類型化した、または集団的な生活地点の移動、つまり旅は人類文化の重要な要素である。魚・鳥類の季節的回帰運動、個体数急増時のタビネズミ(レミング)の集団移動に典型的にみられるように、旅は動物の一般的行動様式だが、人類の旅は、身体の移動に加えて、身体外の多様な物質文化を運搬する方法(身体の一部と繊維製品を複合させた歩行運搬がもっとも一般的)を発達させた点で、他の動物の旅と異なる。
未開社会では旅が生活維持のうえで不可欠であったことも多い。移動的採集狩猟民(アフリカ南西部、オーストラリア、南米南端部に多かった)のバンド(各種の関係にある数家族よりなる小グループ)の旅は、テリトリーをもつ動物一般の採食行動に似ていたが、生活用具運搬の組織的技術がある点で、完成した人類の旅であった。定住生活と移動生活を季節的に交代させる半移動民族(北極圏、北米西部に多かった)、二つの定住地間を季節的に移動する半定住民族(北米大平原に多かった)でも、旅は生活維持の絶対的条件であり、北アメリカ極北諸民族などでは移動・運搬手段・特異な住居が発達した。定住民族では食糧獲得目的の旅は重要ではないが、その民族の技術で運搬しうる多様な物資(とくに良質の石器材料、装飾品)交易を目的とする広範囲の旅、あるいは男性の狩猟、戦闘行動、成人式の一部をな(し配偶者を探し出)す旅を類型化、組織化するのが一般的であった。
都市、農村からなる複合社会は、組織化、制度化した人間の旅を伴った大量物資(とくに食糧)の都市集中を前提として成立した。具体的には、農産物搬入・納税・季節労働などを目的とした農村居住者の都市への旅、手工業品の原材料入手と販売・支配に伴う調査・巡視など都市住民の農村への旅、さらに都市間関係を維持する都市居住者の都市間の旅、が不可欠であり、一部では娯楽としての旅も成立した。複合社会内部によくみられる手工業者・芸能者の移動生活は、芸術家の漂泊の多くと同じく、定住営業の成立しにくい低密度の需要に応ずる機能をもつが、移動生活に民族的説明が付されることが多い。複合社会外部には一般に低密度の各種未開社会が分布したが、発達した移動・運搬手段を含む非定住的文化、とくに遊牧民文化が展開することがあり、この「旅の民族」が複合社会内部に侵入した「民族移動」が重大な歴史的事件に発展することも多かった。複合社会ではこのほか次の2種類の旅が注目される。複合社会の形成・維持機能ももつ宗教的な旅は、都市形成の中心となる祭祀(さいし)施設への一般住民の旅(巡礼)、宗教施設・特定地点間の神格の旅(神輿(みこし)の旅など)、および神格の旅同様の聖職者の旅などに分類すべきだろう。複合社会の破壊・再編成機能ももつ暴力行使に関係する旅は、暴力行使を目的とする旅(行軍)、暴力行使を原因とする旅(避難、亡命)、暴力行使を脅迫的背景とする旅(強制移住)に分類できる。
[佐々木明]
農業中心の社会になってからは、集落定住の生活が一般化し、やがて都市の形成もみられるが、なお山野海浜の資源を求め歩く特殊職業者の群れもかなりあり、近世末にも及んだ。マタギ(狩人(かりゅうど))・木地師(きじし)・檜物師(ひものし)・杣(そま)師などの山職人、家船(えぶね)・手揚(てぐり)船など海上漂泊の特殊漁人などで、資源を追って転々居を移す漂泊生活をむしろ常態とした。旧時の金掘り、たたら師などの鉱山職人の群れも同じく旅稼ぎを常としたらしいが、やがて特定の鉱山に定着した。しかし、山野漂泊のセブリ(野営)生活に固執してきたサンカ(箕(み)作り)のような例外もあるが、明治以後はこうした特殊職人団の旅生活はほとんど終わった。古くは商人・工人の仕事場も「旅」が主で、「市(いち)」の交易のほか数多くの行商人(ぎょうしょうにん)・旅職人(たびしょくにん)が国中を往来して農民の需要にこたえ、近世都市の発達で居店(いみせ)・居職(いじょく)の形が一般化してもなお、行商人・旅職人は広く村々を歴訪していた。季節出稼ぎの形がそこには多く、また巡回する場所もおおむね一定していて、農民との間に久しきにわたる交流も生じた。
