本項では日本の国号の由来および日本の歴史,文化,社会の特質を巨視的に記述した。そのほかの事項については,以下に掲げる諸項目で概説してあるので,それぞれ参照されたい。
◉-自然については〈日本列島〉,住民については〈日本人〉をはじめ〈アイヌ〉〈在日朝鮮人〉など,言語については〈日本語〉をはじめ,〈琉球語〉〈アイヌ語〉〈方言〉など。
◉-歴史については,とくに〈古代社会〉〈中世社会〉〈近世社会〉〈近代社会〉の大項目をはじめ,〈先縄文時代〉〈縄文文化〉〈弥生文化〉〈古墳文化〉に続き,〈飛鳥時代〉から〈昭和時代〉に至る各時代を概説した項目。また,日本における歴史意識については〈歴史〉の項目を参照。
◉-文化の諸分野については,〈口承文芸〉〈日本文学〉〈日本美術〉〈日本建築〉〈日本音楽〉〈演劇〉〈芸能〉〈能〉〈狂言〉〈歌舞伎〉〈新劇〉〈日本映画〉など。
◉-宗教については,〈宗教〉〈神〉をはじめ〈神道〉〈仏教〉〈民間信仰〉〈新宗教〉など。
◉-生活文化については,衣では〈服装〉〈着物〉,食では〈食事〉〈日本料理〉,住では〈住居〉〈日本建築〉など。また,〈年中行事〉〈祭〉や,通過儀礼にかかわる〈出産〉〈成年〉〈婚姻〉〈葬制〉などの項目も参照。
◉-法制については,〈古代法〉〈中世法〉〈近世法〉の項目をはじめ,〈法制史〉の項目中〈日本の近代以降の法制度〉の章などを参照。ほかに〈裁判〉〈法意識〉〈権利意識〉などの項目もあわせて参照。
◉-以下は主として近現代に限定して主要項目を案内する。政治については,〈政治〉の項目では〈日本の政治〉の章,〈政治意識〉の項目では〈日本の政治意識〉の章,〈政党〉の項目では〈日本〉の章などの見出しをとくに立てた。そのほか〈天皇〉〈天皇制〉および〈昭和天皇〉などの項目を参照。近現代の政治制度については,〈日本国憲法〉〈大日本帝国憲法〉をはじめ,〈議会〉の項目中の〈日本の議会〉の章,〈国会〉〈帝国議会〉〈内閣〉の項目,〈官僚制〉の項目中の〈日本の官僚制〉の章,〈公務員〉〈官吏〉,〈裁判所〉などの項目。ほかに〈地方自治〉〈地方分権〉〈圧力団体〉などの項目も参照されたい。 さらに近現代史の節目となる〈明治維新〉〈自由民権〉〈大正デモクラシー〉〈社会主義〉〈ファシズム〉〈国家総動員〉〈日中戦争〉〈太平洋戦争〉などの項目も参照。
◉-軍事については,〈軍制〉の項目をはじめ,〈戦争の放棄〉〈自衛隊〉〈日米安全保障条約〉や,〈陸軍〉〈海軍〉〈統帥権〉などを参照。
◉-経済については,〈日本資本主義〉をはじめ,〈産業革命〉〈恐慌〉〈統制経済〉〈財閥解体〉〈農地改革〉〈高度経済成長〉〈円〉〈物価〉などの項目を参照。ほかに,〈財閥〉〈企業グループ〉〈日本的経営〉,〈予算〉〈租税〉,〈金融機関〉〈銀行〉〈証券市場〉〈貯蓄〉,〈貿易〉など,および各産業部門名の項目も参照。
◉-交通,通信については,〈道〉〈道路〉〈輸送〉〈水運〉〈海運業〉〈鉄道〉〈航空〉〈郵便〉〈通信〉などを参照。
◉-日本社会の特質については,〈日本社会論〉〈家〉〈家族制度〉〈村〉および〈被差別部落〉などを参照。教育については,〈学校〉の項目中の〈日本の学校〉の章,〈読み書きそろばん〉の項目など。労働問題,社会福祉などについては,〈労働組合〉〈労働運動〉,〈社会福祉〉〈社会保険〉〈慈善事業〉などの項目を参照。また,マスコミについては,〈新聞〉〈出版〉〈放送〉〈広告〉〈言論統制〉などの項目を参照。
なお,現代の著しい社会問題については,〈高齢化社会〉〈公害〉〈都市問題〉〈土地問題〉〈住宅問題〉などの項目を参照されたい。
国号
日本では大和政権による統一以来,自国をヤマトと称していたようであるが,中国や朝鮮では古くから日本を倭(わ)と呼んできた。《前漢書》《三国志》《後漢書》《宋書》《隋書》など中国の歴史書や,石上(いそのかみ)神宮の七支刀の銘,高句麗の広開土王の碑文も,みな倭,倭国,倭人,倭王,倭賊などと記している。そこで大和政権の代表者も,中国と交渉するときには,5世紀の〈倭の五王〉のように,国書に〈倭国王〉と記するようになった。しかし中国との国交が120年ほど中絶したのち,7世紀初めに再開されたときには,《隋書》に〈日出処天子〉,《日本書紀》に〈東天皇〉とあって,倭と自称することを避けるようになっていたらしい。中国側でも《旧唐書(くとうじよ)》の東夷伝に至って初めて〈倭国〉と〈日本国〉とを併記し,〈日本国は倭国の別種なり。其の国,日の辺に在るを以ての故に,日本を以て名と為す〉とか,〈或いは曰く,倭国自ら其の名の雅ならざるを悪(にく)み,改めて日本と為す〉とか,〈或いは曰く,日本は旧(もと)小国,倭国の地を併す〉とか,倭から日本に変わった理由を紹介している。
