押淵村(読み)おしぶちむら

日本歴史地名大系 「押淵村」の解説

押淵村
おしぶちむら

[現在地名]南勢町押淵

始神はじかみ村の南の山間部にある。西方迫間はざま浦・さざら浦・相賀おうか浦に至り、南は三浦みうら峠を経て大江おおや(現南島町)に至る分岐点にあたる。「続日本紀」天平宝字三年(七五九)一〇月一五日条に、

<資料は省略されています>

と記される葦淵あしぶちが古称と思われ、当地が伊勢・志摩両国の国界にあたっていたことが知られる。「神鳳鈔」に「押淵御薗」とある。室町時代には「内宮年中神役下行記」(神宮文庫蔵)に「御笠菅内瀬ヨリ進ム、押淵役歟」とあり、「内宮諸祭下行神戸御贄記」(同蔵)に「四月十四日御笠ノ条、菅ハ内瀬ノ役目、自押淵備、又云、笠・菅ハ内瀬ヨリ進ム、鴦淵勤」とみえ、押淵は内瀬ないぜとともに神領で、毎年四月一四日に笠用の菅を献進した。


押淵村
おしぶちむら

[現在地名]津山市押渕おしぶち

北は荒神山こうじんやま村・金屋かなや村、南は塚角つかつの(現久米郡柵原町)、東を吉井川が南流する。元禄一四年(一七〇一)から宝永六年(一七〇九)まで甲斐甲府藩徳川綱豊領、その後幕府領となり、延享四年(一七四七)から文化九年(一八一二)まで相模国小田原藩領、文政元年(一八一八)以後は幕府領で播磨国龍野藩預(美作国郷村支配記)正保郷帳では田方四一石余・畑方四九石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では一二四石余、うち改出高二六石余・開高七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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