大気,安静という消極的な治療法から人工気胸術,胸郭形成術がくふうされ,1934年にはドイツのE.F.ザウエルブルフが肺葉切除に成功し,今日の胸部外科の基礎が築かれた。
心臓外科は,1896年W.レーンの損傷を受けた心臓壁の縫合の成功に端を発するが,1945-46年ブラロックAlfred Blalock(1899-1964)らによって進められたファロー四徴症に対する鎖骨下動脈,肺動脈間血管吻合(ふんごう)形成術などによって心臓外科は花開き,その後人工心肺装置の発展によって直視下開心術も可能になった。今日では弁置換手術や心筋障害に対するバイパス手術などが日常的な手術として行われるようになり,心臓も外科医を遠ざける領域でなくなった。
脳外科は20世紀初頭に活躍したクッシングHarvey Cushing(1869-1939)を先駆者とする。脳動脈撮影法は日本の清水健太郎,佐野圭司により完成されたものであるが,これは脳腫瘍などの脳疾患の診断に欠くことのできないものである。また治療法も長足の進歩をとげ,最近では顕微鏡下の小血管吻合手術やCTの開発,CO2レーザー(ガスレーザー)の開発により,脳外科は完全に変貌し,1970年代とは比較にならぬほどの進歩をとげた。
食道癌に対しては,日本の中山恒明のくふうにより,1940年以降外科医であればだれでも手がけることのできる手術技法が開発された。手術がむずかしいとされていた膵頭部癌に対しても,ホイップルA.O.Whippleが1935年膵頭十二指腸切除術に成功して以来,術式も種々の変遷をへて完全なものとなり,高カロリー輸液療法と相まって一般病院でも行えるようになった。またメスが及ばないと断念されていた肝臓癌も,術中超音波診断による切除範囲決定や,レーザーメスの開発で広範囲切除も可能となっている。胃癌の手術に関しては,日本の成績は世界に誇りうるものである。
20世紀における2回の世界大戦や幾多の戦乱は,医学の面に限っていえば,ショックや感染症などに対する知見を豊かにし,破傷風や熱傷などに対する救急的外科処置が大いに改善された。ことに重度熱傷に対しては,無菌室での開放的療法,皮膚移植,人工皮膚,広域抗生物質の発達,輸液療法の改善などが相まって,救急治療の実をあげることができるようになった。また重篤な瘢痕(はんこん)形成や先天性奇形に対して運動機能を回復させ,みにくい瘢痕を残さないようにする形成外科という新しい分野が,1960年代以降急速に発達した。
従来の外科の専門分科といえば,主として臓器別のものであったが,最近になり横断的な分科,すなわち小児,老人に対する安全な手術のための専門分科が生まれた。ことに小児外科は新生児,乳児の先天性奇形をも扱い,以前には想像もできなかったような好成績をあげることができるようになった。
このように以前には考えられもしなかったような手術も可能となり,しかも死亡率も低下して手術効果が期待できるようになると,ただ病巣を取り去るということだけにとどまらず,新しい臓器で古い廃疾臓器を補塡(ほてん)しようとする気運が生まれた。これが臓器移植とよばれるもので,1967年南アフリカ共和国のバーナードC.Barnardが行った世界最初の(ヒトからヒトへの)同種心臓移植が強烈な印象を残しているが,臓器移植としてはこれが最初のものではなく,すでに1902年に腎臓移植の報告がなされている。臓器を移植した場合,移植した臓器を長期間生着させることがなかなかできなかった。この移植臓器に対する免疫反応(いわゆる拒絶反応)をどのようにして阻止するかが,移植を成功させる鍵として,外科医の前に立ちはだかる大きな問題となっていたが,最近ではシクロスポリンなど有効な免疫反応抑制剤の開発によって,成績は大幅に向上している。腎臓移植に関しては,腎臓移植センターの設立や,死体腎臓の移植の成功率上昇などのために,欧米では腎臓移植はほぼ一般的手術とさえ考えられるようになった。皮膚移植,輸血のように組織の一部を他人に提供しても,ごく短時間で再生し,提供者に傷跡を残さないものと違い,臓器移植の場合,腎臓のように2個ある臓器であっても,提供者の生命維持に思いもかけない障害を与えるおそれもある。97年の臓器移植法の成立によって法的な基盤は整ったが,倫理上はまだ未解決な点が残っている。また角膜のように保存の容易なものと違い,提供者から臓器を取り出す時期や保存法など,技術上の難問題も山積している。