この7世紀には,遣隋使に続いて遣唐使がしばしば派遣されているが,いつから倭に代えて日本を国号とすることにしたのかは,〈日出処〉が〈日本〉に転化していったことはまず確かだとしても,実は明らかでない。遣隋使や遣唐使のそのつどの交渉について,かなり詳しく記述している《日本書紀》も,8世紀になって日本という国号が確立したのちの書物であり,その中に使われている原資料にあったかもしれない倭の字は,国号に関するかぎりすべて根気よく日本と改められている。そこで《日本書紀》以外に文献を求めると,《海外国記》の逸文に,664年(天智3),大宰府に来た唐の使人に与えた書には〈日本鎮西筑紫大将軍牒〉とあったとある。だがこの《海外国記》も733年(天平5)に書かれているから,倭を日本と改めている可能性がある。結局確かなのは,702年(大宝2)に32年ぶりで唐を訪れた遣唐使が,唐側では〈大倭国〉の使人として扱ったのに対して,〈日本国使〉と主張したという《続日本紀》の記述であり,《旧唐書》東夷伝の記事も,この当時の日本側の説明に基づくものと思われる。
この日本が,今日のニホン,あるいはニッポンのどちらに近い発音で読まれたか,または当時の漢音でほぼジッポンと読まれたか否かも,まだ明らかでない。しかし日本という国号は,中国や朝鮮ではもちろん,はじめは日本の国内でも音読されていたようであり,ヒノモトという日本に対応する訓読も,《万葉集》では〈ヒノモトのヤマト〉というように,古くからの国号であるヤマトにかかる枕詞として用いらるにとどまり,これがヤマトと並ぶ日本語風の国号として独立するのは平安時代以後である。中世に中国を通じて日本をヨーロッパに紹介したマルコ・ポーロの《東方見聞録》では,日本国がZipangu,Jipanguなどと書かれているが,その後ヨーロッパに広まったJapan,Japon,Japãoなどの称については,日本に対する中国の華北音のjih penに基づくとする説と,華南音のyat punに基づくとする説とがある。中世末の日本に渡来したヨーロッパ人たちは,ロドリゲスの《日本大文典》や《日葡辞書》に,当時の日本人が日本をNifon,Nipponの両様に読んでいたことを記録している。近代では日本の読み方を統一しようという動きがあり,1934年の文部省臨時国語調査会では,ニッポンを正式呼称とする案が議決されたが,法律制定には至らなかった。なお正式な国号は,明治憲法では〈大日本帝国〉であったが,現行憲法では〈日本国〉である。
→大和(やまと) →倭
執筆者:青木 和夫
地理的条件
日本列島の大部分の地域では,気候が温暖で降雨量が多く,夏の湿度が高い。小河川がいたるところに発達し,山岳地帯は森林で覆われている。このような条件は,おそらく,大規模な治水事業を伴わない農業,ことに土地生産性の高い労働集約型の農業に有利であろう。現に日本では早くから,水田耕作が行われ,農地を私有する農家のムラが発達した。この状況は,多くの点で西ヨーロッパのそれに似ている。ナイル川流域や,ガンガー(ガンジス)川流域,または黄河流域とは,自然的条件も異なり,農業の形態も異なる。
また豊富な森林,湿気,頻発する地震などの諸条件は,この島国での木造建築の発達に貢献したかもしれない。千数百年の歴史を通じて,日本では,住宅も記念碑的建築(宮殿,寺院,城塞など)も,すべて木造であり,石造または煉互造または,土製(土蔵の例外はあるが)の建物は,ほとんどまったくなかった。木造家屋は,地震に強く,湿気に対しては風通しがよい。しかし木造建築をある程度以上に大きくすることは困難である(たとえば中国には高層の仏塔を見るが,日本の木造五重塔には,それほど高いものがない)。美的には,林の中の小型木造家屋は,自然的環境との鋭い対立よりも,むしろ調和的関係を示唆している。
