木市(読み)いばらきし

日本歴史地名大系 「木市」の解説

木市
いばらきし

面積:七五・一五平方キロ

大阪府の北東部に位置し、北摂山地に源流をもつ安威あい川と、佐保さほ川・勝尾寺かつおじ川の合流した茨木川(現在は安威川に合流して大部分が廃川)の流域を占める。東西八・六キロ、南北一七・三キロの細長い地で、北は北摂山地を隔てて京都府の亀岡かめおか市に接し、南は大阪平野の北部に属する。近世の在郷町茨木を中心に昭和二三年(一九四八)に市制を施行、その後、西隣諸村との分村合併や北部山間の諸村を加えて、同三五年に現在の市域となった。市域はかつての島下しましも郡の過半を占め、茨木の地名は正治二年(一二〇〇)一一月三日の神国正田地売券(勝尾寺文書)に「島下郡中条茨木村」とみえるのが早い。蕀切・(同文書)蕀木(陰徳太平記)などとも書くので、地名はイバラの木の繁茂地であったことに由来するといわれている。また「日本霊異記」上巻第二七話に、私度僧の石川沙弥が島下郡の「味木里」で死んだ話があり、味木をウマキと読み、イバラキはこのウマキがウマラキ―イバラキと転訛したものといわれるが(大日本地名辞書)、味木里については諸説がある。

〔原始〕

市域では二個のサヌカイト製のナイフ形石器が太田おおだで拾われているが、先縄文遺跡としては確認されていない。縄文遺跡も大阪平野を望む北摂山地の南辺、耳原みのはらの耳原遺跡から縄文晩期の甕棺墓が発見されているだけである。弥生時代に入ると、耳原遺跡のほか茨木川下流域の東奈良ひがしなら遺跡から前期の遺物が出土、後期の集落遺跡として安威川流域の太田・総持寺そうじじ溝咋みぞくい、茨木川流域のこおり中条ちゆうじよう小学校・東奈良の各遺跡があり、市内のほぼ全域に弥生集落が形成されていたといえる。とくに郡遺跡は大規模なもの。また東奈良遺跡からはほぼ完形の銅鐸鋳型が発見され、専門的な鋳造技術者の存在と広域にわたる交流を示す遺跡として知られている。前期古墳には紫金山しきんざん古墳と将軍山しようぐんやま古墳がある。前者からは豊富な副葬品が出土、後者は全長一一〇メートルにおよぶ前方後円墳で、前期古墳を代表するものである。中期古墳には継体天皇陵に治定されている茶臼山ちやうすやま古墳があるが、継体期のものとしてはやや古い形態をもつことから、東隣高槻たかつき市の今城塚いましろづか古墳を同天皇陵とする説もある。当地方の中期古墳はこの二基を取巻くようにわずかに存在するのみで、大首長のもとに地域統合が進められていたといえる。横穴式石室をもつ後期古墳は、千里丘陵から北摂山地南辺の丘陵地に多い。群集墳もほぼ同地域にみられ、後期古墳の宝庫ともいえる地域である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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