諸国の霊山を本拠とする修験(しゅげん)(山伏)や伊勢(いせ)・鹿島(かしま)・諏訪(すわ)・春日(かすが)などの名神大社の御師(おし)・神人(じにん)の信仰宣布の旅の来往は、中世以後とくに著しく、いわゆる「霞場(かすみば)」巡回の宗教者の旅生活が広く展開されていった。また浄土信仰の高まりとともに念仏聖(ひじり)の徒の旅の布教も盛んになり、時宗(じしゅう)のように「遊行(ゆぎょう)」を常態とするものさえ生ずる。浄土真宗の初期でも、寺院本拠を拒否して、村々の「道場」を転々しての念仏布教をむしろ主としていた。こうした遊行の念仏聖の徒は、古くから神仏縁起を説き回ってきた下級神人・巫女(ふじょ)・祝言人(しゅうげんにん)とも混交し、あるいは琵琶(びわ)法師などの旧旅芸の徒とも交流した。それらは上代の「遊行伶人(うかれびと)」の末流でもあった。近世の多種多様の旅芸人、遊行の神人・俗僧、祝言門付(かどづけ)の徒などは、これら中世の旅の神人・芸人・俗僧の類が多彩に分化したもので、その余流は若干明治・大正期にも及んで、流浪の「物乞(ものご)い」とも混交の形を示すことにもなった。ともかく、これら遊行の下級宗教者は古い旅芸人・旅職人とともに、「旅の生活者」の主流をなすものであったが、近代に至ってほとんどその姿を消した。
[竹内利美]
『万葉集』の「羈旅歌(きりょか)」はじめ、『土佐日記』『更級(さらしな)日記』などの古い「旅の文芸」には、往昔の旅の感懐がしのばれ、『伊勢(いせ)物語』などにも東国異郷の風趣が紹介されている。こうした古典文学に景勝雅趣の地として登場する遠国の特定地は、やがて「歌枕(うたまくら)」の名所として和歌の世界に定着し、旅せずに異郷を思う雅情を触発した。都人には実見できぬ東国僻遠(へきえん)の景勝が主で、旅への「あこがれ」を誘発する一因ともなった。中世の歌人連歌師(れんがし)の風流探求の旅がこうしておこり、近世に入ると交通事情の整備と江戸開府の影響で、文人墨客の諸国名勝巡歴の旅が一般化し、多くの雅文調の紀行文学・日記もつくられた。芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』はその白眉(はくび)で、比較的初期のものにも属するが、その探求路程はもっとも一般的な東北名勝巡遊のルートにすぎない。ともかくこうした名勝巡歴・風流探求の旅が日本人の旅行の一つの型を生み、近世末期以降は一般人の旅の動因ともなり、今日の観光旅行の盛行にまで及んでいる。明治期の美文調の紀行文などもその余流であった。
しかし都人はじめ一般の村人の旅――定住者の旅――は、むしろ社寺巡拝という信仰的動機でおこり、広く一般化もしていった。石山(いしやま)・長谷観音(はせかんのん)など京近郊の霊場参籠(さんろう)の旅は平安文学の好題材にもなっているが、とくに熊野参詣(くまのさんけい)や伊勢参りの旅が盛んになり、やがて西国三十三所の観音霊場巡拝、あるいは四国八十八か所の遍路行といった社寺巡歴コースが定型化する。そのうえに名刹(めいさつ)大社の信徒組織が広く遠国に及ぶと、近世の一般民衆の旅は、ほとんどこうした社寺巡拝ルートに集約される形を呈する。近世封建制下での他領移動は禁制であったが、社寺参拝は特定業務とともに容認されていたので、他国他郷見聞の機会はおのずからそこに集中し、幾多の信仰集団(講)の結集をみ、とくに代参講の形が広く生ずる。講仲間が社寺の配下に属して年々代表者を参詣の旅に送る仕組みで、旅行費用として「講金」を積み立て輪番に「代参」に出るのである。伊勢・金毘羅(こんぴら)など名刹大社の講組織をはじめ、富士・御嶽(おんたけ)などの霊山登拝にも同類の講中組織は生じていった。しかし西国(さいごく)三十三所の観音霊場巡拝、四国八十八か所の遍路行、あるいはこれに擬した坂東(ばんどう)百か所など諸国の巡拝ルートは、長期の旅程にわたるゆえ、多くは個人的発願による巡礼行で、いわゆる六十六部の廻国(かいこく)行と同類のものが多く、満願の供養碑を建立する風習も広くみられた。代参講の参詣旅行はむしろ名刹大社の参詣を主に、その途次、諸国異郷見聞の旅を楽しむ態のもので、近世の街道往来の整備に伴いしだいに行楽的な気風を主とする形になり、またいわゆる「世間」を知る機会ともなった。『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』の類(たぐい)の道中戯作(げさく)文芸の盛行もその余波であり、また早くからおびただしい道中記・名所記の類の編集刊行も行われている。貝原益軒(えきけん)の著作などはその先駆であった。ともかく、こうした社寺名勝巡歴の団体旅行が日本人の旅の主流をおのずからつくりだし、その余勢は今日の団体観光旅行にまで及んでいる。