病める人々の生命を救い,苦痛から救うために絶対に必要な手術を行うために,生体に合法的にメスを加えることが許されている外科医と社会とのつながりは,なにも臓器移植の場合に限らず,きわめて深いものであり,医師の行動はすべて病める人々を通して,社会の福祉と直結し,それに還元すべきものである。
病巣を取り除くことを主体とした今日までの外科から再建を主体とした明日の外科へ飛躍するためのもう一つの手段として,人工臓器がある。外科医が今日考えている人工臓器は,心臓なり肺なり個々の臓器の機能が廃絶したとき,その代用となる小型のものである。機械工学,電子工学,さらに高分子化学などの発達は,いくつかの人工臓器の開発を可能にした。すなわち,人工心肺,人工腎臓,人工呼吸器などである。しかし人工臓器の究極の目標は,人体に内蔵され,社会活動ができる機能をもつ小型のものであろう。将来に課せられた大きな問題といえよう。
外科医が病的な臓器や組織の一部を切除したり,場合によっては全部を摘出して,欠損を生じた〈かたわ〉の状態で病気を治す時代はやがて去り,これらの病的な臓器を他のもので補塡,置換するか,古くなった臓器の機能を新しいもので代行させる時代がくるかもしれない。そのために必要な手段(今日考えられるものとしては臓器移植か人工臓器のいずれかであろうが)を実現させるためには今後計り知れない困難の克服と不断の努力が必要であろう。幸福とは何か,人類のため貢献する道は何か,を問いながら病人を救おうとする誠実さこそ,外科医のほんとうのあり方といえよう。手術はあくまで局所療法である。この事実をふまえ外科医は技を過信してはならないし,驕(おご)ってはならない。
→外科
執筆者:相馬 智
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
医学の外科領域における治療手技をいう。外科を意味する英語のsurgeryは、「手」と「働き」を意味するギリシア語を結び付けてできた語であり、手術と同じことを意味している。手術の英語operationは「操作」を意味し、外科手術の実態を示している。このオペレーションを略して単にオペともいう。手術とは、つまり、外科医の手を用いて、生体を縫い合わせ、切り開き、切り取り、また継ぎ合わせ、覆い包むことのすべてを総称する語である。
[工藤達之]
ジャワ原人(ピテカントロプス)の大腿(だいたい)骨には、長期間にわたる化膿創(かのうそう)のために生じたと思われる骨の著しい隆起がみられた。おそらく、この原人は傷から流れ出る膿(うみ)をふき取り、なにかの繊維でつくった綿状のものを傷口に当てて、幅の広い木の葉のようなもので覆ったであろうことが想像される。また下肢の骨折をおこしたような場合も、痛みを和らげる目的で、損傷部位を綿状のもので覆い、適当な木の枝を折って1本は副(そ)え木として使い、他の1本を杖(つえ)として用いたに違いない。いずれにせよ、人類の誕生とほとんど同時に外科が発生していたと考えても間違いない。
具体的な手術例は、石器時代の頭蓋(とうがい)骨にすでにみいだされるし、発掘されたプレ・インカの頭蓋骨には明らかに人為的な開頭手術の痕跡(こんせき)がみられる。なかには、数個の開頭創をもち、しかも治癒過程を物語るように新しいものと古いものとが混じっているものもある。その古いほうの手術創をよくみると、化膿の痕跡がまったくなくて完全治癒が確認されるものがある。つまり、紀元前に人類はすでに困難な開頭手術を自信をもって行うだけの技術をもっていたことがうかがえるわけである。ただし、この開頭手術はおそらく「てんかん発作」をもつ者に対して、頭蓋内にすむ悪魔の出ていく窓口をつくってやるといった目的で行われたもので、硬膜(脳を包んで保護する厚い膜で、ここまでの手術は比較的危険が少ない)には触れていないものと思われる。したがって、今日の脳外科手術とは根本的に異なるものであることはいうまでもない。