アジア大陸の太平洋側に接する日本列島の位置が,日本の歴史に与えた影響は計り知れない。海に隔てられた大陸は,そこからの大規模な軍事的攻撃を困難にするのに十分なほど遠く,そこから高度の文明を輸入するためには障害とならぬ程度に近かった。日本は,政治的に中国に併合されず,しかも中国の文化を徹底的に摂取して消化することができたのである。中国から直接に,または朝鮮半島を経て輸入された文化は,生産技術(金属,紙など),政治制度,文字,高度に洗練された信仰体系(仏教,儒教,道教)などである。それよりも早く,あるいは同時に南方海洋諸民族の文化の影響が及んだことも確かである。しかし北方には日本に大きな影響を及ぼしうるような文化がなく,太平洋は日本の東側をあらゆる交通から遮断していた。要するに地理的位置は,ヨーロッパ人の立場からみての〈極東〉という言葉にも表れているように,日本を孤立させると同時に--日本側から大陸に与えた文化的影響はほとんどまったくない--,外部から煩わされることが少なく,中国文明の枠内で,独特の文化を育てることを可能にした,といえるであろう。
19世紀になって海洋がもはや決定的な障壁ではなくなると,日本の軍事的立場は弱くなった。大陸では帝政ロシアの,太平洋をはさんではアメリカの,潜在的な軍事的脅威に対抗手段をとらなければならなくなったからである。20世紀の日本は,まず帝政ロシアの影響力を極東から排除することに成功し,代わって中国を支配しようとして失敗し,最後に目的の明瞭でない戦争をアメリカにしかけて失敗した。
→東アジア
人種および言語
おそくとも西暦の紀元前後から,日本列島の大部分には日本語を話す単一の民族が住んでいた。北部にアイヌがあり,その後朝鮮半島からの帰化人(渡来人)の定着があったが,大規模な人種の混合は起こらずに今日に至る。人種と言語の単一性は,日本の歴史の特徴の一つである。
このような条件は,国家の文化的統一を,さらには政治的統一を容易にしたにちがいない。中央集権的な古代国家は,5世紀から12世紀まで続く。その後に権力の分散傾向が現れたが(13~16世紀),16世紀後半からは再び権力集中の過程が始まり,2段階を経て今日に及ぶ。すなわち江戸幕府による幕藩体制と明治政府による官僚国家である。
政治的中央集権には,文化的中央集権が伴う。文化は中央から地方へ向かって伝播(でんぱ)し,地方から中央へ向かうことは少ない。平安朝の宮廷文化は,しだいに地方へ拡散してゆく(勅撰集の美学,連歌,浄土教,平安仏の様式など)。9世紀に,地方官としての任地土佐から京へ戻る船旅の途中で,紀貫之は任地での経験を回想せず,道中の地方文化を観察せず,ただひたすら京都の生活のことを考えていた(《土佐日記》)。13世紀初めの将軍源実朝は,鎌倉と関東の地方文化になんらの関心を示さず,文化的にはまったく京都の貴族社会にあこがれていた。また,たとえば世阿弥の劇団は,その曲の題材を平安朝文学にとることが多く,主として京都を中心として活動していた。その地方巡業は,中央の能を地方へもたらしたので,地方演芸を中央へもたらしたのではない。
文化的中央は,17世紀から京都に大坂を加え,18世紀後半からはしだいに江戸に移る。19世紀の前半に《東海道中膝栗毛》を書いた十返舎一九にとっては,江戸の言葉が唯一の文化的言語であり,各地方の方言は滑稽の種でしかなかった。この傾向は,明治以後の社会では,官尊民卑の風潮と絡んで,第2次大戦後の今日では,大都会を中心とする大衆文化と関連して,いよいよ強まった。現在,たとえば地方の町が目抜きの通りを称して〈○町銀座〉というのは,文化的な中央志向の表れである。
日本語は多くの点で朝鮮語に似ているが,その起源はわからない。中国語とは明らかに別の系統に属する。しかし中国語から文字を借りたばかりでなく(表意文字としての漢字,日本で漢字を簡略化した表音文字としての仮名),多数の単語(ことに抽象的概念)をとり入れ,若干の文章法上の特徴までも消化し,その表現力を豊富にしてきた。その表現力の広がりは,何よりも必要に応じて表現をあいまいにし,含みをもたせることもできるし(ことに抒情的な文学において),また必要ならば,綿密で明瞭な叙述をすることもできる(たとえば歴史,法令,博物誌など)選択の幅に表れている。〈日本語はあいまいである〉というのは正しくない。そうではなくて,日本語はあいまいに用いることもできるし,明瞭に用いることもできるのである。また漢字の組合せによる造語能力は大きく,ことに19世紀末,近代西洋語の語彙を翻訳するのに,きわめて有効であった。このような日本語の表現力が日本文化の発達に役だったことはいうまでもない(その美的洗練,組織能力,適応性など)。
