新賀村(読み)しんがむら

日本歴史地名大系 「新賀村」の解説

新賀村
しんがむら

[現在地名]橿原市新賀町

耳成山西北麓に立地。西は上品寺じようぼんじ村。「経覚私要鈔」文安六年(一四四九)二月一七日条に「越智猶合戦為之、今日昨日焼残共新賀已下焼払」とあり、興福寺一乗院方国民越智家栄と大乗院方国民十市遠清との戦いの舞台となった。「多聞院日記」元亀二年(一五七一)八月五日条に「十市ヘハ近日越智ヨリ取懸、新賀ニ城拵」、同年一一月一六日条に「昨日平城ヨリ新賀ヘ取寄了、仍為祈祷俄大般若転読了」とみえ、新賀城のあったことを記すが、小字しろが残る。

文禄四年(一五九五)検地奉行長束正家。慶長期(一五九六―一六一五)は五条二見藩(松倉重政)領。

新賀村
しんがむら

[現在地名]笠岡市新賀

尾坂おさか村の東、小田おだ川支流尾坂川の流域に位置し、西は門田もんでん(現井原市)。新賀など四ヵ村の帰属をめぐる大原来迎おおはららいこう院と同勝林しようりん(ともに現京都市左京区)との係争で、永享三年(一四三一)五月二五日幕府は、暦応三年(一三四〇)一二月四日の院宣の旨に任せ、来迎院に返付するよう決定している(御前落居記録)

寛永二〇年(一六四三)より幕府領、天和三年(一六八三)からは庭瀬藩領、貞享三年(一六八六)より文政一〇年(一八二七)まで幕府領、同年以降三卿の一橋領となったと考えられる。寛永備中国絵図では新加村とみえ、高四二六石余、旗本宮城領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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