日記(読み)ニッキ

デジタル大辞泉 「日記」の意味・読み・例文・類語

にっ‐き【日記】

毎日の出来事や感想などの記録。日誌。日録。ダイアリー。「かかさずに日記をつける」「絵日記
日記帳」の略。
[補説]書名別項。→日記
[類語]ダイアリー日誌日乗日録

にっき【日記】[書名]

《原題、〈フランス〉Journalルナールの日記。1887年から死の直前まで、24年間にわたり書き続けられたもの。著者没後に刊行された全集により一般に公開された。

に‐き【日記】

にっき」の促音の無表記。
「をとこもすなる―といふものを」〈土佐

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精選版 日本国語大辞典 「日記」の意味・読み・例文・類語

にっ‐き【日記】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 事実を記録すること。また、その記録。実録。にき。
    1. [初出の実例]「注進 若狭国御封之内絹布日記」(出典:東南院文書‐天喜三年(1055)一二月一四日・東大寺権寺主封物注進日記)
    2. 「この事、いづれの日記に見えたりといふ事を知らねども」(出典:古今著聞集(1254)七)
  3. できごとや感想を一日ごとにまとめ、日づけをつけて、その当日または接近した時点で記録すること。また、その記録。日録。日乗。にき。
    1. [初出の実例]「侍従以下上日。省録日記哉」(出典:令集解(868)職員)
    2. [その他の文献]〔老学庵筆記‐巻三〕
  4. にっきちょう(日記帳)」の略。

▼日記買う《 季語・冬 》

  1. [初出の実例]「Nicqini(ニッキニ) noru(ノル)〈訳〉帳簿に記載してある」(出典:日葡辞書(1603‐04))

日記の語誌

( 1 )漢語「日記」は日本で早くから公文書類などに使用が見られ、現在まで呉音読み「にっき」が定着している。平仮名文では多く、「日」の促音を無表記にして「にき」と書かれた。
( 2 )男性貴族は漢字のみを用いた真名日記を残しており、主に公的行事についての記録であった。これに対して平仮名で記されたものは私的心情の表出に重きを置き、文学性が高い。→日記文学


に‐き【日記】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「にっき」の促音の無表記 ) =にっき(日記)
    1. [初出の実例]「をとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてするなり」(出典:土左日記(935頃)発端)

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改訂新版 世界大百科事典 「日記」の意味・わかりやすい解説

日記 (にっき)

日本における〈日記〉の語は,古来広狭さまざまな意味に用いられた。日にかけて事実を書きしるしたものという観点から,六国史以下の史書を日記とよぶことも広く行われたし,特定の事件に関する報告書や問注記を事発日記とか,問注日記,勘問日記と称した。また《土佐日記》や《蜻蛉日記》のように,紀行や回想録,随筆等の文学作品で日記と称したものも少なくない(〈日記文学〉の項参照)。しかし備忘のため日々のできごとを記録したもの,すなわち狭義の日記が,日本のように9世紀中ごろからほとんど間断なく伝存していることは,中国にも欧米にも例をみない現象であり,現在文献史料としては,典籍や文書に対し,記録とよばれて重んぜられている。日本における最古の例は《正倉院文書》天平18年(746)の断簡に求めることができるが,明確に現れるのは平安時代である。

記録としての日記は,記載の形態・機能により,日次記(ひなみき)と別記に大別できる。日次記は日々の行動や事件を日次を追って書きついでゆく,普通の形の日記である。すでに大宝令,養老令において中務省の内記がつかさどると規定されている〈御所記録〉が,中国において天子の日常の起居言行を史官が記録した起居注と同類のものとすれば,内廷の日記の一種とみなすことができるであろう。9世紀中ごろの藤原師輔の《九条殿遺誡》には,毎日起床後まず昨日の事を暦記に注して忽忘に備えよとおしえ,当時すでに宮廷貴族の間にも,日記記載の習慣が定着していたことを物語っている。その公家日記は,鎌倉時代までは巻子仕立ての具注暦に書きつけたものが多く,暦面の2~4行の空白に記載したので,暦記ともいわれた。また記事が暦面に書ききれない場合は裏面に書き続けたり,白紙をはり継いで書き,さらに記事に関連する文書をはりこんだものもある。しかし南北朝時代以降はしだいに冊子本が多くなり,江戸時代になると巻子本に書かれたものは珍しくなった。