社会・文化の特質
現世主義
仏教や儒教が大陸から導入される前の日本の民間信仰の体系は,広い意味で〈神道〉と呼ばれる。その内容は,のちに宮廷を中心として組織された〈神道〉とは,大いに異なり,相互に関連するところの少ないアニミズム,祖先崇拝,シャマニズムの要素を含む。そこでは,あらゆるものに魂(精霊,アニマ)があり,その魂が,本居宣長も指摘したように(《古事記伝》),カミとされる。山,樹木,川などの自然の対象もカミであり,家屋,かまど,什器などの人工の品物もカミであり,死者の魂もまたカミである。カミは地域によって違い,その系譜や上下関係の秩序は明らかでない(それを明らかにし,諸地域のカミを組織化しようとしたのは,《古事記》以後の宮廷を中心とした神道である)。
生きた人間の住む世界へのカミの影響は,善悪二面があり,保護でもありうるが(たとえば農産物の豊かな収穫),災害でもありうる(干ばつ,疾病)。死んだ祖先の魂は,カミの中でもことに丁重に祭られ,そのことによって,家族への保護が期待される。カミのいる世界は,人の住む世界と別のところにはない。ムラの境の山は,それ自身がカミであり,死んだムラ人の魂も,その山の上にとどまる。他方,死者が地下の暗いところ,ヨミの国へ往くとされる場合にも,そのヨミの国と人の住むところの間に,決定的な断絶があるわけではない。一般にカミの世界と人の世界とは,同一であるか,前者が後者の延長であり,相互の交通は,しばしば困難とされるが,不可能とはされない。困難を克服し,カミと人との意思疎通を円滑にするためには,各種の儀式があり,儀式はしばしば神官(神主)やシャーマン(巫)を中心として行われる。
このような信仰体系の基礎の上に成立した世界観は,唯一究極の現実を日常的な現世とし,それを超える第二の現実を認めない。彼岸は,此岸に影響するかぎりで,いわば此岸の遠い延長として認められるにすぎない。日常的世界に超越する権威はなく,その権威との関連において善と悪,正義と不正義が定義されるということもない。別の言葉でいえば,この世界観の現世主義は,超越的価値の不在と離れがたく結びついている。
現世=日常的世界は具体的には共同体である。ムラ共同体の中に住む人にとっての現実はムラであり,ムラ以外ではない。ムラ人は,ムラにとって善いことをカミに願い(たとえば降雨),ムラにとって悪いことが起こらぬように願う(たとえば疫病)。しかし何がムラにとって善く,何が悪いかは,カミが決めるのではなく,ムラ人が決めるのである。カミは保護し,脅迫する。しかし何かを定義し,何かを命令することは少ない。これは,たとえばユダヤ教,キリスト教の神が,善悪を定義し,ある種の行為を命令するのと,まったく対照的である。日本の土着世界観において,価値の根拠はムラに内在し,けっしてムラを超越しない。
このような世界観は,その後の仏教や儒教によって,どういう影響をうけただろうか。仏教は神道と融合した。少なくとも民衆の水準では,奈良朝から平安朝まで,危機に臨んだ日本人は,ほとんどつねにカミとホトケの双方に助けを求めていた(たとえば《日本霊異記》から《沙石集》に至る仏教説話集が語る無数の挿話)。仏教は〈現世利益(げんせりやく)〉を提供したかぎりで,広く受け入れられたというべきであろう。例外は,鎌倉仏教,ことに浄土真宗である。その信徒は,穢土(えど)=此岸と浄土=彼岸とを鋭く区別し,前者(現世)における利益のためではなく,後者(後生)における個人の救いのために,阿弥陀を信仰した。そこで仏教は,内面化されると同時に(信仰は内面の問題である),超越的な価値の根拠となった(阿弥陀は共同体を超える)。したがって,日本における唯一の宗教戦争(一向一揆)も彼らによって戦われたのである。