また、バビロニアのハムラビ法典には外科医の手術料が記されており、中国でも後漢末の名医華佗(かだ)は、麻酔を施して開腹手術を行ったと伝えられている。なお、古代エジプト、ギリシア、ローマ時代にも、人体解剖とともに、手術も行われていた。しかし残念ながら、19世紀末に近代外科が誕生するまで、手術は、その様相に複雑性と多様性を増したとはいうものの、本質的にはプレ・インカのそれとほとんど変わっていないといってもよい。こうした長期間の停滞もしくは退歩ともみられる事態を招いた理由として、まず考えられるのは、宗教の影響を含めた迷信の流布である。いわゆる迷信が数千年にわたって人類に与えてきた実害は、それが同じ人間の知恵から出たものであるだけに、人間の業(ごう)というものをつくづく考えさせられる。
中世、この暗黒時代の手術は残酷の一語に尽きる。傷口はかならず烙鉄(らくてつ)とよばれる真っ赤に焼けた道具で注意深く焼かれ、止血と化膿防止(実際はその逆なのだが)が図られた。それらは身分とは無関係で、祈祷(きとう)僧が祈ったり声をかけて励ましたりするくらいがせいぜいであった。手術者も、当時のヨーロッパでは理髪師が外科医を兼ねていて、それこそ見よう見まねでやったわけである。ルネサンス以後になると各地に大学ができて、その卒業生という外科医もいたが、解剖学の心得があるのがとりえという程度であった。たとえば、傷の化膿は内部の毒素が出てくるのだからよい徴候であるとさえ考えられた。
またこの時代は、ヨーロッパには戦争や内乱が続発しており、多くの戦傷者が発生したが、大部分は戦場にそのまま放置され、傷の化膿によって死んでいった。外科医の手術が受けられる者は幸運といわなければならなかったが、その手術なるものが手足の切断術に、例の傷口の焼灼(しょうしゃく)であったわけで、幾人が生き延びられたものか。このころの負傷者の運命はまことに悲惨そのものといってよかった。
もちろん、このような外科手術に疑問をもち、その改良を考えた者もいた。近代外科の父ともよばれる16世紀フランスの外科医パレがその一人である。彼は、焼灼のかわりに創面の洗浄と血管の結紮(けっさつ)(血管を縛って血液の循環を止めること)による止血を、また傷口の保護の目的から卵黄とバラ油を混合した軟膏(なんこう)で創面を覆うことを考え、傷者の苦痛を著しく軽減させた。彼は国王アンリ2世の侍医として従軍し、外科医の地位を大いに高めた。
しかし、この時代の外科は戦陣外科であり、外傷外科の範囲にとどまった。本格的な外科手術の発足は19世紀に入ってからである。アメリカの歯科医モートンによるエーテル吸入麻酔の発明、イギリスの外科医リスターによる防腐法の外科への導入などにより、外科手術が人類にとってしだいに真の意味で無害有益な科学的かつ近代的なものに変身する。
[工藤達之]
室内のすべてのものが消毒され、滅菌された衣服や手袋で覆われた状態で手術が行われ、またこの目的に適合するように設計された手術室が誕生したのは、20世紀に入ってからであるといってよい。リスターの提唱以後、器械の煮沸消毒、手の洗浄と薬物消毒、手術部の薬物消毒、滅菌覆布などがしだいに普及してきた。しかし、医師はまだ上衣を脱いだだけ、看護婦は平常衣のままという状態が続いた。これがしだいに帽子、マスク、ゴム手袋を装用するように進んでから、今日の手術室ができあがる。この状態になるまでには、アメリカの脳外科医クッシングの卓抜な着想と努力に負うところが多い。
現代の手術室には、手洗い所や器械室、準備室を付属させ、手術中に撮影できるX線装置を備えるか、近くに別に専門室を設けるのが普通である。このほか、麻酔ガスや酸素の供給用配管および吸引装置、照明装置などを備えることが必須(ひっす)条件となっている。大病院では、一つの手術室を多目的に使うことはせず、手術の種類別に10~20の手術室を並べてつくり、中央集中化された器械室、準備室、麻酔室、レントゲン室(放射線室)などが用意される。また、不時の災害による患者を収容して治療を行う救急手術室を別個に設ける方針をとることも多い。
手術室は原則として他の部室から隔離するのが常識である。普通、医師や看護師の休憩室、着替え室、準備室、手洗い所などを第一扉の内側にとり、手術室を第二扉の内側にとる。準備室以下を第二扉の内側にとる場合もある。第二扉以内は無菌室に準じ、とくに準備した履き物、手術下着以外の服装を禁じ、消毒したマスクおよび帽子を装用する。手術室内は無菌室とし、床を消毒薬でつねに清潔にふき、ほこりのたたないように適度の湿度を保たせる。空気殺菌用に殺菌灯を用いるところもある。室内は完全空気調整下に置かれ、21~24℃の適温に保つ。近来、手術器械には照明装置を付属したもの、あるいは電動式のものが多く、その電源については防爆式のものが用いられ、また麻酔用酸素および手術用吸引装置も、接続部だけを手術室に出して配管し、ボンベ室あるいは吸引装置は遠く離し、中央集約化して効率をあげ、あわせて危険の防止を心がけている。