 これに対し別記は特定の事柄について,日次記とは別に詳細な記録を残すため書き留めたものである。《政事要略》には790年(延暦9)の追儺(ついな)に関する〈外記別日記〉を引載しているが,上記の《九条殿遺誡》には,要枢の公事は暦記とは別に詳しく書きしるして後鑑に備うべしと諭し,師輔自身多くの別記を残した。また藤原頼長も1142年(康治1)の大嘗会のあと,10日間にわたり諸事をなげうって36枚に及ぶ別記を書記したという。こうして朝儀・公事を対象とした廷臣の別記が多く伝存しているが,ほかに藤原宗忠や藤原定家の熊野詣の別記などもあり,円仁の《入唐求法巡礼行記》や成尋の《参天台五台山記》なども別記の一種とみなすことができるであろう。

日記はまた記主=筆者の立場により,公日記と私日記に分けることができる。公日記の古い遺文としては,上記の延暦の外記別日記のほか,《柱史抄》に引く886年(仁和2)の内記日記などがあるが,それらはみな断片的な逸文ないし取意文にすぎない。平安時代の公日記のうち,一応まとまった記文を伝えるのは,外記日記と殿上日記であるが,前者は地下(じげ)ないし外廷の日記,後者は殿上ないし内廷の日記として,両者相補う性質をもっている。外記日記は,太政官の外記が職務として記録した公日記で,上記の延暦の別記や《続日本後紀》に引載する840年(承和7)の外記日記の断片はその遺文の早いものである。すなわち平安時代の初め,すでに別記をも含む外記日記が記録されていたわけであるが,爾後その記載と保管がしばしば督励され,折にふれて先例考勘の用に供された。したがって書きつがれた外記日記は累積して膨大な量にのぼり,11世紀中ごろの後冷泉天皇のとき,それまでに図書寮の紙工の盗用したことが発覚した分だけでも200巻を数えたという。しかし平安末期にはその記載もほとんど廃絶し,外記個人の私日記によってその機能が代替された。なお外記日記の遺文は,《西宮記》や各種の部類記などに収められているほか,《日本紀略》や《本朝世紀》の編纂史料としてもその面影を残している。

 殿上日記は,当番の蔵人が記録した職務日記である。《侍中群要》に載せる蔵人式には,宇多天皇の勅命として,当番の記事は大小遺脱することなく記載すべしとみえ,別に〈日記体〉としてのその体例を示している。1019年(寛仁3)の東宮元服記など,1日の記事をほぼ完全な形で残している二,三の例も,ほぼこの〈日記体〉に合致している。こうした記述の統一と永続が公日記の特色であるが,殿上日記の内容は殿上の朝儀・公事に参列する公卿・殿上人の私日記と共通する点が多いためか,平安後期にはすでに廃亡し,その今日に伝存する遺文も少ない。しかしその後幕府や社寺における職務日記の記載が盛んになり,宮廷でも《御湯殿上日記》以下の女房日記をはじめ,《議奏日次案》や禁裏・仙洞の執次詰所(とりつぎつめしよ)日記などが書きつがれ,さらに伏見宮以下の各宮家の家司日記など,公武にわたって各種各様の職務日記が記録された。