[竹内利美]
旅は「給(た)べ」の転訛(てんか)で、他人に食を求める原義に発するという。ともかく旧時の旅は辛苦に満ち、信仰に生き修行に身を砕く者だけの体験の場とさえ思われていた。道路も開けず旅泊の施設も整わぬ時代はとくに著しく、仮寝の草屋に臥(が)し未開の山野をさまよう態であったに違いない。しかし近世以後は、街道・宿駅の制も整い、人馬荷継ぎの仕組みもいちおうできあがったので、やがて旅の興趣を楽しむ傾向が強まってもいった。宿駅の旅籠(はたご)宿や留め女の風情、道中の馬方・雲助の生態など、そこには特異な旅の風俗も生じ、安藤広重(ひろしげ)の浮世絵、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の「膝栗毛」作品などにその跡をしのぶこともできる。しかし「旅」はあくまで他郷での特殊体験であり、「旅の人」はいわゆる「異郷人」にほかならなかった。そこに「旅の恥はかき捨て」とか、「旅の者には気を許すな」とかいう特異な日本人の旅行態度の基調も生じ、「旅=異郷の生活」と「日常―郷里の生活」を峻別(しゅんべつ)する傾向も生まれたといえる。しかし明治以降、交通事情の一変と、近代的職業への移行で、もはや旅行は日常化し、業務上はもちろん、私的生活の面でも国内旅行などは恒常化もした。にもかかわらず、いわゆる旅行は余暇利用の王座を占め、しかも団体による名勝社寺巡歴の旅が主となり、新興の観光産業の好対象ともなっている。さらに近年はその延長上に外国旅行の盛行がみられ、いわゆる「外遊」もいまはまったく特殊体験ではなくなった。しかし、そこにもなお「講中旅行」の伝統ともいうべき集団旅行の基調は残存しているようである。もっとも、こうした集団旅行のほかに、未間の世界を探り、あるいは未踏の峻嶺(しゅんれい)を極めるといった、新しい探検行が幾多行われている事態も忘れてはならないであろう。
[竹内利美]
日本ではレクリエーション(休養・娯楽)のための旅は、湯治などの保養を除いてほとんど行われず、信仰巡拝(伊勢(いせ)参宮・観音札所(かんのんふだしょ)巡礼)などに仮託して、名所見物をするのが一般的であったが、ヨーロッパでは15~16世紀に郵便馬車(駅馬車=郵便・旅客を運んだ)が発達し、沿線に宿泊施設の充実を促したため、すでに発着時刻を記入した旅行案内書が発行されていた。当時の旅行者は商工業者、領主や王の派遣する役人などのほかは、巡礼が中心であったらしい。
19世紀に入って鉄道が発明されるとともに、長距離旅行が容易となり、1836年に『レッド・ブック』Red Book(イギリス)、続いて39年に『ラインの旅』(ドイツ)など、近代的旅行案内書の嚆矢(こうし)ともいうべき出版がヨーロッパで相次いだ。また、19世紀なかば以降、鉄道網の発達、産業の発展に伴って、大都市を中心にホテルの充実をみたが、一部富裕層以外、庶民の観光旅行は一般化しなかった。
このような時期、ドイツにワンダーフォーゲルWandervogel(渡り鳥)運動がおこった。発端は1896年といわれるが、正式に規約がつくられたのは1904年である。キャンプなどの野外生活をしながら旅行するという、青少年の自主性に富んだ運動としてドイツ全土に普及した。このきわめてユニークな運動は、第二次世界大戦で消滅したかにみえたが、戦後に復活し、各国へ伝えられて、日本でも渡り鳥運動が一時盛んであった。
