新田庄(読み)につたのしよう

日本歴史地名大系 「新田庄」の解説

新田庄
につたのしよう

大間々おおまま扇状地から利根川にかけての一帯に成立した庄園。現新田郡全域と太田市、佐波さわさかい町の一部を含む。庄名の初見は保元二年(一一五七)三月八日の左衛門督家政所下文(由良文書)で、「上野国新田御庄官等」に宛てて源義重(新田義重)を「下司職」に補任したものである。左衛門督家は花山院藤原忠雅家で、これが領家である。義重は「依為地主補任下司職」とあるように、現地の「地主」(開発領主)であった。この段階の新田庄の領域は「にたのみそうハゆつりたるなり」とらいわう御前の母に譲渡した、仁安三年(一一六八)六月二〇日の新田義重置文(長楽寺文書)に載せる所領すべてをさすと考えられている。すなわち女塚おなづか三木みつぎ上今井かみいまい上平塚かみひらづか・下平塚・八木沼やぎぬま(現境町)江田えだ上・下・田中たなか木崎きざき長福寺ちようふくじ多古宇たこう(現新田町)大館おおたち粕川かすかわ押切おしきり出塚いでづか世良田せらだ・下今井(現尾島町)小角こすみ(現埼玉県深谷市)の一九郷である。これらの地名ははや川と石田いしだ川の水系に分布しており、律令制下新田郡の西半分に位置する。この一九郷を「こかんのかう」(空閑の郷)と義重はよんでおり、開発予定地(開発進行地)である。また義重はこのうち女塚・押切・世良田・上平塚・三木・下平塚の六郷はらいわう御前(世良田義季)に仁安三年六月二〇日に譲っており(「新田義重譲状」長楽寺文書)、この六郷はらいわう御前とその母の共有(共同知行)、一三郷は母親の単独所有ということになった。

また応永年間(一三九四―一四二八)のものと推定される九条家文書中の年欠一二月一九日玄珎書状には「金剛心院(中略)上野国新田庄反銭事」とみえ、一五世紀初頭まで金剛心こんごうしん院領であったことも判明する。金剛心院は鳥羽法皇の御願寺で、久寿元年(一一五四)の建立。金剛心院建立後まもない時期(一二世紀後半)に、同院の庄園となったと考えられる。新田庄は金剛心院を本家、左衛門督家を領家、新田義重を下司として、一二世紀後半に成立したと考えられよう。

嘉応二年(一一七〇)になると新田庄は大きく発展する。同年の目録をもとに享徳四年(一四五五)に注進した新田庄田畠在家注文(正木文書)に記載されている郷は、大田おおた郷・東牛沢ひがしうしざわ郷・西牛沢郷・成塚なりづか郷・額戸ごうど郷・浜田はまだ郷・二児ふたご(子)づか郷・鶴生田つるうだ郷・石塩いししお郷・大島おおしま郷・由良ゆら郷・高林たかはやし郷・長手ながて郷・飯塚いいづか郷・岩瀬川いわせがわ(現太田市)一井いちのい郷・青根あおね郷・村田むらた郷・綿打わたうち郷・花香塚はなかづか(現新田町)田島たじま(現新田町・太田市)犬間いぬま郷・前裁せんざい(現尾島町)藪塚やぶづか(現藪塚本町)鹿田しかだ郷・北鹿田郷・阿佐美あざみ(現笠懸村)小泉こいずみ郷・田部井ためがい(現佐波郡東村)、女塚郷・木島きじま郷・今井郷(現同郡境町)足垂あしだれ(現桐生市)新川につかわ(現勢多郡新里村)高島たかしま郷・横瀬よこぜ(現深谷市)藤心ふじこころ郷・菱島ひしじま郷・小倉こくら(現不明)の三九郷である。