 これに対し個人の私的な日記の早い例としては,746年(天平18)の具注暦に書き込まれた記文があるが,さらに公家の間に日記の記載が盛んになるに伴い,公日記に対し〈私記〉とか〈私日記〉の称も生まれた。そのある程度まとまった記文を今日に伝える最初は,《宇多天皇御記》以下の三代御記であろうが,以後,天皇・皇族,摂関以下公卿・殿上人・官人,武家・僧侶・学者文人等,各階層の人々によって書かれた日記が数多く伝存している。その記述の内容は,記主の個性や身分,職務などによって異なるが,ことに公家日記では,中世以降しだいに固定化した家職・家格が記述に反映して,それぞれの特色を鮮明にしている。またそれらの公家日記の名称は,藤原宗忠の日記《愚林》をはじめ,三条実房の《愚昧記》あるいは後崇光院の《看聞日記》などのような,記主の謙称ないし自称とみられるものもあるが,多くは後に子孫などによって名付けられたもので,それにはいくつかの型がある。藤原忠平の《貞信公記》,平親信の《親信卿記》,平信範の《人車記》(信範の扁)などのような諡号(しごう)や諱(いみな)によるもの,藤原師輔の《九暦》や大江匡房の《江記》のような通称・氏称によるもの,三条長兼の《三長記》や勘解由小路兼仲の《勘仲記》のような通称と諱の複合によるもの,藤原為隆の《永昌記》のような居所(永昌坊)によるもの,春宮権大夫藤原資房の《春記》,左大臣藤原頼長の《台記》など官職名によるもの,小野宮右大臣実資の《小右記》,葉室中納言定嗣の《葉黄記》など居所ないし通称と官職名の複合,藤原忠実の《殿暦》,藤原忠通の《玉林》のような尊称ないし美称などが主な型である。
執筆者:

近世の日記は,前代に比して,その書き手がいちじるしく広範になったのが,特徴である。公家,武家,社家,僧侶,文人などのほかに,農民や町人たちが,家業の必要上,あるいは純粋に記録を残したいという動機から,多くの日記を残している。女性の日記が多く残るようになったのも,この時代の特質であろう。

 まず朝廷関係では皇室の日記に後桜町院,桃園院,後桃園院,光格天皇,孝明天皇のものがあり,いずれも京都東山御文庫に保存されている。親王では桂離宮の智仁親王のものがある。また室町中期以来の《御湯殿上日記》は,1820年(文政3)まで書きつがれた。皇室の女性のものでは,仁孝天皇皇后鷹司氏の《新朔平門院御記》,女官の《庭田嗣子日記》《中山績子日記》《押小路甫子日記》などがある(なお後桜町院は女帝である)。以上は天皇の身近に関するものであるが,機関としての朝廷の記録には議奏日記(17世紀末~幕末),番衆所日記,執次詰所日記,非蔵人(ひくろうど)日記(以上いずれも中期以降)などがある。公家の記録は各家のほかに宮内庁書陵部に多く伝存している。それらには当主のもののほかに,玄関日記,詰所日記,役所日記など諸大夫・用人などの家司によって記された,公家の家政あるいは公的業務の記録も含まれている。なかでも武家伝奏の家のものは公武関係を知る上で重要な史料である。

 社寺の日記では,春日社,北野社,東寺,多聞院,鹿苑院のものなど前時代から引きつづくもののほかにも多くの記録がつくられたが,神竜院梵舜の《舜旧記》,醍醐寺三宝院義演の《義演准后日記》,以心崇伝の《本光国師日記》などは,初期の政治史の史料としても重要である。また中期以降では,江戸の《浅草寺日記》や日光東照宮の《御番所日記》は寺社内部だけでなく地域の事情についても興味深い記事を提供している。

 幕府では,公式の記録として〈御日記(おにつき)〉(《江戸幕府日記》)が作成された。これは右筆(ゆうひつ)の役目であり,中期に右筆が表と奥とに分かれて以降は,奥右筆の役目となった。一つ書きで簡潔に記す体裁をとり,これによって個々の事件の細部を知ろうとするのは無理であるが,公式のものであるだけに,この時代の第一等史料であることは確かである。〈年号・日記〉〈柳営日次記(りゆうえいひなみき)〉などの表題で内閣文庫に伝存するが,明暦の大火(1657)以前のものについては,姫路酒井家や島原松平家などに伝えられた写本で補わなければならない。このほかに《御書物方日記》《唐通事会所日録》《御徒方(おかちかた)万年記》など幕府の各役向で書き継がれたものもある。老中や奉行など幕府役職者の記録は,原則として幕府にではなく役職者の家に伝わった。稲垣重富(若年寄),土屋篤直・泰直・英直・彦直(よしなお)・寅直(ともなお)(奏者番,寺社奉行),水野忠友(老中),安藤惟徳(これのり)(大目付),水野忠成(ただあきら)(老中),水野忠邦(老中),大岡忠相(ただすけ)(越前守,寺社奉行),水野忠精(ただきよ)(老中),村垣範正(外国奉行),堀田正睦(まさよし)(老中),小栗忠順(ただまさ)(外国奉行,海軍奉行)など中後期のものが多数残されている。

