中国で1978年から開始された経済政策。鄧小平の主導により市場経済への移行が図られた。当初は「改革開放」という表現が明確に用いられたわけではなく、1979年の人民公社の解体に始まる農村の体制「改革」、対外「開放」政策を初めとして、それぞれ用いられるようになった。
[天児 慧 2018年4月18日]
第一次天安門事件(1976年4月)で失脚し、1977年7月の第10期中央委員会第3回全体会議(三中全会)で復活した鄧小平(とうしょうへい)は、ただちに周恩来(しゅうおんらい)が提唱した工業、農業、科学技術、国防の「四つの近代化」を柱に掲げ、路線の大転換と華国鋒(かこくほう)体制の切り崩しに集中的に取り組んだ。その重大な転換点となったのが1978年10月から11月にかけて開かれた党中央工作会議と、12月の第11期三中全会であった。前者は毛沢東(もうたくとう)路線の継承にこだわる華国鋒指導部との決戦場となった。鄧小平は、保守派ではあったが毛沢東路線に批判的であった陳雲(ちんうん)らとも連携し、革命路線から近代化路線へ、大衆的な階級闘争から改革開放路線への転換に成功し、華国鋒の指導権を大幅に奪った。第11期三中全会では中央工作会議での勝利を受けて改革開放路線へ明確に舵(かじ)をきった。
路線は明確な転換であったが、やり方は慎重で漸進的であった。まず農村における人民公社制度の改革で、すでに安徽(あんき)省などで事実上取り組まれていた「家庭請負責任生産制」(農村の政府が各家庭に農業経営を請け負わせ、上納義務のほかは自由に生産活動ができる仕組み)を各地に拡大した結果、大多数の農民に歓迎され、1982年の全国人民代表大会(全人代)で正式に人民公社の解体が宣言された。それは1980年代の農業における商品作物の栽培など農業の多角化、郷鎮(ごうちん)企業の勃興(ぼっこう)の基盤となった。
人民公社の縛りを解き放った後、鄧がさし示したものは「先富論」であった。「先に豊かになれる地域/人は先に豊かになってよい」という彼の考えは人々の生産意欲を大いに刺激するもので、毛沢東の「大釜の飯を一緒に食う」という平等主義と対照的であった。
対外開放も早くから鄧小平が提唱していたが、やり方は慎重で、全土を覆う社会主義計画経済のなかに、沿海部を中心にまず資本主義の拠点をつくり、それを徐々に拡大して線にし、やがて面にしていくという方式をとった。最初の点が四つの経済特別区(深圳(しんせん)、珠海(しゅかい)、厦門(アモイ)、汕東(スワトウ)の4地区。経済特区とも)であった。深圳は香港(ホンコン)に、珠海はマカオに、厦門は台湾に、汕東は世界の華人につながっていくという戦略がみえた。
華国鋒時代の「洋躍進」とよばれる経済政策(大量の外国先進プラント導入による重工業発展をねらった政策)の負債を負ってのスタートは、経済建設資金・人材・技術の不足が最初から深刻で、一時は陳雲の提唱する「経済調整期」に入ることを余儀なくされるかにみえた。しかし、このとき日本の政財界のリーダーたちが中国経済の近代化への全面支援という積極的な態度をとり、大規模な対中ODA(政府開発援助)供与の決定に踏み込んだ。経済インフラ支援、各技術支援などを中心に、以後2008年の終了まで3兆円余りが投入され、中国の経済発展、近代化の重要な推進力となった。
[天児 慧 2018年4月18日]
1982年、共産党第12回全国代表大会(党大会)が開かれ、華国鋒をはじめ文革派、毛沢東後継一派が指導部から一掃され、いわゆる鄧小平体制が確立した。しかし、すでに78歳という高齢に達していた鄧は、改革開放の推進を胡耀邦(こようほう)と趙紫陽(ちょうしよう)に託すことを決めた。胡耀邦=党総書記、趙紫陽=国務院総理(首相)、鄧小平=中央軍事委員会主席という形でのいわゆる「鄧胡趙トロイカ体制」が確立した。
