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俳人。東京生れ。本名克修(よしのぶ)。1918年,17歳で《ホトトギス》雑詠に入選。三高在学中,京大三高俳句会を結成,また鈴鹿野風呂(すずかのぶろ)らと《京鹿子》を創刊した。21年,20歳で《ホトトギス》巻頭を占め,早熟の華麗な詩才を謳(うた)われた。24年京大法学部卒。27年には第1句集《花氷(はなごおり)》を上梓,その句風は〈わび〉的俳句概念を払拭した才気煥発,清新瀟洒なモダニズムで,昭和俳句の先駆的役割を果たした。35年,俳誌《旗艦》を創刊,無季容認の立場から新興俳句運動の重鎮として活躍した。戦後は病床にあって49年《青玄》を創刊,人生的な深まりを示す清澄沈潜の句境に至った。〈高熱の鶴青空に漂へり〉(《人生の午後》1953)。
執筆者:川名 大
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俳人。東京生まれ。1917年(大正6)高浜虚子(きょし)の句に接して句作を始め、18年8月『ホトトギス』雑詠入選、24年『ホトトギス』課題句選者に、29年(昭和4)『ホトトギス』同人になる。この間第三高等学校、京都帝国大学法学部を卒業、27年には句集『花氷(はなごおり)』を刊行した。35年『旗艦(きかん)』創刊、新興俳句運動の最左翼にたち、俳句近代化を図り、翌年『ホトトギス』同人を除名された。新興俳句弾圧の嵐(あらし)のなかで41年『旗艦』指導者の地位を去る。戦災、戦後の苦労を経て49年(昭和24)『青玄(せいげん)』創刊。病苦のなかで清明な句をつくった。句集に『青芝』(1932)、『昨日の花』(1935)、『人生の午後』(1953)、『銀』(1956)など。代表句「高熱の鶴(つる)青空に漂(ただよ)へり」「見えぬ眼(め)の方の眼鏡の玉も拭(ふ)く」など。
[平井照敏]
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