 諸藩では,幕府〈御日記〉と同様に,家老が執務する御用部屋で右筆などによっていわゆる〈御用部屋日記〉が作られた。大名自身の日記も池田光政(岡山),佐竹義和(よしまさ)・義厚(よしひろ)・義睦(よしちか)(秋田),酒井忠以(ただざね)(姫路),松平容敬(かたたか)(会津),伊達宗城(むねなり)(宇和島)などの日記が知られている。家臣の日記も数多い。藩の行政・職務上の記録では,日記風のスタイルのほかに,いわゆる一件書類(ある件に関する文書・記録の写しをとりまとめたもの)が随時作成された(この点は,町や村の記録についても同様であり,日々の日記のほかに一件書類が膨大に作られたのは,近世の記録の特質である)。

 数多く書かれた学者・文人の日記は,それぞれの全集や単行本として刊行されているものが多い。町や村,町人や農民の日記も,最近では県市町村史に史料として収録される機会が多くなっている。行政機構としての町・村には町会所日記や御用日記が残された。祭りや年中行事を共同で行った日記,職人仲間の太子講,若者組の行事や集会の日記もある。このほかに,商家や農家の経営に関する日記が中後期以降に多数出現したのも,この時代の特徴である。商家のそれは帳簿として考察されるべきものであるが,農家のそれは年季奉公人による地主手作経営の成立と関係がある。年々の農作業,奉公人に対する食事の内容・給与や休日,年中行事など,経営主体としての関心がそこにみられるからである。

 女性の日記としては,初期では伊藤仁斎母の《寿玄日記》が著名である。中後期では内親王や公家夫人のもののほかに,頼山陽母の《頼梅颸(ばいし)日記》,紀州藩儒者河合梅所夫人の《河合小梅日記》,旗本井関親興夫人の《井関隆子日記》などが知られている。河内国古市村(現,羽曳野市)の〈西谷さく女日記〉など,商家の女性のものも,いくつか発見されている。

 以上のように近世では,経済と文化の発展を背景に,文字を書く人口が中世に比して格段に増加した結果,多くの階層の人々によって日記が作られた。御伊勢参りなど,この時代に全国的に盛んであった寺社参詣の道中記が庶民の手で多く作られ,文学の一ジャンルにまでなったのも,上記の傾向をものがたっている。
執筆者:

現在伝存している日記は,藤原道長の《御堂関白記》をはじめ記主の自筆原本も珍しくはないが,多くは書写あるいは抄出などの手を経て伝えられたものである。とくに公家の間では,先人の日記記録を朝儀・公事の奉仕に役立てるため,つねづねその書写を心がけ,あるいは必要な記文を書き抜き,また要目をとって目録を作成し,さらに項目に従って目録を作成し,さらに項目に従って該当記事を抄出類聚し,部類記を作った。いま伝存する《貞信公記》や《九暦》は抄録本であり,《小右記》の要目をとって部類した《小記目録》はすでに平安時代末期には成立して,本記の欠を補う貴重な史料となっており,さらに各種の部類記は,現在散逸した本記の遺文の宝庫である。部類記は,藤原宗忠が自分の日記を編集した《中右記部類》のような単一の日記によるもの,逆に《御産部類記》や《東宮御元服部類記》のように,単一の事項について多数の日記から編集したものなどがあるが,江戸時代には,水戸の史局によって,恒例公事143項目,臨時公事91項目にわたり,233部の日記記録から記文を抄出類聚した《礼儀類典》515巻が編纂されるに至った。日記記録の刊行は,江戸時代末期以来個別的に行われてきたが,《史料通覧》とそれを増補した《史料大成》に初めて数多くの日記が叢書として収められ,さらに《大日本古記録》や《史料纂集》の刊行によって,順次未刊の日記記録が翻刻されている。また近年,近現代史の研究の発展と歩調を合わせて《原敬日記》などの近現代の日記類も相ついで刊行されている。
記録
執筆者:

