明和(読み)めいわ

精選版 日本国語大辞典 「明和」の意味・読み・例文・類語

めいわ【明和】

江戸時代、後桜町・後桃園両天皇の代の年号。宝暦一四年(一七六四)六月二日に改元、明和九年(一七七二)一一月一六日に至って次の安永となる。出典は「書経‐堯典」の「百姓昭明、協和万邦」。

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デジタル大辞泉 「明和」の意味・読み・例文・類語

めいわ【明和】

江戸中期、後桜町天皇後桃園天皇の時の年号。1764年6月2日~1772年11月16日。

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改訂新版 世界大百科事典 「明和」の意味・わかりやすい解説

明和[町] (めいわ)

三重県中東部,多気郡の町。人口2万2833(2010)。町域の大部分が伊勢平野に属する沖積低地で,西部を櫛田川の分流祓(はらい)川が,中央を笹笛川がおのおの北流して伊勢湾に注ぐ。神前山(かんざきやま)古墳群,天皇山古墳群など多数の古墳や遺跡がある。伊勢神宮に奉仕した斎王の宮が置かれたところで,斎宮跡(史)の東方には水池土器製作遺跡(史)があり,神宮や斎宮寮に調進する土器を製作していたと考えられる。現在も蓑村に神宮の土器調製所がある。志貴御厨(しきみくりや),藤原御薗など神宮の御厨や御薗も多数置かれていた。江戸時代は神宮領のほか津藩領,鳥羽藩領,紀州藩領などが錯綜した。斎宮や明星などには参宮街道に沿って旅籠(はたご)や茶屋が立ち並んだ。農業は米作や施設園芸のほかラッキョウの産地で,沿岸部ではノリの養殖や貝類の産もある。また養川(ようかわ)には松阪木綿(みいと織)の伝統を受け継ぐ正藍染め綿布製造の工場もある。斎宮のハナショウブ群落は国の天然記念物。かつての参宮街道に沿って近鉄山田線が通じ,また国道23号線が走る。
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明和[町] (めいわ)

群馬県南東部,邑楽(おうら)郡の町。1998年町制。人口1万1209(2010)。利根川北岸の低地にあり,北は館林市,南は利根川を隔てて埼玉県羽生市に接する。川俣近世に利根川水運の河港日光街道の脇往還宿場町として栄えたが,東武伊勢崎線の開通後は衰微した。排水事業の進展とともに穀倉地となったが,東京都心から60km圏内にあるため近郊型農業に転換し,キュウリ,ハクサイ,トマトなどの生産が多い。シクラメンのハウス栽培,梨やブドウの果樹栽培も行われる。1972年の東北自動車道館林インターチェンジの開設以降,工場も進出している。
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日本の元号がわかる事典 「明和」の解説

めいわ【明和】

日本の元号(年号)。江戸時代の1764年から1772年まで、後桜町(ごさくらまち)天皇、後桃園(ごももぞの)天皇の代の元号。前元号は宝暦(ほうれき)。次元号は安永(あんえい)。1764年(宝暦14)6月2日改元。後桜町天皇の即位にともない行われた(代始改元)。『尚書(しょうしょ)』を出典とする命名。明和年間の江戸幕府の将軍は徳川家治(いえはる)(10代)。後桜町天皇は、1762年(宝暦12)に異母弟の桃園天皇が崩御した際、皇子の英仁(ひでひと)親王(後の後桃園天皇)が幼少だったため、成長するまでの中継ぎとして皇位を継ぐことになった。現行制度では女性皇族の即位を認めていないので、後桜町天皇が史上最後の女性天皇になる。後桜町は、1770年(明和7)に後桃園天皇に譲位した。1772年(明和9)2月29日、目黒行人(ぎょうにん)坂から出火、江戸の主要部分を焼き尽くす大火が発生した。明和の大火と呼ばれ、明暦の大火、文化の大火とともに江戸三大大火のひとつに数えられている。

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