知恵蔵 「普天間基地」の解説
普天間基地
敷地内には、幅46m・長さ約2千700mの滑走路、および管制塔・格納庫・修理施設・ガソリン補給施設等が設けられている。湾岸戦争やイラク戦争の時には、嘉手納空軍基地とともに出撃の拠点となったが、最近は施設の老朽化が問題になっている。
1945年、沖縄戦の最中にアメリカが用地を接収し、陸軍基地として建設したのが始まり。60年に海兵隊に移管され、72年の沖縄返還時も日本が米軍に提供するかたちで存続が決まった。基地面積の約9割は私有地で、現在も約2千800人の地権者がいる。以前から、事故の危険と騒音に苦しむ周辺住民の間では基地閉鎖を求める声が上がっていたが、普天間基地は米軍の極東・中東戦略の重要拠点であるため、実現は困難と見られていた。
しかし95年、米兵の少女暴行事件をきっかけに、県全体で基地反対運動がわき起こると、日米両政府で沖縄の駐留軍全体についての見直しが始められた。翌96年3月、両政府は5~7年以内に返還することで合意。ただし、県内にヘリポートを含む代替施設を建設することが条件とされた。同年11月、移設の候補地として、名護市キャンプ・シュワブの辺野古沖が浮上。「県内たらい回し案」は県民の反発を招いたが、98年の名護市長選で、移設容認派の岸本健男市長が当選し、2002年には県・市ともに辺野古沖合の基地建設計画を受け入れた。
04年8月、沖縄国際大学の敷地に米軍ヘリが墜落する事件が起こると、移設計画は加速。両政府は最終的な「ロードマップ」の策定に入り、06年5月、辺野古沿岸に2本のV字形滑走路を持つ海上基地を建設すること、約8千人の海兵隊員をグアム基地に移すことで合意に達した。
(大迫秀樹 フリー編集者 / 2009年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報