日記が年代記,回想録,手記と区別されるのは,構成することなく日ごとに書く点である。英語でdiary,ドイツ語でTagebuch,フランス語ではjournalという。年代記は修道院や教会でカロリング朝以前から書かれ,治世者,貴族も書かせたが,15世紀から盛んになり,このころから日記も現れはじめた。これは商人階級の台頭と軌を一にしている。1405年から49年の間つけられた《パリ一市民の日記》が現存する最も古いものである。16世紀に入るとフランス王フランソア1世の大法官デュプラの秘書ジャン・バリヨンJean Barillonの《目録》(1515-21),もう一つの《パリ一市民の日記》(1519-30),パリ高等法院のベルソリNicolas Versorisの《日計簿》,ピエール・ド・レストアールPierre de l'Estoileの《アンリ3世下の日記》,のちのルイ13世の侍医エロアールの《日記》,モンテーニュの《旅日記》,またイタリアではマキアベリの《日記》等々がある。中世に日記が存在した可能性もあるが,市民階級が台頭した15世紀から多くの日記が残されていることは注目に値する。17世紀後半の貴重な生活記録6巻(1660年1月1日~69年5月31日)を暗号で書き残したイギリスのS.ピープスが当時の新興ブルジョアジーに属することも示唆的である。17世紀のフランス貴族社会でもアルノー・ダンディイArnauld d'Andilly,オリビエ・ル・フェーブル・ドルメソンOlivier le Févre d'Ormesson,ダンジョー侯爵Marquis de Dangeauらの日記があり,18世紀のマティユ・マレ,バルビエらの日記に継承される。18世紀には貴族社会の批判的観察からラ・ブリュイエールの《人さまざま》が生まれ,サン・シモンの膨大な《回想録》が残された。18世紀末にはルソーの《告白》《孤独な散歩者の夢想》が内面観照の道をひらき19世紀の日記の隆盛に大きく寄与した。モンテスキューの《ノート》と16世紀のレオナルド・ダ・ビンチの《手帖》も公刊された(1797)。

 このころに起こったイギリスの産業革命とフランス革命による社会変動と階級制度の改変は個人と社会の間に緊張状態をもたらし,この結果,19世紀から20世紀前半にかけて個人の内面生活を記す日記が急増した。小説の隆盛と軌を一にしている。小説中にも17,18世紀の〈手紙〉に代わって〈日記〉〈手記〉〈手帖〉が現れるようになり,女性の自立とともにヨーロッパでは女性も日記を書けるようになった。ピープスは自分は日記をつけながら妻に日記をつけることを許さず破っている。フランス革命前の女性が書いたのはセビニェ夫人に代表されるように〈書簡〉であった。J.サンド,K.マンスフィールド,ドロシー・ワーズワース(詩人の妹)らの日記が有名である。絵本で知られるベアトリス・ポッターにも暗号で書いた日記がある。スタンダール,コンスタン,ミシュレ,ビニー,サンド,ロビンソンHenry Crabb Robinson,グリルパルツァー,ヘッベルらロマン派的傾向の詩人,作家と日記は不可分の関係となった。19世紀からの出版の多様化から,日記の書き手も公刊の可能性を意識するようになった。

 宗教上の自己反省の具としての日記はメソディスト派を興したJ.ウェスリー,ピューリタンのJ.ウィンスロップ,マザーCotton Mather,シューワルSamuel Sewallらのが重要で,内心観照の伝統はエマソン,ソロー,ホイットマンらに受け継がれ,明治期の日本にも大きな影響を与えた。文壇生活を書いたゴンクールの日記,ロシアの少女バシュキルツェフの日記,スイスのアミエルの1万6990ページの膨大な自己観照に徹した日記も忘れられない。20世紀には公刊を意識しながら書かれたレオトー,ジッドの日記のほか,J.グリーン,F.モーリヤック,G.マルセル《形而上学的日記》などカトリック作家の日記も重要であり,ジュアンドーMarcel Jouhandeauの21巻の《日録Journaliers》,日課として書かれたバレリーの《ノートCahiers》32巻などの記録は,日記の概念が変化していることを示している。
日記文学
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日記」の意味・わかりやすい解説

