映画やテレビで明治時代以前の時代を扱った作品の総称である。旧劇、髷物(まげもの)、チャンバラ映画、剣戟(けんげき)映画などともいう。大部分は源平時代から江戸時代までを扱い、とくに江戸時代に集中しているが、奈良時代、平安時代などを扱った若干の作品や、明治初期を扱った作品などもこれに含めてよぶ場合もある。日本映画が産業として成り立つようになった1910年(明治43)ごろから、産業として落ち込み始める1960年代のなかばごろまで、日本で大量生産されていた映画の半分はこの時代劇だった。以後、映画では製作本数も全体のなかでの比率も低下してくるが、テレビでは今日に至るまで重要なジャンルであり続けている。
[佐藤忠男]
日本で劇映画の製作が本格的に行われるようになったのは1907~1908年ごろからであると考えられるが、当時、時代劇の製作はおもに歌舞伎の小芝居一座の総出演によって、現代劇は新派の劇団の出演によって行われた。1908年(明治41)、京都の劇場主の牧野省三(しょうぞう)は横田商会の依頼で歌舞伎の一座をそっくり出演させて映画をつくったが、翌年、尾上松之助(おのえまつのすけ)一座でつくった『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』で松之助の豪傑ぶりが評判になり、松之助は一躍人気者となって、1926年(大正15)に亡くなるまでに1000本以上の時代劇に出演して日本映画史上最初のスーパースターとなった。
尾上松之助の時代劇は主として講談本による単純な英雄、豪傑、侠客(きょうかく)、忍者などの物語で、歌舞伎調で封建的な忠義の物語をおっとりと演じた。ファンはおもに子供である。1920年代なかばになると、これには飽き足らない勢力による時代劇の新しい動きが生じる。阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)がその代表的なスターで、権力に対する反逆や絶望といった主題もとりあげ、アメリカ映画的なスピーディなアクションで青年層をうならせた。こういう傾向で一つのピークとなったのは、1927年(昭和2)の伊藤大輔(だいすけ)監督・大河内伝次郎(おおこうちでんじろう)主演の『忠次(ちゅうじ)旅日記』三部作である。それまで日本映画は教養の低い階層の低俗な娯楽にすぎないとみられていたのだが、この作品が知識層の心も激しく揺さぶってから日本映画も芸術としてみられるようになったのである。
伊藤大輔と大河内伝次郎は、引き続き、『新版大岡政談』(1928)、『興亡新撰組(しんせんぐみ)』(1930)、『御誂治郎吉格子(おあつらえじろきちこうし)』(1931)などの傑作で、反体制的な激情をうたいあげた。この時期、時代劇は黄金時代を迎える。衣笠貞之助(きぬがさていのすけ)監督・林長二郎(のちの長谷川一夫)のコンビは『二つ燈籠(どうろう)』(1933)などの作品で歌舞伎の心中ものに通じる優美で情緒的なスタイルを示して女性ファンをうっとりさせたし、伊丹万作(いたみまんさく)監督は片岡千恵蔵主演の『赤西蠣太(あかにしかきた)』(1936)をはじめとする一連の喜劇で封建社会を風刺した。稲垣浩(ひろし)監督も片岡千恵蔵とのコンビで情感豊かな股旅(またたび)ものなどをつくり出した。『瞼(まぶた)の母』(1931)はその一例である。山中貞雄監督は軽妙なタッチで人情の機微を描いた。劇団前進座と組んだ『河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)』(1936)などの傑作がある。マキノ正博(のちにマキノ雅広と改名)監督は『鴛鴦(おしどり)歌合戦』(1939)で歌える俳優を集めて時代劇のミュージカル化を試みている。
1930~1932年は左翼運動の盛んな時期で、映画もこれに応じて百姓一揆(いっき)などを主題にした左翼的作品が盛んにつくられた。そして1939年(昭和14)の映画法公布によって映画界が政府の統制下に入ると、時代劇も国策に協力して、歴史映画と称して歴史を国家主義的な立場から描く作品が現れる。たとえば溝口健二(みぞぐちけんじ)監督の大作『元禄忠臣蔵』前後編(1941~1942)は、大石良雄(内蔵助(くらのすけ))が吉良義央(きらよしなか)(上野介(こうずけのすけ))への復讐(ふくしゅう)を朝廷がどう思うか悩むという、信じがたい勤皇忠臣蔵となった。アヘン戦争(1840~1842)など、イギリス帝国主義のアジア侵略もよくとりあげられた。