1984年、第12期三中全会が開かれ、「経済体制改革に関する決定」が採択された。それは改革開放、とくに都市における改革をいっそう推し進めるための指針であった。いまだに市場経済=資本主義というイデオロギー規制があったために、ここでは商品経済という表現を導入し、生産物の商品化、商品市場の拡大などを力説した。同時に大連(だいれん)、天津(てんしん)、上海(シャンハイ)など「沿海14都市の対外開放」を決定し、開放の促進を図った。経済活性化のための行政改革にも取り組み始め、「放権譲利」(権限を下級に与え、経済利益も下級に多く譲る)という政策、とくに省・市・県などへの「地方財政請負制」をとり、地方政府の自由裁量拡大を重視するようになった。
[天児 慧 2018年4月18日]
1985年ころから経済では、商品化や市場化をいっそう強めようとする鄧小平・趙紫陽ら改革派と、これらは社会主義計画経済の枠内で行うべき(いわゆる「鳥籠(とりかご)論」)とする陳雲ら保守派との対立が顕在化していた。
都市は農村と異なり人為的につくられた側面が多いため、企業制度、生産・流通制度、価格制度、賃金制度、住宅制度、行政制度などが社会主義計画経済という枠組みのなかでモザイク状に組み合わされて全体を形づくっており、一部門の改革はただちに他に連動するといった複雑な困難性を伴ったものであった。したがって改革は慎重に漸進的に取り組まざるをえなかった。たとえば「試点」(実験区)方式である。ある都市を価格改革試点、住宅改革試点、行政改革試点などに指定し、まずさまざまなやり方をここで試みる。うまくいけばそれを他の都市に広げるといったやり方である。
あるいはもう一つの漸進的方法として、価格制度の漸進的改革で取り入れた「双軌制」(指令性価格と市場価格の併用)の採用がある。一挙に市場価格を取り入れることからくる混乱を避けるためにとられた方法である。しかし、それに伴う問題や矛盾も顕在化してきた。役人ブローカー(官倒)や彼らの特別な関係者らは、安価な指令性価格で手に入れた大量の物品を市場に横流しして莫大(ばくだい)な利益を得た。彼らの腐敗・汚職の広がり、市場では市民たちが急激な物価上昇に翻弄(ほんろう)されるなど、社会混乱が目だってきた。
[天児 慧 2018年4月18日]
経済改革の行き詰まりは、政治改革の必要性を高めた。もともと政治改革の必要性を説いていた鄧小平は、1986年7月に「体制改革は5年以内に完成させる。そのなかには政治改革も含まれる」と発言した。以後、党関係者、知識人たちの間で政治体制改革論議が燃え盛り、「政治体制改革と経済体制改革は車の両輪である」(『人民日報』)といった考えが広まっていった。もっとも積極的な推唱者は胡耀邦であった。多くの政治、経済学者らも活発に発言を始めた。社会科学院のシンポジウムでも「三権分立論」「チェック・アンド・バランス(抑制と均衡)論」が堂々と展開され、経済の民主化のためにこそ政治の民主化が必要であるとの主張が一定の支持を得るようになった。
しかし、政治改革論議は当然にも「党の指導」に触れ、党内、学界、学生らの間で論争が高まり、政治混乱を引き起こした。1987年1月、前年末に全国で高まった民主化要求の学生運動に同情的で軟弱な態度をとったなどの理由で胡耀邦が失脚した。改革派の後退かとみられたが、鄧は後継に趙紫陽を指名し、改革開放の推進を内外にアピールした。1987年秋の第13回党大会の趙紫陽による「政治報告」では、斬新(ざんしん)な「党政分離」などの政治体制改革方案も盛り込まれていた。さらには今日でも党の基本路線として主張されている、いわゆる「社会主義初級段階論」(資本主義的な諸政策でさえ、経済発展に有利な政策・活動は容認されるという主張)がこのとき提起された。
対外開放も一段と進められた。「両頭在外」とよばれる、質のよい資材を海外に求め、品質のよい製品を沿海部の企業で製造し、海外市場に送り出すという経済戦略をとった。また海南島を省に昇格させ、全島を経済特別区に指定し、海外からの直接投資を呼び込んだ。