日記
にっき
diary

日々の出来事や行動を記録したもの。漢文による日次記には,官庁の記録や公家の行事記録を主とした日記などがあり,『万葉集』にみる大伴家持の家集は「歌日記」というべきもので,文学的日記の先駆であり,円仁の『入唐求法 (にっとうぐほう) 巡礼行記』などは旅日記として文学的にもすぐれている。西洋ではすでにローマ時代から日記をつける習慣があった。しかし文学としての価値をもつ日記には,筆者の個性のおもしろさが要求される。 17世紀後半のイギリスの官僚 S.ピープスの日記は王政復古期の世相を写実的に描いており,個性的な面が強調されると H.アミエルの日記のように内省や思索を中心としたものとなる。日本の場合は一つのジャンルとして「日記文学」があり,筆者を女性に仮託して書かれた紀貫之の『土佐日記』をはじめとして『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』『更級日記』『讃岐典侍 (さぬきのすけ) 日記』など平安時代の女流日記や『弁内侍 (べんのないし) 日記』『十六夜日記』『とはずがたり』など,主として中世の作品をさす。これらは事実の記録としての日記とは異なり,自己告白的な自伝文学としての特徴をもつ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日記」の意味・わかりやすい解説

日記
にっき

日々のできごとや感想を毎日記したもの。「にき」とも読み、日次(ひなみ)記、日録(にちろく)などともいう。日本史の文献史料として扱われるものに対しては、狭義の記録と同義に用いられる。古文書と並ぶ重要な史料である。

[編集部]

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普及版 字通 「日記」の読み・字形・画数・意味

【日記】につき

日誌。〔老学庵筆記、三〕魯直に日記り。之れを家乘と曰ふ。宜州に至るもほ書くことを輟(や)めず。~高宗此の書の眞本を得て大いに之れを愛し、日に案に置けり。

字通「日」の項目を見る

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百科事典マイペディア 「日記」の意味・わかりやすい解説

日記【にっき】

日記文学

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世界大百科事典(旧版)内の日記の言及

【ウルマン】より

…ニュージャージーの信仰厚い家庭に生まれ,青年時代からクエーカーとして各地に伝道旅行をした。主著《日記Journal》(1774)には,少年時代のことも付記されていて,一種の自伝にもなっており,当時出版された多くのクエーカー教徒の日記の白眉であり,またアメリカ日記文学の古典である。彼が信仰上の良心の声に従い,奴隷解放,戦争反対,労働者の待遇改善などの社会改革に挺身した事情は,前記《日記》に克明に記されている。…

【ルナール】より

…劇の分野でも,《別れも愉(たの)し》(1897),《日々のパン》(1898)など,軽妙な短い喜劇で,フランス心理劇に新風を吹き込んだ。死の2ヵ月前まで24年もの間書き続けられた《日記 1887‐1910》(1925‐27)は,現代のモラリストの自己を含めた人間省察の書であり,またこの時代の文壇・劇壇の貴重な記録・証言でもある。ルナールの作品は,1924年岸田国士によって《葡萄畑の葡萄作り》(1894)が翻訳されて以来,《日記》も劇も岸田国士によって紹介され,日本の新劇界に大きな影響を与えた。…

【記録】より

…日本の文献史料の一分野を指す用語。著作物である典籍や,おのれの意思・用件などを相手に伝える目的で書かれたものを文書(もんじよ)とよぶのに対し,原則として自己(近親者あるいは所属の機関なども含む)の備忘のため書きとめたものを記録といい,主として日記類がこれに該当する。この意味の〈記録〉の語の用例は,すでに8世紀の養老職員令の内記の職掌について,〈御所記録〉のことをつかさどるべしと見え,のちの内記日記につながるものと思われるが,諸家の日記を指して〈記録〉と明記した例には,《花園院宸記》の記事がある。…

※「日記」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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