[佐藤忠男]
1945年(昭和20)の第二次世界大戦敗戦後、日本を支配したアメリカ軍は時代劇を封建思想の温床であるとして厳しく制限した。それは徐々に緩められたが忠義と復讐をうたう『忠臣蔵』は1952年に占領が終わるまで許可されなかった。占領期間中には時代劇の新しい展開があった。黒澤明監督、三船敏郎主演の『羅生門(らしょうもん)』(1950)は人間にとっての真実とは何かと問うドラマであり、これがベネチア国際映画祭でグランプリを受賞したことで日本映画は初めて全世界に知られるようになった。続いて『七人の侍』(1954)はかつてない迫力あるアクション映画として世界に知られ、トシロー・ミフネは国際的に著名な俳優として知られた。溝口健二監督、田中絹代主演の『西鶴一代女(さいかくいちだいおんな)』(1952)や『雨月物語』(1953)は日本の伝統的な美の結晶として、やはり世界的に高く評価された。
他方、占領終結とともにただちに立回りを見せ場とする古くからの大衆的時代劇は復活した。新しいスターも現れた。中村錦之助(きんのすけ)(のちの萬屋(よろずや)錦之助)と市川雷蔵は歌舞伎出身らしい端正な動きと朗々たる口跡で、勝新太郎は情念の赴くままの奔放さで確固たる芸風をつくり、人気を得た。中村錦之助の代表作は内田吐夢(とむ)監督による『宮本武蔵(むさし)』五部作(1961~1965)、市川雷蔵は溝口健二監督による『新・平家物語』(1955)、勝新太郎は『座頭市(ざとういち)物語』シリーズ26作(1962~1979)であろう。黒澤・三船の時代劇は世界の知識層にサムライのイメージを定着させたが、勝新太郎のこのシリーズは第三世界に広く受けた。ハンディのある貧しい男が実はどんなやくざよりも強いというメッセージが共感されたのである。
映画が産業的に衰退し始める1960年代になると、時代劇は製作費のわりに儲(もう)からないということになって製作本数はぐっと少なくなる。大衆娯楽映画のいちばん大きな流れだった立回り中心のいわゆるチャンバラは、現代劇としての任侠映画、やくざ映画にとってかわられて、テレビに一部受け継がれただけで消えていく。しかしそれで時代劇がすべてなくなったわけではない。黒澤明は壮大な歴史劇として『影武者』(1980)と『乱』(1985)で世界的な名声を保った。篠田正浩監督の『心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)』(1969)は、近松門左衛門の世界を今日の感覚でとらえ直す貴重な試みであった。侍ややくざの物語だけでなく、民衆の生活が描かれるようになったのも新しい動きといえよう。姥捨(うばすて)山伝説による深沢七郎の小説『楢山節考(ならやまぶしこう)』は木下恵介監督によって1958年にいちど歌舞伎的な様式で映画化されて秀作になったが、1983年には今村昌平(いまむらしょうへい)によってまた別な民俗的な興味を豊かに取り入れた映画になった。『影武者』と今村昌平監督の『楢山節考』はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞している。1989年(平成1)の熊井啓監督の『千利休(せんのりきゅう) 本覺坊遺文(ほんがくぼういぶん)』は茶道の祖利休の晩年を三船敏郎が大きな風格で演じた。1999年の大島渚監督の『御法度(ごはっと)』は新撰組にゲイの人間関係の問題を盛り込んだ異色の時代劇である。2000年(平成12)の神山征二郎(こうやませいじろう)(1941― )監督の『郡上一揆(ぐじょういっき)』は江戸時代の最大の百姓一揆の一つをかつてない本格的な民衆史のドラマとして描いている。時代劇は商業的には衰えたが内容的にはいっそうの広がりと深まりをもてるようになってきているのである。