[工藤達之]
まず、術者と看護師の手指の洗浄をする。逆性せっけんと手洗いブラシを用いて2回、10分間の洗浄を行う。せっけんの洗流には滅菌水を使用する。蛇口の栓は足踏み式が多い。滅菌タオルで水気をとり、さらに希アルコールでふいて消毒を完全にする。滅菌手術衣、帽子、マスクを看護師の介助のもとに装用する。最後に滅菌したゴム手袋をはめて、手術準備は完了する。
なお、手術予定日の前日には術者と麻酔医の打合せが行われる。患者の心臓や肺の機能などの一般状態をはじめ、手術法、手術予定時間、輸血の必要性、血液型と供血予定者などのほか、麻酔法の選択などについて打ち合わせるわけで、血液センターに対しても必要血液型や血液量などを通報し、準備させておく。
患者に対しては前夜、前投薬として睡眠薬や鎮静薬の投与をするが、麻酔医が手術について不安を除くために説明することもある。手術当日は禁食とし、前投薬として鎮静入眠の目的でペントバルビタールや塩酸ペチジン(「オピスタン」)などを与えておく。
患者は手術棟に入ると、病衣を清潔な手術用下着とかえて手術室に送られ、手術台上に横たえられると、麻酔医が手術準備を始める。このとき患者は前投薬のため半睡眠状態であり、周囲に対する関心はほとんどない。まず患者は所定の体位をとらされ、静脈注射によって麻酔導入が行われ、完全に意識を失った状態となる。ついで気管内挿管後、適量の麻酔用ガスと酸素が混合されて呼吸運動とともに肺に送り込まれる。呼吸停止の状態下では、麻酔医がガス・バッグを押さえて肺内に送り込む。この状態になって手術野に広くヨードチンキあるいはポビドンヨード(「イソジン」など)を塗布し、5分後これを希アルコールでふき取る。これを二度繰り返す場合もある。それから滅菌した覆布で患者の全身を覆い、非消毒部から手術野への汚染を防ぐ。ただし皮切部は、適当な大きさに穴があいている覆布を用いて露出させておく。麻酔の深さが適当で、患者の状態が完全に手術に適した状態にあれば、麻酔医が術者に合図して手術が開始される。
麻酔医は手術中、患者の全身状態、麻酔の状態などを観察し、刻々その記録をとるとともに、出血の状態に応じて輸血を行い、また必要な電解質や水分も補充する。患者が手術に適さない状態にあると麻酔医が判断すれば、手術の中止を要求することもある。
[工藤達之]
現在、外科医のメスの到達が不可能な部位はなく、心臓の中でも、脳や延髄でも、必要があれば手術の対象となる。
近代手術はその当初、(1)出血を止めること、すなわち止血、(2)腫瘍(しゅよう)そのほか不良組織を切除すること、(3)破損部位の修理をすること、以上三つから発足した。その後、専門分科の進歩により、(4)形態異常の修復、あるいは機能が不良になった組織器官の修復、(5)腫瘍の完全摘除、が行われるようになって、手術治療の適応範囲が著しく広げられた。さらに、(6)腫瘍の浸潤に由来する頑固な痛みに対する鎮痛手術、あるいは不随意運動に対する手術など、特異な手術領域も開発された。また、手術材料、とくにプラスチックチューブおよび布類の開発によって、(7)脳水腫の排水手術、あるいは閉塞(へいそく)動脈に対する代用血管の埋め込み、さらに、(8)律動機能が障害された心臓に対して小型ペースメーカーを胸部に埋め込む手術などが日常的に行われるようになった。
なお、手術技術の改良も著しく、脳定位手術、手術顕微鏡を用いるマイクロサージェリーなどのほか、腫瘍組織を破壊する目的からの、液体窒素の循環するエレメントによる凍結利用のクライオサージェリーや、レーザー光線を応用する手術など、数多くの特殊手術が行われている。
以下、外科における代表的な手術について述べる。
[工藤達之]
19世紀末から開頭して脳腫瘍を除去する手術が行われていたが、安全確実な近代手術として脳手術を確立したのはクッシングである。