しかしそれは例外である。なぜならそのとき以来日本の大衆の世界観に超越的な動機が加わって今日に至ったのではなく,江戸時代以降,仏教の寺院の組織が権力と結びつくとともに,超越的な権威への信仰はしだいに失われいったからである。江戸時代は文化を世俗化した。すると仏教以前からの世界観の構造が,仏教によって根本的に変わったのではないということが明らかになった。神仏融合は進展する。あまりに進展したので,政治的な理由から国家神道をつくろうとした明治政府が,その前提として神仏分離政策をとらざるをえなかったほどである。かくして今日から振り返れば,鎌倉仏教の影響が深かった時代こそが,例外のようにみえる。日本の土着の世界観を仏教が変えたのではなくて,日本の土着の世界観が仏教を変えたのである。
儒教は,仏教のように広範な大衆に影響を与えたわけではない。江戸時代の武士支配層は,たしかに儒教--より正確には宋学の体系--を,彼ら自身の価値や習慣を合理化するための知的枠組みとして採用した。その価値や習慣は,必ずしも宋学の説く倫理的価値や形而上学的秩序と一致するものではなかった。矛盾が明らかなときには,彼らは彼らの立場を固執する。彼らの立場は,戦国武士団の理想であり,仲間の団結と主君への忠誠である。彼らにとっては,その所属する共同体を超えるいかなる絶対的価値も存在しなかった。しかるに宋学の〈仁〉は,本来いかなる具体的な共同体にも超越する宇宙的秩序(天,理),および絶対的な歴史的権威(聖人)によって保証される価値である。主君が仁を体現せず,天命を保たなければ,優先するのは仁であり,天命であって,主君ではない。江戸時代の武士支配層と,その御用学者は,まさに宋学のその面を,すなわち土着世界観と矛盾する価値の超越性を無視した。
アニミズム,あるいはむしろアニミズムと関連して成立した日本の世界観は,仏教および儒教の影響のもとでも,なお生き延びて今日に及ぶ。
国家のために太平洋の戦に死んだ多くの日本人があり,会社のために犯罪を犯したり,責任を負って自殺する日本人もある。そういうことは,もちろん,いかなる文化の中でも起こりうるだろう。日本の文化に特徴的なのは,そういう青年にとって国家を批判する原理,そういう会社員にとって会社を超える価値が,原則として存在しなかったということである。〈私が死んでも会社は永遠だ〉とある会社員は言った。イスラム教徒ならば,永遠なのは,会社ではなくて,コーランだと言ったことであろう。
現在主義
現世主義は,また現在主義である。現世すなわち日常的現実は,現に目の前にあるものの世界である。過去はもはやなく,未来はまだない。あるものの世界は,現在である。現在は次々に現れて,次々に去る,その現在の継起(連続)が時間である。この時間には始めがなく,終りがない。したがって中点がなく,その時間を構造化することはできない。あるいは,無限の直線上のどの点も,すなわちいつの日の現在も中心点とみなすことができる。時間の流れの中で,真に現実的であり,真に重要なのは現在だということになるだろう。
《古事記》は,おそらく大陸の神話の影響のもとで〈国生み〉について語るが,それは真に宇宙と時間の始まりを意味するものではない(その意味で旧約聖書の天地創造とは異なる)。また終末論がそこに含まれぬことはいうまでもない。日本の神話の中の時間は,その最も整理された形においてさえも,現在の継起--その無限の連続であった。
このような時間の概念は,鎖連歌にも典型的に表れている。日本人の発明したこの集団的詩作の遊戯は,13~14世紀ごろから社会の各層に流行し,ほとんど国民的芸能になった。その要点は,付句のおもしろさにあり,付句は前の句との関係で決まる。前の句よりも先に何があったか,その後に何が来るかは,ほとんどまったく関係しない。前句と付句と併せての現在が,過去からも未来からも切り離され,それだけで完結した世界をつくる。そういう現在が鎖のように限りなく続いてゆくのである。
またたとえば,尺八や三味線の音楽も,多くの人々が指摘してきたように,起承転結の全体の構造によって訴えるよりは,与えられた現在の〈間(ま)〉や複雑な音色によって勝負する。現在の感覚的内容がつくり出す迫力は,過去-現在-未来の関連する構造(有限の演奏時間の知的構造)の全体から独立して,その場で発揮されるのである。