しかし、こうした経済発展は、やがて深刻な経済腐敗や格差拡大、物価の高騰を引き起こし、社会不安、混乱も高まっていった。そうしたなかで、1988年には民主化要求が高まる一方で、これに対立する主張として「今は経済近代化のために政治の安定こそ重要で、そのためには新権威主義独裁(開発独裁)こそ主張されるべき」といった意見も叫ばれるようになってきた。この主張者の一人が、習近平(しゅうきんぺい)政権のもっとも重要なブレーンとなった王滬寧(おうこねい)(1955― )である。
[天児 慧 2018年4月18日]
1989年に入り学生や改革派知識人らの民主化要求の声が高まるなかで、鄧小平は「安定こそがいっさいに勝る」という姿勢を強めるようになった。しかし、4月8日政治局会議において心筋梗塞(こうそく)で倒れ、15日に死去した胡耀邦の名誉回復を求めて北京(ペキン)の学生たちが広範なデモを行い、あわせて民主化要求の声を高めながら天安門広場を占拠した。中国当局は抑制した行動で学生らの動向を見守っていたが、徐々に強硬の方針を固め、鄧は学生の運動を「動乱」と断定した。これに対して趙紫陽は学生らの行動を「愛国的民主運動」と表現した。5月19日、訪中していたソ連書記長ゴルバチョフの帰国を待って、中国当局は北京に戒厳令を敷き、緊張は一挙に高まった。6月3日未明から6月4日にかけて人民解放軍を北京市内に投入した。学生らの運動は力づくで制圧され、多くの犠牲者を出した(第二次天安門事件)。
世界はこの中国当局の暴挙ともいえる行動を強く非難し、先進7か国は歩調をあわせて世界銀行による融資を停止した。日本も対中ODAの停止などの経済制裁を行った。ただし、そのなかでも日本は「中国を孤立化させない」ことを訴えて、翌1990年11月にODA停止の解除に踏み切った。しかし、国外からは依然天安門事件の衝撃から対中関係の回復に消極的な空気が強く、さらに国内からは貧富の格差拡大に批判的な社会主義保守派の圧力も強く、中国経済は低迷し改革開放は苦境にたたされることとなった。
[天児 慧 2018年4月18日]
1992年の春節に鄧小平は88歳の老体にむち打ち、上海、深圳、珠海など南方の開放区を視察し、「改革開放を加速せよ」と最後の檄(げき)を飛ばした。いわゆる「南巡講話」である。とくに地方の都市がこの呼びかけに積極的にこたえた。鄧は講話のなかで、「資本主義にも計画があるように社会主義にも市場があってよい。計画も市場も経済発展の手段にすぎない」、「姓が社会主義か、姓が資本主義かの論争(姓社姓資論争)をしてはならない」といった明確な脱イデオロギーを主張した。これがその年の秋に開かれた第14回党大会で党の基本路線として採択された「社会主義市場経済論」であった。
こうした鄧小平の「お墨付き」によって、地方各地で経済開放区が次々と設置され、海外からの直接投資は拡大し、天安門事件の後遺症から脱却した。とくにこの時期は、上海浦東(ほとう)区の開発が経済発展を牽引(けんいん)した。
[天児 慧 2018年4月18日]
1978年から始まった高度経済成長は1991年までは年平均9.3%であったが、1992年から2001年まではさらに伸びて10.4%を記録するまでになった。しかし投資の過熱による高インフレも起こり(1994年は24.1%を記録)、賃金改善を要求する労働者の増加、環境汚染の深刻化などが顕在化し、いよいよ経済成長は「天井」を迎えるかに思われた。しかし、21世紀に入っても経済は低迷するどころかいっそう成長のアクセルが踏まれたのである。