脳外科は脳腫瘍の摘出に始まったが、現在では血管疾患、すなわち脳動脈瘤(りゅう)、動静脈奇形の手術が激増して、脳腫瘍手術より多くなりつつある。また、高血圧性脳出血についても手術が行われるようになった。すなわち、早期に血腫を除去し、出血動脈に止血操作を施して死を免れさせ、ときには片麻痺(へんまひ)の発生も防げる。なお、外傷による脳損傷、頭蓋内血腫除去手術も重要な手術であり、そのほか、脳定位法による頑痛除去手術などがある。脳外科の手術は危険率が高いように思われがちであるが、実際上の手術死亡率は低く、数パーセントを出ない。
[工藤達之]
肺外科の手術が大部分を占める。肺の腫瘍は、空気の汚染の影響や平均寿命の大幅な延長などにより、しだいに増加しているが、手術は肺葉ごと腫瘍を除去する場合と、片肺全部を切除する場合とがある。近年、重症の気管支拡張症でも肺葉切除が行われる。
[工藤達之]
本格的な心臓手術は、動脈管開存症(ボタロー管開存症)に対する手術(1944)に始まるといってよい。弁膜の故障に対しては1948年に初めて着手された。心臓内部の手術と大動脈などの大血管の手術は、人工心肺装置が実用化(1953)されるまではできなかった。一時的な循環停止が前提条件であったからである。この装置の普及により、心臓外科、心臓血管外科が大いに進展した。心筋障害に対しては各種の手術がくふうされており、伝導系の故障には小型ペースメーカーの埋め込みによって心臓の正常拍動を維持することが可能となった。また大動脈その他の大血管の動脈瘤の切除をはじめ、代用血管の植え込み、あるいはバイパス手術なども行われている。
[工藤達之]
腹部手術はもっとも古くから行われた手術である。肝臓、膵臓(すいぞう)、胃、大腸、直腸などの癌(がん)の切除をはじめ、腸閉塞の解除あるいは閉塞部の切除、虫垂切除手術、ヘルニア手術など、比較的一般にも知られている手術が多い。おもに消化器外科で行われる手術である。
[工藤達之]
皮膚の移植(植皮術)は古くから行われており、形成手術に含まれる。そのほかの組織の移植手術でも自家移植は成功する場合が多いが、他人からの移植(同種移植)は拒絶反応があるため、きわめて困難である。この生体の防衛反応を除くために放射線照射や免疫抑制剤の投与などが行われ、腎臓(じんぞう)移植はかなりの成績を収めている。心臓移植も外国ではすでにかなりの症例に移植が行われ、長期生存例もある。日本では、1968年(昭和43)に初の心臓移植が行われたが、脳死手続などさまざまな問題が指摘され進展しなかった。しかし、1997年(平成9)に脳死者からの臓器移植を可能とする「臓器移植法」が制定され、1999年にようやく3例の心臓移植が行われた(2009年3月末までに計65例施行)。そのほか肝臓移植、肺移植、心肺移植、膵臓移植、小腸移植などの臓器移植や、角膜移植、造血幹細胞移植(骨髄移植、末梢血幹細胞移植、臍帯血幹細胞移植)、皮膚移植、心臓弁移植、血管移植などの組織移植も行われている。
[工藤達之]
『林四郎著『手術――その歴史と展開』(1974・日本放送出版協会)』▽『ロバート・ヤンソン著、中川治子・上野安子訳『手術がわかる本』(1995・マール社)』▽『新太喜治編『手術室』(1995・メディカ出版)』▽『龍野勝彦著『心臓外科エキスパートナーシング』改訂第2版(1996・南江堂)』▽『日本外科学会著『外科手術用語集』改訂第3版(1997・金原出版)』▽『小越章平著『手術のポイントと記録の書き方』(1998・医学書院)』▽『W・J・ビショップ著、川満富裕訳『外科の歴史』(2005・時空出版)』▽『龍野勝彦他著『心臓血管外科テキスト』(2007・中外医学社)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…しかし,多くの身体機能の障害は症状をもってよばれ,これらに対しては,占星術や予兆論的な判断とともに,合理的な治療法も多く講じられている。とくに,香油塗擦,マッサージ,沐浴,罨法(あんポう),浣腸などの処置はかなり一般的であり,ハンムラピ法典などの記載から,白内障の手術や骨折整復などもおこなわれていたことが知られる。メソポタミアにおけるバビロニア以前の古代国家の文明について,最近多くの発掘や資料の解読がおこなわれ,医学的な知識についても,かなり合理的な経験の蓄積があったことが知られている。…
※「手術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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