日常生活においても,今日なお多くの日本人が好む表現は,不愉快な〈過去を水に流す〉ことである。それは一面で無責任の制度化を意味するとともに,他面では小集団内部での調和を保つために大いに役だちうる。個人的水準においてしかり,また大きな社会的水準においてもしかり。たとえば15年戦争の〈戦争犯罪〉に対する戦後日本社会の態度は,よくそれを示す。アウシュビッツの責任は,ドイツ人自身により法廷で追及された。南京虐殺の責任を追及する裁判は,日本人自身によって一度も行われなかった。もしそれが行われていたら,戦後日本には鋭く苦い対立が長く残ったかもしれない。しかしそれが行われなかったことが,責任をあいまいにし,したがって戦争の経験の意味をあいまいにしたのである。
未来について,典型的な態度は〈明日は明日の風が吹く〉である。それは,未来が予測不可能であるということに対する一種の楽天的なあきらめである,といってよいだろう。それがあきらめであるのは,予測できない未来と不安感とは結びつかざるをえないからである。しかし楽天的でありうるのは,未来を忘れて現在を楽しむことができるからである。江戸の町人は,明日の大火を心配するよりも,今日の繁栄を楽しんでいたにちがいないし,東京の市民は,いつ起こるかわからぬ地震に備えるよりも,現在の身辺の雑事にまぎれていたにちがいない。たしかに明治政府には富国強兵の長期的な目標があった。しかしそれさえも,西洋帝国主義の圧倒的な軍事力が目の前に現れたのちでの,緊急の反応であったと考えることができる。のちの東条英機の政府に至っては,真珠湾を攻撃したときにさえも,その後で何をするのかというなんらの具体的な計画をもっていなかった。〈明日は明日の風が吹く〉。しかしその風が日本側に有利に吹かなかったことは,いうまでもない。
現在の経験は,まず感覚を通して与えられ,感覚的経験は,つねに特定の時点(=現在)において生じるから,このような現在主義の一面は,ことに美味領域において,対象に対する感覚的洗練へ向かうだろう。日本の芸術的表現からその例を引くことは容易である。たとえば太棹の三味線のばちのさえは,その瞬間において複雑微妙を極め,恨みや悲しみや喜びを反映する人の声の質の千変万化に,かぎりなく近づく。これは西洋の鍵盤楽器によるフーガの構造的な音楽と比べれば,明らかに感覚的=情緒的である。またたとえば桃山時代の楽の茶碗,長次郎や光悦のそれの表面の性質と色調は,絶妙の変化とつり合いをそれ自身のうちに内包する。その複雑な温かさは,宋磁の冷たい輝きと端正な形から,はるかに遠い。いわんやマイセンの磁器の純白の表面とはまったく異なる。琳派の画面が,線と面と色彩のあらゆる絵画的要素を動員して,感覚的喜びを二次元の空間に封じ込めたことは,いうまでもない。代表的な歌舞伎芝居(たとえば《義経千本桜》)の話の筋は荒唐無稽であり,劇の全体はなんらの知的内容を含まない。しかし各場面は,感情的緊張を盛り上げるために巧みに設計され,多様な視覚的効果に豊富である。ゆえにシェークスピアの一幕のみを上演するということはけっしてなく,今日の歌舞伎は一幕か二幕のみの上演を原則とする。その一幕は,前後から離れて意味をもつからであり,その意味は,感情の高揚または感覚的効果の密度を内容とするからである。
現在主義のもう一つの面は,日常生活における一種の実際的な態度である。過去にはこだわらず,未来の計画は絶対的価値によって束縛されることもないとすれば,現在の状況には実際的な見地から敏捷に対応することができる。平安朝の猟師は,《今昔物語集》が伝えるように,旅の途中で立ち寄ったムラの娘を,猿神への犠牲から救うために,身代りとなって山へ行き,隠し持った短刀を振るって猿を生捕りにし,ムラ人に示して,〈これはカミにあらず,ただの猿にすぎない〉と宣言する。目的は娘を救うことであり,手段は合理的で,行動は敏捷果敢である。その結果は偶像破壊的で,実際的である(彼は人心を掌握して,娘と結婚し,ムラに定住する)。
元禄時代の大坂町人は,西鶴が描いたように,カミやホトケにはこだわらず,状況判断の正確さ,適応の速さ,みずからの努力によって金をもうける。西鶴の商人たちは,自己に有利に市場を操作するのではなく,彼の意思とは独立に変化する市場の動きを見抜き,その動きをすばやく利用する。環境を変えるのではなく,自分自身を変える。この態度は,環境の変化の予測が困難であり,たとえ望んでも,環境を操作することの困難な場合に,ことに実際的であろう。第2次大戦後の日本政府は,アメリカの〈中国封込め〉政策の続くかぎり,日中関係改善のために,ほとんどなんらの働きかけもしなかった。日本の外で,日本の政策とはまったく関係なく米中接近が起こり,極東の国際的環境が変化するや,その後1年もたたぬうちに,田中角栄内閣は北京の中国政府を承認した。現在主義の実際的な一面は,個人的な水準での〈その日暮し〉の楽天主義ばかりでなく,外交政策の特徴さえも,少なくともある程度まで説明するのである。