その最大の理由は世界貿易機関(WTO)への加盟実現であろう。1994年以降、中国はWTOの前身であるガット(関税および貿易に関する一般協定)への加盟に本格的に乗り出したが、社会主義経済の国にどこまで資格があるか延々とした議論を余儀なくされた。しかし2001年11月、念願のWTO加盟が承認された。加盟によって、手続の不透明性や、契約・交渉の突然の変更や破棄、一方的な数量制限など、市場経済には不適合な国内の諸制度などの大幅な改善が見込まれ、そのうえ大幅な関税の引下げなども進み、経済の活性化が予測された。事実、直接投資の受け入れは大幅に増加した。2003年にアメリカを抜いて世界一の受け入れ国となり、同年には実行金額が過去最高の535億ドル、2004年には606億ドルにまで急増した。国内の外資系企業数も2004年までの累計でほぼ51万社に上った。WTO加盟による国際的圧力で国内の改革障壁を突破したといっても過言ではないであろう。これを国内的に支えたのが大量の農民工の出現であった。すなわち農村からの移動に制約があった農民たちが、大量の安価な労働力(農民工)として沿海都市に流入したことによって、外資系製造業が飛躍的に発展していった。国内総生産(GDP)は2002年9.1%増、2003年10.0%増とふたたび上昇し、2007年には14.2%増といった驚異の持続的成長を実現したのである。
[天児 慧 2018年4月18日]
中国を世界第2位の経済力を有する国に押し上げたこと自体が改革開放の最大の成果であるといえよう。経済成長の現実は当時の最高指導者たちの予測をもはるかに超えていた。2001年春の全人代で国務院総理の朱鎔基(しゅようき)は、2010年にGDPを2000年(1兆ドル)比で倍増させると宣言した。また2002年の第16回党大会の「政治報告」では、2020年に2000年の4倍にすると意欲を示した。2020年には日本の経済規模にかなり近づくという目標であったが、現実はこうした予想さえ大幅に上回った。2010年にはGDPで5兆8000億ドルを超え、日本を抜いて世界第2位の経済大国となった。その後規模としての経済力では中国は日本との差を広げていく一方で、2015年にはGDPが11兆ドルを超え、アメリカとの差を大幅に縮小させている。この時期にアメリカ、EU(ヨーロッパ連合)、日本をはじめ、周辺各国にとっての貿易相手国第1位や第2位がことごとく中国となっていることは、そのパフォーマンスの大きさの証左といえる。
長期に及ぶ貿易黒字は中国の外貨準備高を急速に増大させた。1960年代以来、世界第2位の経済大国の座を保持し続けていた日本を、2006年に外貨準備高で1兆ドルを超えて抜き去り、2016年で3兆ドル強となっている。また並行して海外進出も目だつようになり、インターネット関連産業、運輸・輸送産業などが「走出去」(外へ出ていく)の先鋒(せんぽう)隊として海外市場に参入している。
[天児 慧 2018年4月18日]
一方で、改革の核心ともいわれ続けてきた国有企業の改革は容易に進んでいない。朱鎔基時代に本格的に取り組まれたが、WTO加盟によって国際競争力が求められ、「抓大放小(そうだいほうしょう)」(大企業を優遇し、中小企業は市場に放つ)の方針が強調されるようになった。そのため大型基幹産業は政府の庇護(ひご)下で強化され、とくに江沢民(こうたくみん)時代に膨大な既得権益をもつようになった。石油派、石炭派、電力派、海外資源開発といったエネルギー部門、交通運輸部門、さまざまな経営を行う軍部などはそれらの典型である。習近平は就任直後から反腐敗闘争を呼びかけ、既得権益グループの有力者の打倒に力を注いだ。こうした反腐敗の試みが、真に既得権益層を打撃し、本格的な国有企業改革につながるか否かはまだ不透明である。
低いレートで抑えられてきた人民元の切上げを含めた人民元改革の問題も、この間、頭を悩まし続けてきた課題である。人民元が切り上げられれば当然輸出にブレーキがかかり、中国経済の牽引車であった労働集約型産業が打撃を被る。人民元の国際化に向けた改革に踏み込まねば国際社会からの圧力も一段と強まるであろう。いかにして産業の構造転換を図り、切上げリスクを克服し国際経済におけるチャイナ・インパクトを強めるかが喫緊の課題になってきている。
[天児 慧 2018年4月18日]