見聞を広め、未知の風物に接し、社会を知るという健全で質素な、一つの修学的・観光的旅行の原点として注目される運動であったが、日本の場合は、社会の富裕化とともに衰えた。1926年にドイツで生まれたユースホステルは、ワンダーフォーゲルから派生した健全で安価な宿泊施設とみることができ、今日ではホステラーが、渡り鳥運動の好ましい一面を引き継いでいる。
日本の近代的な観光旅行は、1912年(明治45)3月に創立されたジャパン・ツーリスト・ビューローの活動から始まったといえよう。これは海外からの観光客受け入れを目的としたが、20年にはコンダクテッド・ツアーを企画して成功、旅行案内業務を開始した。24年に旅行専門雑誌『旅』が発行されて、田山花袋(かたい)、生田春月(いくたしゅんげつ)、野尻抱影(のじりほうえい)など著名な文人が盛んに旅行記を執筆、25年にはすでにクーポン式遊覧券が発売されている。このように娯楽としての旅行は注目される気運にあったが、一部富裕層・知識階級を除く庶民にはほとんど無縁であった。
1955年(昭和30)2月、観光基本法の制定によって、観光基盤の整備が行われるとともに、60年以降の所得倍増計画(高度経済成長)が可処分所得を増大させ、所得の上昇に伴って、ようやくレクリエーションとしての大衆旅行時代が訪れた。ジャパン・ツーリスト・ビューローは数度にわたる改組や名称変更を繰り返し、1945年財団法人日本交通公社となった。63年には営業部門を分離し、株式会社日本交通公社(2001年株式会社ジェイティービーと改称)を設立した。日本交通公社が旅行の大衆化に果たした功績は大きい。
なお、旅行大衆化の画期的な契機となったイベントに、1964年の東京オリンピック、70年に大阪で開催された東洋初の万国博覧会がある。相次いだ二つの国際行事は、全国的に人々を会場へひきつけ、このときの移動――旅の体験が爆発的な旅行ブームをよんで、庶民の生活に観光旅行を定着させるきっかけとなった。
旅客輸送手段の面からみれば、鉄道輸送人員が1976年をピークに漸減し、かわって観光バス、自家用乗用車、国内航空旅客数が急増した。ことに乗用車は、55年の9万1859台に対し、大阪万博の70年約656万台、75年約1460万台、85年約2754万台と大きな上昇を示し、高速道路網、フェリーボートの整備と相まって、家族単位の自動車旅行が急激に増加した。
ヨーロッパではモータリゼーション(自動車化)の発展に対応して、自動車旅行者も気軽に利用できる清潔、安価なキャンプ場がきめ細かく整備され、アメリカではやはり清潔で安価なモーテルの発達をみたが、日本の場合こうした施設はまったくつくられなかった。この点、日本の自動車旅行者は欧米に比べて、サービス施設に恵まれないが、鉄道、航空機、船などの長距離輸送機関に、観光バスを組み合わせた団体旅行と、乗用車による家族旅行が、並行的に発展しつつあり、短距離旅行では車の旅が優勢になりつつある。
また、運動施設や各種のレジャー施設を備えたペンション村、青少年旅行村、自然休養村などの整備に伴い、移動型の周遊旅行から滞在型の旅へ、見る旅から、なにかをする旅へと旅行形態の変化がみられ、一方、短期の海外旅行やコンダクター同行の海外団体旅行も一般化した。
レクリエーションとしての旅行は、このようにますます多様化、個性化の傾向を強めながら、生活のなかに必須(ひっす)要件としての位置を占め、国民各層に広く定着したといえよう。
[小山 和]
『八隈蘆菴著『生活の古典双書3 旅行用心集』(1972・八坂書房)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
… ところでこの種の探検的な旅を,当の社会全体にとって未知な空間世界への探索,またそれを通じた未知世界の既知世界への組み込みだとすれば,既知の世界内でありながら,個人的な知の拡大衝動にもとづいてなされる旅もある。観光旅行もそうであろうし,なんでも見てやろうという動機にもとづく旅もそうである。こういう旅人は,探検家のように,他の探検家がすでに訪れたか否かに拘泥しない。…
※「旅行」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新