これまでの時代劇の大部分は英雄、豪傑、反逆者、侠客などの血なまぐさい闘争の物語を扱ってきた。例外的に溝口健二や今村昌平の作品で娼婦(しょうふ)や農民や商人が大きく扱われている程度であった。1964年(昭和39)の山本周五郎原作、野村孝(のむらたかし)(1927―2015)監督の『さぶ』では経師屋(きょうじや)の職人の男たちの友情が物語の中心になっていたが、これは例外的な作品である。
1990年代になって藤沢周平(ふじさわしゅうへい)の時代小説が評判になると、時代劇の流れも少し変わった。彼の小説は従来のように英雄本位でなく、官僚や役人としての武士の日常生活なども極力現実的に描こうとするもので、この流れを映画に定着させたのは山田洋次監督の『たそがれ清兵衛(せいべえ)』(2002)である。武士の見直しはさらに進む。2010年の森田芳光(もりたよしみつ)(1950―2011)監督の『武士の家計簿』は金沢藩に経理専門で仕えた武家のホームドラマであり、2012年の滝田洋二郎(たきたようじろう)(1955― )監督の『天地明察』は、江戸時代に日本独自の暦をつくった算術家の物語で、ともに立ち回り抜きの新しい時代劇である。
[佐藤忠男]
『佐藤忠男・吉田智恵男編著『チャンバラ映画史』(1972・芳賀書店)』▽『伊藤大輔著、加藤泰編『時代劇映画の詩と真実』(1976・キネマ旬報社)』▽『稲垣浩著『日本映画の若き日々』(1978・毎日新聞社)』▽『永田哲朗著『殺陣――チャンバラ映画史』(1993・社会思想社)』▽『佐藤忠男著『日本映画史』全4冊(1995・岩波書店)』▽『京都映画祭実行委員会・筒井清忠・加藤幹郎編『時代劇映画とはなにか――ニュー・フィルム・スタディーズ』(1997・人文書院)』▽『筒井清忠著『時代劇映画の思想――ノスタルジーのゆくえ』(2000・PHP研究所)』▽『名和弓雄著『時代劇を斬る』(2001・河出書房新社)』▽『岩本憲児編『日本映画史叢書 時代劇伝説――チャンバラ映画の輝き』(2005・森話社)』▽『川本三郎著『時代劇ここにあり』(2005・平凡社)』▽『小川順子著『中部大学学術叢書 「殺陣」という文化――チャンバラ時代劇映画を探る』(2007・世界思想社)』▽『佐藤忠男著、野沢一馬企画・構成『意地の美学――時代劇映画大全』(2009・じゃこめてい出版)』
…〈現代劇〉に対して,平安時代から明治維新前後までの過去の〈時代〉を題材にした演劇,映画,テレビドラマなどを総称して時代劇という。その〈時代〉の衣装を着た人物が登場するという意味で英語の〈コスチューム・プレーcostume play〉という呼称がこれに相当する訳語として使われる場合が多い。…
…日本の映画俳優。約半世紀にわたる映画人生を時代劇にほぼ徹して生きぬき,第2次世界大戦以前には,眼光鋭く気迫に満ち,ときには鬼気さえ感じさせる時代劇映画のヒーローとして,美男型スターが多いなかで異彩を放ち,戦後には,渋みと風格のある名脇役として活躍した。本名は門田潔人(もんでんきよと)。…
…この間,11年,フランスの探偵活劇《ジゴマ》がブームとなり,12年ころには実演と映写を組み合わせた連鎖劇が流行し,15年以降,アメリカの連続活劇が大人気を博したが,牧野省三の映画づくりも,それらのもつ魅力のあり方と無縁ではなかったと思われる。牧野省三は20年,人気で高慢となった尾上松之助を牽制する意味もあって,松之助映画を日活京都の〈第1部〉とし,市川姉蔵を主役とする同工異曲の映画を〈第2部〉としてつくりはじめつつ,翌21年,日活から独立して,やがて時代劇革新の大きな担い手となる。プロデューサーおよび監督として,映画を実写から劇作品へと飛躍的に発展させ,科学的見世物の域から確固たる大衆娯楽の座へすえたことから見れば,牧野省三は,単に草創期の日活で大きな功績を果たしただけではなく,日本映画全体の礎を築いたといってよい。…
※「時代劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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