新田庄
につたのしよう

古代の城崎きのさき郡新田郷(和名抄)の地域が庄園となったもので、円山まるやま川右岸、三開みひらき山・衣笠きぬがさ山西方の、但馬一の穀倉地帯を占める。「但馬考」は江本えもと今森いまもり塩津しおつ立野たちのを「新田庄と云」、駄坂ださか木内きなし大篠岡おおしのか中谷なかんだに河谷こうだに百合地ゆるじを「六方と云」(六方の解釈については後述)としている。皇室領の一である京都長講堂領。建久二年(一一九一)一〇月の長講堂領目録(島田文書)に、朝来あさご(現朝来町)とともに「朝来・新田庄」とみえ、両庄として、後白河法皇が六条殿内に設けた持仏堂である長講堂に対する、元三雑事(御簾五間・御座三枚〔改四枚〕・砂六両)、廻御菜一日(毎月八日)、門兵士六人(四足三人・同北門三人、閏月各三〇ヵ日)、御更衣畳四枚(紫、一〇月料)の課役が記されている。朝来・新田庄は後白河法皇の寵妃高階栄子(丹後局)が知行し、建久三年三月には他の高階栄子知行地とともに、院庁下文(大徳寺文書)によって勅事・院事・国役等の課役と国郡司・甲乙諸人等の妨げが停止されている。長講堂領は同年高階栄子所生の宣陽門院覲子内親王に譲られ、ついで後深草天皇が伝領し、持明院統の重要な財源となる。

新田庄の領家職は、鎌倉前期には建保六年(一二一八)に太政大臣となった三条公房がもっていたかと思われ、鎌倉中期にはその子で近江延暦寺で権僧正となった実雲が領家であった。一方地頭は幕府引付衆の甲斐三郎左衛門尉(為重)であったが、領家との間に所務相論が起こり、建治元年(一二七五)「於年貢之(現)物色代者、可任本所意之」という幕府の裁決を受けた。領家勝訴のこの裁決は当時有名だったとみえて、弘安二年(一二七九)奈良東大寺学侶の茜部あかなべ(現岐阜県大垣市)をめぐる越訴に、傍例として引用されている(同年正月日「東大寺学侶等越訴状案」東大寺文書)。しかし結局領家と地頭との間で下地中分が行われた。弘安八年の但馬国太田文では「新田庄 百六拾四町百六拾六歩内 但中分地」とみえ、「(長講)堂領」「領家三条太政入道殿御女子」「地頭肥後三郎兵衛尉為重跡」と注記があり、田地の内訳は領家方・地頭方・公文分に大別される。領家方は一〇四町七反一二〇歩(「但除公文分定」とある)で、内訳は常荒一町、寺田一二町八反一六〇歩、神田六町六反二四〇歩、人給四町八反、井料一町五反、定田七七町九反八〇歩。地頭方は五九町三反五六歩で、さらに三分割されている。一分方二四町八反小は、仏神以下除六町五反小・定田一八町三反からなり、地頭は肥後三郎左衛門為重女子周防守妻女。

新田庄
にうたのしよう

遺称地は不明であるが、史料上の地名からすると、当初は吉井川左岸の現和気わけ郡和気町の安養あんよう寺一帯から同郡佐伯さえき町東部の田土たど一帯を庄域とし(本庄)、のち現備前市中央部の蕃山しげやま友延とものぶから南は海辺に至る地を中心とする新庄が成立した。なお日笠ひかさ保、吉永よしなが保、藤野ふじの保、三石みついし保が庄内とされるが(「蔭涼軒日録」長禄三年六月二七日条など)、相互の関係などは不明。

建仁三年(一二〇三)の備前国麦惣散用帳(東大史料編纂所蔵)に、国惣分の除分として新田庄地頭分九九石余、ほかに津納の新田庄納九九石余がみえる。宝治二年(一二四八)一一月の預所沙弥某の寄進状(安養寺文書)によって、北条泰時の菩提を弔うため田三町・畠三町六反が庄内の安養寺に寄進された。山陽道に近い安養寺は、鎌倉時代を通じて北条得宗家と結ぶことにより発展を遂げる。近隣の在地領主らによる寄進も、寺運をますます盛んにした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報