集団主義
日本の小集団の原型はムラである。ムラ人は共同で働くことがあり(労働集約的水田耕作,ことに田植と収穫),共同で季節的行事に従うことがある(神社の祭り)。彼らは相互に結婚することもある(その内部での結婚が禁忌とされた集団は,大陸と比べて日本では著しく小さい)。ムラ人にとって,ムラ共同体への所属感は,圧倒的に重要な価値であり,一般にその他のすべての価値に優先する。その意味で成員の共同体への高度の組込まれが,共同体内部の秩序の維持と,対外的団結に役だつことはいうまでもない。
現世主義の世界観は,現世=共同体に超越する絶対的価値を認めないから,価値としての所属感に対する挑戦は起こりがたい。ムラの全体が何かの目標を追求するとき,ムラ人個人がその目標を批判し,みずから正しいと信じるところを徹底的に主張する根拠はない。個人の意見の正しさをその当人に保証する〈天命〉も,〈自然の理〉も,人格的な神の与える〈十戒〉もないからである。かくして非超越的な世界観は,集団主義を強め,逆に強い集団主義の内部においては,集団を超える絶対的価値への信仰が成立しがたいだろう。世界観,あるいはその背景としての信仰体系と,集団主義との,いずれが原因であり,いずれが結果であるかを問うことには,おそらく意味がない。日本文化の根本的な部分が,思想的には現世主義,社会的には集団主義として表現されるのである。
ムラの内部の構造は,一方では権威主義的なタテの人間関係を軸とし,他方では生産面での協力や贈答の形式に表れているようなヨコの関係を支えとする。集団の種類によって,ある場合にはタテの関係が支配的であり(親分・子分関係,主従関係),ある場合にはヨコの関係が目だつ(若者宿,娘宿)。近代日本の企業集団の場合には,第2次大戦以前にはタテ構造,大戦後にはヨコ構造が典型的である。同様のことは家族内部の人間関係についてもいえる。すなわち大戦後の日本社会に起こった主要な変化は,集団内部の構造のタテ型からヨコ型への移行である。しかし集団所属意識の変化ではない。
タテ型からヨコ型への移行は,集団内部での平等主義への傾向と切り離しがたい。制度的にみれば,世襲の身分制を廃止した明治維新は,平等主義への第1段階であり,男女平等を徹底した占領下の改革は,第2段階である。戦後改革は,平等主義に関するかぎり,第2段階であったから,単なる制度上の改革にとどまらず,実質的な社会的変化を伴ったにちがいない。それとは対照的に,人権と少数者の権利の尊重を要求する制度上の改革には,その方向での社会的変化が伴わなかった。なぜなら集団主義は,まさに少数者の権利の無視をその特徴の一つとするからである。集団所属感が他の価値に優先する条件のもとで,少数意見が尊重されることはない。〈みんなと違う〉ことは,それ自身が悪である。違う意見をもつムラ人に対してムラがとる典型的な態度は,第1に説得であり,第2に,説得が成功しない場合には〈村八分〉である。
ムラ人にとって所属感が重要な価値であるためには,所属と非所属,すなわちムラ人と非ムラ人(よそ者)の区別が明瞭でなければならない。特定のムラは,特定の地域に対応し,地域の境界は明瞭であって,その地域内に住むのがムラ人,地域外に住むのがよそ者である。ムラ人の行動様式は,同じムラの人間に対する場合と,ムラの外の人間に対する場合とでまったく違う。
ムラの外には,2種類の空間がある。近い空間は隣ムラであり,そこには同じ言語と同じ風俗習慣がある。隣ムラとの友好的な関係は,結婚(嫁取り)に典型的にみられる交換である。非友好的な関係は,各種の争い,ことに水利権または入会権の争いである。遠い空間は,そこへムラ人が出向かず,そこから旅人が来るところである。旅人は,ムラ人と同等の人間ではなく,ムラ人以上の存在であるか(カミ),以下の存在であり(乞食,下人,泥棒,遊女,芸人),しばしば以上にして同時に以下の存在である(山伏,巫女(みこ),旅の法師など)。このような事情は,基本的には,江戸時代まで変わらない。