さらに、こうした経済の目覚ましい発展の裏側には、強引に成長路線を走り続けた結果、それに伴うさまざまな弊害や犠牲が発生し深刻化していった現実があった。
第一は、経済・社会的な格差の増大である。「先富論」は確かに一部の大金持ち、特権階級を生み出したが、他方で低賃金、都市医療・教育が受けられない農民戸籍に苦しむ農民工のような膨大な低所得層を生み出した。所得格差を示すジニ係数は2007~2014年で、国家統計局の調査結果でも社会不安定化水準0.4を大きく上回る0.491~0.469を記録し、四川(しせん)省の西南財経大学による調査では2010年に0.61にまで悪化した報告がある。
第二は、環境破壊である。北京、上海、深圳など大都市での大気汚染はすでに有名であるが、成長優先で排ガス・工場排水などの規制や厳格な処罰などを怠ったつけが今日の苦しみとなってきている。空気・水・土地の汚染は人々の日常生活を脅かすまでになり、『人民日報』でさえ2013年に癌(がん)が多発している「癌村」とよばれる地域が全国で少なくとも247か所あると報じた。
第三に、急激に都市化が進んだ一方で、交通・生活インフラ、医療、衛生、教育など包括的で近代的な都市計画が十分に練られてこなかったこと、経済近代化のために人口増加を抑制することを目的としてとられた「ひとりっ子」政策が人口・家族などでのいびつな社会構成を生み出したことである。「小皇帝」とよばれた子供たちの成人化、施設・人員・システムとしての受け皿が未熟なままで突入する高齢化社会など、頭の痛い問題が山積している。まさに経済成長途上の段階で早くも「深刻な都市問題」や、「少子高齢化」問題を抱えることとなった。
[天児 慧 2018年4月18日]
加えて、政治改革の停滞問題がある。習近平指導部は2014年の第18期四中全会で「理論を貫徹し、整った法律規範システム、効率的な法治実施システム、厳密な法治監督システム、力強い法治保障システムを形成する」と力強く宣言した。もっともその大前提に「共産党による指導の下」という用語をつけることは忘れていなかった。そしてほぼ同じころから、法に基づいて不当な被害を受けている人々にさまざまな支援をしてきた弁護士、学者、専門家らを拘束、逮捕、投獄するといった強引な権力行使が頻繁に繰り返されるようになってきた。確かに1989年の天安門事件以来、鄧小平自身、政治体制改革の必要性・推進をいわなくなった。以後、胡錦濤・温家宝(おんかほう)の時代に「民主主義はよいもの、普遍的概念である」(兪可平(ゆかへい))といった主張がみられたが、民主化を進めるような制度的改革はほとんどみられなくなった。習近平政権は明らかに民主化に対する締め付けを行い、彼自身への集権化を進めている。とりわけ、2017年11月の第19回党大会前後で習近平を「党の核心」とし、習近平の冠のついた思想を党規約に盛り込み、彼への権威化、集権化は一段と進んだ。
しかし、民主化を推進しようとする勢力が党内に存在していることは確かである。社会においても陰に陽に民主化につながるさまざまな活動が浸透している。締め付けが厳しくなるなかでのソーシャルメディアによるインフォーマルな「自由言論空間」の浸透も無視できない。それでも今のところ政治改革に関しては、党自身がシナリオを描くことができなくなった。加えて非共産党の勢力もなんらかの方向にまとまっていく様相もみえてこない。第2期政権の後、一段と習近平の独裁化が進むのか、それとも混沌(こんとん)とした状況が出現するのか、見通しのきかない時代に入っているのが現状である。
[天児 慧 2018年4月18日]
『丸川知雄著『現代中国経済』(2013・有斐閣)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
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