近代日本では,中央集権的な政治,同質的な文化,全国的市場の成立などの条件が,〈近い空間〉を拡大した。かつての隣ムラが日本全国に広がった,ということもできる。しかし江戸時代300年の鎖国に慣れた多くの日本人の意識にとって,拡大されたムラの境界は,日本の国境を超えない。ムラ人=日本人と〈外人〉=非日本人との区別は,今日なお大きな意味をもちつづけ,〈外人〉は,日本人以上か以下である。たとえば中国人,朝鮮人は,1868年(明治1)を境として,日本人以上から以下に変わった。アメリカ人は,1945年を境として,〈鬼畜〉から崇拝の対象に変わった。〈外人〉が日本人と同等の,もう一人の人間であったことはない。そのことから〈一辺倒〉が生じ,またそのことから〈外人〉との意思疎通の困難が生じる。
集団主義の一面は,その全体の構造・枠組みを変えることが,内部のだれにとっても困難だということである。なぜなら枠組みを変えることは,少数意見の貫徹を意味し,原則としてそれを不可能にするのが,集団主義の特徴そのものだからである。不変の枠組みを前提とすれば,集団内部での個人の行為の善悪は,当人の〈心〉の問題,意図の問題に帰着するだろう。
江戸時代の後半期に流行した石門心学の要点は,第1に,行為の評価は,その結果よりも意図によるべきこと,第2に,善意は,利己的でなく,社会から与えられた役割を果たそうとする意志として定義されること,第3に,最高の倫理的価値は,つねに善意の生じるような心的状態を培うことであった。赤穂浪士の復讐の圧倒的な人気--それは歌舞伎や映画を通じて200年以上も持続した--も,主君への忠誠という動機(家臣の役割に忠実な自己犠牲という善意),および彼らの集団の団結とかかわり,その行動の結果(私的暴力の行使による多数の犠牲者)とはかかわらない。石門心学の〈正しい心〉(善意)は,またしばしば〈誠〉(誠心誠意)と呼ばれる。明治以後の大衆は,勤王の〈至誠〉に殉じて江戸幕府を倒そうとした薩長の志士たちと,〈誠〉の旗を掲げてその志士たちを暗殺して幕藩体制を守ろうとした新撰組とを,同時に好んでいた。幕府を倒すか守るかが問題ではなく,当人の心・意図,つまるところ〈誠〉が問題である。
集団主義とともに,この倫理的主観主義は,今日なお日本社会の中で機能している。議会で野党の議員が予算案について質問すると,大臣が〈その問題には誠心誠意対処してゆく所存でございます〉と答える。この国では,だれもその答えを冗談とは受け取らないのである。
競争原理
日本社会に長く存在し,多かれ少なかれ今日の日本にもかかわる文化の基本的な特徴は,およそ以上のごとくである。しかし今日の日本社会がもつ活動的性格は--それが1960年代以降の産業の分野で著しいことはいうまでもない--,伝統的条件のみからは説明されないだろう。江戸時代の社会は,集団主義的であり,必ずしも活動的ではなかった。多くの分野においては,むしろ停滞的であったとさえいえる。維新以後の社会の活動性は,維新以後に加わった新しい条件と密接にかかわっていたにちがいない。その新しい条件は,おそらく競争原理である。
競争が成り立つためには,当事者が同じ目標を追求すること,当事者相互の間にある程度の平等の条件が存在すること,競争が社会的秩序の中に一つの持続的要素として組み入れられるためには,目標を追求する行動に当事者の合意した規則性のあることが必要である。明治以後,さらにサンフランシスコ条約発効以後日本が国際社会に復帰してから,教育の分野での入学試験競争,産業の分野での自由市場における企業間競争は,明らかにその必要を満たす。個人間の競争を通じて訓練された労働力が産業に供給され,企業間の競争に参加すると同時に,企業内部での昇進競争を強める,というのが,その結果である。企業間競争に勝つためには,企業の能率を高めなければならず,企業の能率を高めるためには,適材適所の人員配置が必要だろうから,企業の集団主義(終身雇用,年功序列,共同体的性格)はそれ自身の内部に一種の能力主義を発達させ,そのことが個人間の競争を激しくする。かくして今日の日本社会の活動性は,単に集団主義によってではなく,まさに競争的集団主義によって特徴づけられるのである。
執筆者:加藤 周一